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絶蝕のアルカイヴ  作者: 天色うさぎ
反逆の記述者編

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37話 救済


 ――鳴動めいどう

 肌を粟立たせていた石造りの空間が、地響きのような唸りを上げて激しく震える。



 現実へと引き摺り下ろされたばかりの私の視界の先、何もないはずの虚空に、一条の裂け目が走った。



 空間の断絶。

 バリ、と鼓膜を灼くような不快な音が爆ぜる。その亀裂の向こうから、私をここへ誘い出したあの濃厚な『喪』の残香が、あの日と同じ泥の匂いを伴って吹き荒れた。



「エルヴィン……!」



 掠れた声が、自分の喉からこぼれ落ちる。


 引き裂かれた空間の障壁しょうへきを抉り開け、姿を現したのは、深い灰色の外套を纏った黒髪の追放者だった。



 裾はボロボロに擦り切れ、右腕の袖は乱雑にまくられている。


 露出した黒鉄の鉄手甲てっしゅこうは、内側に吸着した不具合を吐き出すかのように、カシャカシャと装甲をスライドさせ、青い光を漏らしながら展開していた。


 腰の鞘から引き抜かれた、根元から折れ曲がった軍刀。



 抜刀と同時に、その折れた先から漆黒の揺らぎが実体を補完するように不気味な刃の形を形成していく。


 ああ、私のよく知る、エルヴィンだ。



 彼の瞳は、すでに赤色へと変色している。

 奥歯で魔力糖だいしょうとうを噛み砕く余力すらもう残されていないのか、彼の視線は定まらず、ただ私とクレイオスを見つめていた。



「セリスを、返し、てもらう」


 掠れきった、しかし狂おしい執着に満ちた声がエルヴィンの唇から漏れる。


 その声に応じるように、彼の胸元に下がった大きな銀の首飾りが、ドロドロとした粘着質な泥のような質感を帯びて蠢き始めた。


 私の存在に引き寄せられ、亡霊がその口を開こうとしている。



「遅かったな、エルヴィン。自意識の堤防が決壊しかけている」



 クレイオスが静かに一歩、前へ進み出る。

 風もないのに、彼の沈黙の外套が冷徹にひるがえる。



 クレイオスの手には、双頭の長槍が、冷たい光を放って握られている。


「選べ、エルヴィン・ラグナ・ゼノヴィア」



 長槍の石突が、石畳を硬質に叩く。

 その音が、私の胸の奥の魔力糖の残痛を再び呼び覚ました。



「お前が今も頑なに抱き締めている、名前も顔も身体も失ったその銀の檻の亡霊か。それとも、お前を未来へ繋ぎ止めるためにそこにいる、生きた記述者か。どちらが大事なのか、ここで正しく選択しろ」



「俺、は……」



 エルヴィンは折れた軍刀を構えたまま、かすかに呻く。



 その視線は、私の姿と、胸元の蠢く首飾りとの間で、まだらに浸蝕された脳髄を掻き毟るように激しく揺れていた。



「言ったはずだ。私は、世界を初期化し、再定義するとな。私はその元凶たる首飾りを漂白し、お前を救済する。その亡霊を壊し、生きた器にお前の心を置き換えろ。それが、私が与える最後の指南だ」



 クレイオスの瞳に宿る銀色の光が、圧倒的な威圧感となって空間を圧殺する。



 生殺しの拷問に耐え続けてきた愛弟子を、その肉体ごと無力化し、すべての不具合を根絶やしにするための、無慈悲な一歩が踏み出された。




 ――火花ひばな





 石造りの空間を裂いたのは、鉄と鉄が噛み合う、硬質で、あまりにも凶暴な物理の鳴動。



 エルヴィンが踏み込んだ地響きのような一歩。


 折れた軍刀の先から補完された漆黒の揺らぎが、空間ごとクレイオスを切り裂かんと、死線まで肉薄する。



 速い。

 私の記述者の眼ですら捉えきれない、一撃必殺の制動。


 瞬間。

 ガ、ン、と、鼓膜を震わせる重低音。



 クレイオスの双頭の長槍は、微動だにせぬ佇まいのまま、その狂犬の牙を正面から完璧に受け止めていた。



 白銀の騎士団を率いた総帥の武の型。

 それはエルヴィンがこれまでの人生で叩き込まれてきた、彼自身の骨肉そのもの。



「応えないのか、エルヴィン。お前が握るその刃は、誰を救うためのものだ」



 クレイオスの冷徹な問いが、激突の風圧と共に空間に響く。



「……あ、……く、っ……!」



 エルヴィンは応えない。

 否、応えるだけの自意識が、すでに残されていない。



 まだらに侵食された脳髄が、ただ私を守るという本能の命令だけで、ボロボロの肉体を駆動させている。



 鉄手甲てっしゅこうから吹き出す青い放熱の蒸気。



 強引に刃を押し返し、二撃、三撃と、焦燥の熱のままクレイオスに軍刀を叩きつける。



 しかし、そのすべてが、長槍によって虚空へと受け流されていく。


 子供をあしらうかのような、圧倒的な技量の断絶。


「忘却は罪だ。己が何を失ったかも分からぬまま、何故その檻に泥を食わせ続ける」



 クレイオスの一突き。

 閃光のような長槍の石突いしづきが、エルヴィンの右肩を正確に、冷酷に穿うがった。



 ボロ切れのように石畳の床へと吹き飛ぶ灰色の外套がいとう



「……が、は……っ!」



 どろり、と。

 倒れ伏したエルヴィンの右腕、鉄手甲の隙間から、粘着質な不具合の痕跡――『』の泥が床へと滴り落ちる。



 誰の目にも、限界だった。

 魔力糖だいしょうとうの熱量すら尽きかけ、瞳の赤色は濁り、彼は立ち上がることすら満足にできず、泥濘ぬかるみに這いつくばるようにして、それでも私の方へ、血の滲む左手を伸ばそうとする。



 その時。

 彼の胸元で、銀の首飾りが、主の情愛の揺らぎに呼応してドロドロと、おぞましく脈動した。



 それは人の形をしていない。

 ただ意味の抜け殻となった、貪欲な化け物の苗床。


 それが、生きた器である私を喰らおうと、実体を持たぬ泥の触手となって虚空へとうごめき出す。



「ひ……っ、あ……」



 身体が、恐怖で動かない。

 私は記述者だ。世界の綻びを観測し、記録する能力を持っているはずだった。



 だが、目の前にいるクレイオスは、世界の理そのものを捻じ曲げ、再定義しようとしている規格外の存在。



 彼が展開する記述の改竄かいざんの絶対的な術式の前では、私の観測など、ただ濁流に呑まれる木の葉に等しい。



 為す術もなく、ただその場にへたり込み、迫り来る泥の恐怖に震えることしかできない。



「やはり、その亡霊はここで完全に漂白せねばならんな」



 クレイオスは蠢く泥の触手を、長槍の一振りで一文字に切り裂いた。



 激しい残香を巻き散らしながら、泥が床へと霧散していく。



 クレイオスは、這いつくばるエルヴィンのうなじへ、冷徹に長槍の刃先を突きつけた。

 いつでもその命を、首飾りごと消去できる絶対の制圧。



「私は、世界を初期化する。エルヴィン、お前の心をその生きた人間セリスへ置き換える。それが、私が私に課した、最後の救済だ」



 突きつけられた『救済』という名の終わり。


 クレイオスの手が、エルヴィンの胸元から銀色の大きな首飾りを無慈悲に毟り取る。



 その瞬間、エルヴィンの肉体が、魔力糖だいしょうとうの熱量を完全に失って冷たい石畳へと崩れ落ちた。



「……く、あ……」



 自意識の堤防が決壊し、濁った灰色の瞳から、光が急速に消え失せていく。



 クレイオスは奪い取った首飾りへ双頭の長槍を向け、冷徹なことわりの術式を展開した。白濁した光が、蠢く泥を漂白せんと圧殺していく。



 だが。

 ガチリ、と世界の歯車が不気味に空転する。

 漂白の光を押し返すように、首飾りの奥底から湧き上がる、粘着質な泥の怨嗟。


 バキ、と、空間の理そのものがへし折れるような異音が石造りの空間に響いた。


 それは、完全なる漂白の術式を注ぎ込まれながらも形を失わなず、むしろクレイオスの白濁した光を内側から濁らせていく。



「……何、だと?」



 初めて、絶対の師の銀色の瞳が、驚愕に大きく見開かれる。



 完璧な正解であり、世界の理の権化たる男の口から漏れた、あり得ざる動揺の響き。


 それは、クレイオスの冷徹な記述かいざんすらも容易く喰い破る、あまりにも肥大化した『』の拒絶反応。



「……一人の記述では、時間が足りない。あなたがそういったんですよ、クレイオス」



 震える声を絞り出し、私は這いつくばったまま男を睨み据える。


 男は驚愕の余韻を隠すように、その端正な眉を不快そうに微かに歪めた。


 世界を初期化するだけの時間を、この不具合の泥は、彼に容易くは与えてくれない。完全なる救済《漂白》を完了させるには、この場から離れ、深く理を綴り直す必要があった。



 クレイオスは冷徹な銀色の瞳を、床に這いつくばるエルヴィンへと向ける。



 長槍の刃先はエルのうなじを捉えていたが、男はその刃を、静かに引き戻した。



 彼にとって、最高傑作であるエルヴィンを殺す理由など、どこにもないのだ。



「エルヴィン。これはもらっていくぞ。その生きた器の傍らで、己の浅ましき執着が消えるのを待つがいい。名前も、顔も、あの泥の残香すらもすべて忘却し、ただの抜け殻となった時、お前は本当の無瑕むかとなる」



 翻る沈黙の外套がいとう

 男の姿は、奪われた首飾りとともに、白濁した光の向こうへと掻き消えていった。



 残されたのは、静謐な空間の冷気。



「エルヴィン……、エルヴィン!」



 私は魔力糖の残痛に喘ぐ身体を無理やり引き摺り、彼のボロボロの灰色の外套へと縋り付く。



 意識を失いかけた彼の左手が、虚空を彷徨い、私の端切れを、狂おしいほどの焦燥のまま強く、強く握りしめた。



 何を失ったのかすら、もう彼の脳髄には残されていないのかもしれない。



 それでも、この手甲の鳴動と、指先の強張りだけが、消えない祈りの証明。



 私は涙を拭い、彼の冷え切った手を両手で包み込む。


「エルヴィン、あなたはまだ死んじゃいけない」


 ありったけの記述を彼に。

 自分の指先の感覚が次第に薄れ、彼に触れている境界が曖昧になっていく。



 私は、あなたの記述者アルカイヴだから。

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