4話 街の澱へ
石畳を叩く自身の皮纏の音が、これほどまでに耳障りだとは思わなかった。
王国騎士図書館の裏門を抜けてから、どれほどの時間を歩いただろう。
振り返れば、先ほどまでいた白亜の尖塔が、夜霧の向こうで巨大な墓標のように霞んでいる。
清潔な檻を棄てて一歩、また一歩と坂を下るにつれ、肺に吸い込む空気の重みが変わっていくのが分かった。
鼻を突くのは、古い油が酸化したような臭気と、湿った煤の異臭。
魔導燈の光はもはや規則正しく並んではおらず、硝子障の割れた灯火が、不規則な瞬きを繰り返しては路地の闇を深めていた。
私は頭巾を深く被り直し、懐にある「銀色の包み紙」と「銀の鍵」の感触を確かめた。
司書として蓄積してきた情報の欠片が、脳裏で編み上げられていく。
禁忌の系譜。それは正典のどこにも記されていない、消し忘れた染みのような記憶。
かつてヘレナさんが、貸出台帳の余白にまるでお伽噺の禁忌のように書き残していた、私的な覚え書き。
――魔力糖。
世界の不具合を吸着し、正気を繋ぎ止めるための劇薬。
その供給源が、この澱のどこかにあるはずだ。
図書館の「正典」を管理する立場であった私にとって、それは決して触れてはならない、分類不能な汚濁であった。
しかし、今の私は、その汚濁こそが、この漂白された世界で唯一、確かな熱量を持った真実のようだった。
足元の石畳は、いつの間にか欠け、泥にまみれ、ところどころが不自然な剥落を露呈させている。
本来あるべきはずの地面が、粗悪な絵画の絵具が剥がれ落ちたかのような、底の見えない虚無へと通じていた。
暗がりの中から、何かが這いずるような粘着質な音が聞こえた気がして、私はひどく短くなった呼吸を必死に押し殺す。
――見ていたのなら、忘れろ。
あの男の、地を這うような声が蘇る。
忠告に従うには、すでに遅すぎた。
男の背中に宿る「孤独な色彩」を捉えてしまったその時から、セリス・ティアネという司書は死んだ。
そして今、私は中身を奪われたあの蔵書たちと同じ、行き場のない「余白」へと成り果てている。
不意に、背後から不自然な音が重なった。
チ、チ、チ……。
それは、夜の静寂を刻む規則的な時計の音。
一つではない。
無数の、それでいて微妙に速度の異なる秒針が、不揃いな鼓動を打ち鳴らしている。
石畳を叩く、硬質な皮纏の音が、背後の闇から急速に近づいてきた。
「おやおや。今夜の『剥落予報』は最悪ですよ? ――喪という名の死神が、ずいぶんと腹を空かせていますからね」
耳を撫でるような、不敵で、軽薄な声。
私は弾かれたように振り返えると、そこには影の中から染み出すように現れた一人の男が立っている。
白金を混ぜ込んだような、色味の薄い髪を横だけ鋭く刈り上げ、派手な刺繍が施された円筒帽を被った異様な風体。
その胸元には、何枚も重ね着された袖無し《そでなし》から、無数の懐中時計が鎖でぶら下がっている。
その男は、真鍮製の杖を回しながら、異なる色彩を宿した双眸で私を射抜いた。
「お嬢さん、その真っ白な本を抱えてどこへ? 死神の喉元に剥製を施すような趣味にしては、ここは少しばかり腐敗が進みすぎているのでは?」
男は細めた双眸で、私の腰にある小袋と、何もないはずの私の背後を交互に眺め、まるで見えない獲物でも見つけたかのように愉快そうに唇を歪めた。
その異様な視線の先に何があるのか、私には分からない。
ただ、射抜くような金の瞳と、底の知れない紫の瞳に晒されているだけで、肌が粟立つような不快感がせり上がってくる。
「おやおや、その銀の鍵。この街の澱ではあまりに眩しすぎる。……食われる前に、案内が必要ではありませんか?」
男を前に、私は後ずさりしながら、懐の銀の鍵を固く握りしめた。
自身の内側で鳴り止まない臆病な鼓動を、すでにすべてを捨てたという虚無感で力任せに押さえ込み、震える声を抑え込む。
「……リリィ・ガナッシュの店を、探しているわ。知っている?」
その瞬間、口元に張り付いていた不敵な笑みが、まるで硝子細工が砕けるように消え去る。
回していた杖がピタリと止まり、不揃いな時計の音さえも、一瞬の静寂に飲み込まれたように感じた。
男は目を剥き、その金の瞳に信じがたいものを見たかのような動揺を走らせる。
唇がわずかに震え、次に吐き出すべき言葉を脳内から必死に手繰り寄せるような、空白の時間が生まれた。
「……驚きましたね」
男は吐息のように漏らした。先ほどまでの余裕は剥がれ落ち、声の温度が一段、いや、数段も低く沈む。
「お嬢さん。その名は、この街の澱を幾ら掻き回しても、普通の人間が辿り着ける場所には落ちていない。……あんた、何者だ?」
男の視線が、私の腰に下がった「銀の鍵」に釘付けになっているのに気づいた。
あの人を救うための道標だと思っていたこの鍵は、この男にとっては、騎士団が隠匿し続けてきた「禁忌の書庫」を暴くための、何よりも価値のある獲物なのだろう。
彼は円筒帽の縁を指先で弾き、私という存在を「莫大な禁忌を引き出すための呼び水」として見定めたような、暗い情熱を瞳に宿した。
私は、怯えを覚悟で塗り潰し、真っ直ぐに男を見据えた。
この男が何者かも分からない以上、安易に素性を明かすわけにはいかない。けれど、この底知れない闇に呑み込まれないためには、自分の依り代となる「言葉」が必要だった。
「……昨日までの世界を捨てて、ここへ来たわ。それ以上のことは、あなたに話す必要はないはずよ」
男は私の拒絶を聞くと、面白くてたまらないといった風に肩を揺らした。その視線は私の顔ではなく、指先に残ったインクの染みや、腰に下げた銀の鍵、そして隠しきれない司書特有の立ち居振る舞いを執拗に舐めとっている。
「おやおや、つれないですね。……ですが、その指、その鍵、そしてこの澱にそぐわない整った呼吸。……ふむ。白亜の塔で一生を終えるはずだった『記録の奴隷』が、よほどの禁忌を抱えてここまで転がり落ちてきた、といったところですか」
男は私の反応を楽しむように、胸元の時計をカチャリと鳴らした。彼は私の過去を知っているのではない。私の身体に染み付いた「司書の臭い」から、私が何をしでかしたのかをその場で瞬時に編み上げたのだ。
「ふむ……。まあ、名前なんてものは後でいい。……それで、あの灰色の魔女に会いたいと? ――いいでしょう。価値ある情報の取引は、私の大好物だ」
彼は恭しく、しかしどこか突き放すような優雅さで一度だけ頭を下げると、杖で路地の先、さらに深く沈殿した闇を指し示した。
「私の名前は、ジギタリス。ようこそ、世界の余白へ。司書さん、ここから先は『正典』のどこにも記されていない物語だ。……右腕に死神を飼い、理を喰らう刃。
絶蝕を振るう、あのゴミ拾いに会いに行こうじゃありませんか!」
彼の周囲に響く不揃いな秒針の音が、心臓の鼓動を狂わせる。
私は、逃げ場のない闇の中、毒を纏った道標に従うしかなかった。
二人の影が、深い澱の中へと溶けて消えていった。




