35話 理想
――ガチリ、と。
奥歯の根元が圧殺されるような、硬質な破砕音が脳髄を直接震わせた。
爆発的に広がったのは、舌を焼き切るほどの悍ましき苦味。
それは己の命を削り、世界の綻びを繋ぎ止めるための力――魔力糖の、あまりにも凶悪な毒性そのものだった。
「……あ、ガ、く……っ!」
凄まじい激痛が喉を駆け抜け、胸の奥が引き裂かれる。
自らの肉体が、エルヴィンが味わった生殺しの拷問をそのまま受信して悲鳴を上げていた。
その痛みの絶頂のなか、視界を埋め尽くしていた白銀の過去が、ガラス障が割れるように一気に崩壊する。
深い井戸の底から、痛みの蔓で一気に引き摺り上げられるような、強烈な眩暈。
――私は、現実に、戻ってきた。
「……はっ、……は、ぁ、く……」
胸元を強く掻きむしり、冷徹な床へと転がり込む。
口内に残る苦味は幻聴のようなもののはずなのに、喉が拒絶反応で痙攣し、涙がボロボロと溢れて止まらない。
肌を刺すのは、下層街のあの生暖かい湿り気ではない。肌を粟立たせるのは、静謐で、どこか非現実的なほどに冷え切った、石造りの空間の空気。
あの過去の記憶の中で、エルヴィンの大きな手がしっかりと握りしめていた、ただの、美しい、普通の銀の首飾り。
だが、その痛ましい祈りを知った直後だからこそ、突き放された現実の寒々しさが、心髄を深く抉る。
「目覚めたか、記述者」
重厚な、しかしどこか静謐な響きを持つ声。
それが、薄暗い空間の輪郭を決定づけた。
涙の手を払い、這いつくばったまま見上げる。
そこには、風に吹かれてもピクリとも揺らがない、沈黙の外套を纏った男が、ただ静かに佇んでいた。
元・王立騎士団総帥、クレイオス・バルトフェルト。
黒く染まった彼の甲冑の胸元には、先ほど記憶の底で見たはずの首飾りは、どこにもない。
虚無を映す銀の鏡のような瞳。
見下ろすその眼差しに捉えられただけで、魔力糖の残痛とは異なる恐怖が、全身の血を凍らせる。
「見たろう。それが、お前が縋る男の、世界の底に隠された真実だ」
クレイオスは双頭の長槍を傍らに立てたまま、淡々と、まるでかつての教え子たちの歩みを採点するかのような口調で語り始める。
「あの銀の首飾りは、元々はエルヴィン・ラグナ・ゼノヴィアのものだった。私が彼女の魂をあの檻に閉じ込め、彼は騎士団を追われた後も、彼女のために世界の不具合――『上質な喪』を食わせ続けた。右腕を焼き、お前が今その身に刻んだ魔力糖を、奥歯でガチリと噛み砕きながらな」
「……エルヴィン、は……」
自分の声が、かすれた拒絶のように漏れた。
脳裏に生々しく蘇るのは、地下図書館の最深部で、狂ったように濃厚な澱を右腕の鉄手甲へと吸着させていた、あの人の物悲しい後ろ姿。
「そうだ。放置すれば消滅するはずだった魂を繋ぎ止めるため、奴は泥を啜り続けた。だが、図書館のこれまでにない最高級の『喪』をあの首飾りに吸い込ませたあの瞬間――すべては不可逆の領域へと堕ちたのだ。私はずっと、その浅ましき献身を特等席で凝視していた」
クレイオスが一歩、歩みを進める。黒い甲冑が擦れる冷たい音が、耳の奥を直接侵食してきた。思わず身を縮める。
男の言葉が、鋭い刃となって自分の観測を根底から書き換えていく。
「お前は記述者だ。ならば正しく観測しろ。奴はもう、手遅れだ。彼は今、自分が誰のために命を削っているのかすら分かっていない。ただ意味の抜け殻となった、化け物の苗床を抱き締めている」
「化け物……?」
唇が、戦慄で激しく震える。
あの人が命を懸けて守ってきたもの。
それが、彼自身の歪んだ情愛と、蓄積された『上質な喪』を養分にして、すでに彼女の形をした別の何かへと変質し始めているという事実。
目の前の師の瞳は、その凄まじい絶望を、一片の揺らぎもなくこちらに突きつけていた。
「お前も気づいているはずだ。私は世界を初期化する。その元凶たる銀の首飾りを、この手で始末するために、私はお前をここまで誘い出した。エルヴィンは必ず、あの怪物の檻を胸に下げて、お前という餌を救いにやってくる」
「私を……人質にするために?」
「いや、違うな」
クレイオスは静かに首を振る。
その瞳に宿ったのは、狂気とも、あるいは底なしの慈愛ともつかぬ、圧倒的なまでの指南役としての光だった。
「エルヴィンから首飾りを奪えば、彼の生きる理由は消滅し、残るのは耐え難い苦痛の記憶だけだ。だからこそ、セリス。お前が彼の新たな心の拠り所となれ。亡霊を壊し、お前という生きた人間に、彼の心を置き換える」
「……!」
男の沈黙の外套が、初めて微かに揺れた。
「そのために、私はお前に過去を見せ、この不条理を教えた。お前に、あの壊れた男を未来へ繋ぎ止めるだけの記述者としての覚悟があるか、試させてもらったのだよ」




