36話 真実
突き放された真実の重さに、息をすることすら忘れてしまいそうになる。
胸の奥にはまだ、エルヴィンが噛み砕いた魔力糖の、消えない鈍痛がドクドクと拍動を続けていた。
その私の痛みを、見透かすように。
沈黙の外套を纏った男――クレイオス・バルトフェルトは、ただ静かに、冷徹な手をこちらへと差し伸べた。
「分かったろう、セリス嬢。お前が今その身に刻んだのは、奴がこれまでの月日で幾千、幾万と奥歯で噛み砕いてきた、生殺しの拷問の味だ」
重厚な声が、石造りの空間の冷気を震わせる。
「エルヴィンが喪をその右腕に取り込み、騎士団を追放されたあの日。私は誰よりもその不条理を嘆いた。彼を泥濘に突き落として平然と息を巻くこの世界と、我が最高傑作を救う術を持たなかった己の無力に、私は心の底から絶望したのだ」
クレイオスの瞳に、銀色の鏡のような冷たい光が宿る。
「奴の行っている足掻きは、救済などではない。世界の不具合を右腕の鉄手甲に吸着させ、ただその日暮らしの延命を貪る行為。それは、ただ苦痛を長引かせるだけの、世界で最も残酷な拷問だ。奴の脳髄はすでに斑に侵食され、救おうとした幼なじみの名すら粘着質な泥の中に溶け落ちている。お前は、あそこまで壊れた男に、まだあの地獄を続けろと言うのか」
「それ、は……」
反論の言葉が、喉の奥で魔力糖の苦味と共に固まる。
あの地下図書館の最深部で見た、エルヴィンの後ろ姿。あの痛みを、私は知ってしまった。
「私は世界を初期化する。一度すべてを無に帰し、不具合のない完璧な世界として再構築する。……だが、私一人の記述では時間がかかり、成功率も低い」
クレイオスがさらに一歩、私へと肉薄する。
差し伸べられた白銀の手が、私の視界を覆い尽くさんばかりに迫る。
「セリス嬢。お前ほどの優秀な記述者が私と共に理想を綴れば、世界は完璧に再定義される。エルヴィンはもう、これ以上苦しまなくていい。あの男の魂を、その悍ましき泥の呪いから、無傷のまま解放してやれるのだ。私と共に、本当の『救済』を記述しろ」
男の圧倒的な正論と、エルヴィンへの情愛が、私の心を激しく揺さぶる。
従えば、あの人は救われるのかもしれない。これ以上の苦痛を、味合わずに済むのかもしれない。
私の記述者としての眼が、クレイオスの差し伸べた「漂白の誘い」の甘美さに、わずかに眩みかけた、その瞬間――。
胸の奥で、熱い塊が逆流する。
胃を灼き切るような魔力糖の残痛が、私の肥大した羨望を、そしてこれまで抱いてきた甘い思い込みを容赦なく叩き潰していった。
――私は、間違えていた。
この男のことを、エルヴィンを奈落へ突き落とした冷酷な仇敵だと、世界の理の権化だと信じ込んでいた。
だが、現実はどこまでも不条理で、どこまでも残酷だ。
目の前に佇む元総帥は、エルヴィンを誰よりも慈しみ、その魂を世界の不具合から引き剥がすためだけに、現世のすべてを敵に回して泥を啜ろうとしている。私以上に、あの壊れてしまった背中に深く絶望し、深く執着している一人の人間に過ぎない。
向けられた白銀の手は、私を陥れるための罠ではない。あの男の命をこれ以上の苦痛から引き摺り上げるための、狂おしいほど純粋な情愛の証明だった。
「……なぜ、それを、あの人に直接言わないのです」
震える膝を石畳に擦り付けながら、私はクレイオスを睨み返す。涙が床へと滴り、冷たい石に吸い込まれて消えた。
「あの人は今も、泥の残香を纏いながら歩き続けている。名前も顔も、その指先から零れ落ちていく不条理のなかで、ただ一つの祈りだけを握りしめて。それを……なかったことにするのが、あなたの理想なのですか」
「そうだ。記憶の抜け殻に縋る日々など、意味の抜け殻に過ぎん。美しき無瑕のまま、私の創る新世界へ連れていく。それ以外に、奴を眠らせる術はない」
クレイオスの言葉には、一片の揺らぎもない。
対話の密度が極限まで煮詰まり、この静謐な空間の空気が、まるで、あの粘着質な泥のように重く私の全身を縛り付ける。
差し伸べられた白銀の手が、網膜の先で静止している。
拒絶の言葉を紡ごうにも、喉の奥にこびりついた魔力糖の残痛が、呪縛となって呼吸を塞ぐ。
目の前の男は、世界のすべてを敵に回してでも、その巨大すぎる情愛で最高傑作を無瑕へ漂白せんとしている。
その歪な正論の前に、私はただ、震える膝を石畳に擦り付けることしかできない。
「……答えを拒むか、セリス嬢。いや、記述者。」
クレイオスが静かに目を細める。
差し伸べられた手の指先が、微かに動きを止めた。
男の背後に控える沈黙の外套が、冷徹な理の重圧となって、この静謐な空間の重力をさらに一段、深く、深く沈めていく。
この圧倒的な書き換えの術式の前では、言葉を持たぬ目撃者に過ぎない。
終わりのない、窒息しそうな泥の静寂。
だが。
その張り詰めた世界の境界線が、不意に、内側からメキメキと奇妙な軋み声を上げた。
――カチ、と。
耳の奥で、鉄と鉄が噛み合う、不吉な空転の音が聞こえた気がした。
それは幻聴ではない。
クレイオスの銀色の瞳が、初めて私から逸れ、何もない虚空の一点へと鋭く向けられる。
鼻腔を突いたのは、あの地下図書館の最深部で嗅いだ、狂ったように濃厚な澱の残香。
世界に、ヒビが入る。




