38話 反逆の記述
石造りの床の上。
私の命懸けの記述によって、エルヴィンの右腕、鉄手甲の不気味な空転は収まっている。
その代わりに。
床についた自分の指先が、視界から消え去っていた
石畳の凹凸が、硝子障の向こうの景色のようにお淑やかに透けて見える。存在の輪郭が、冷徹な空気の中に溶け出していくかのように、薄い。
指先の感覚はかろうじてあるのにも関わらず、目には見えない。
「……っ、エル、ヴィン……」
外套の端切れを強く握りしめ、荒い呼吸のまま、その顔を覗き込む。
上体を起こしたエルヴィンは、濁った灰色の瞳で、静かに自分の手のひらを見つめていた。
その脳髄から斑な澱は消え去り、恐ろしいほどの諦念が、その横顔を冷徹に決定づけている。
「セリス。お前、その身体……」
エルヴィンは短く言葉を切り、ボロボロの灰色の外套を翻して私へと肉薄する。
その大きな手が私の肩を掴もうとして――わずかに、すり抜けるような不気味な手応えに、彼の瞳孔が警告の赤色へと変色した。
「……指南役の言う通りだ。俺は、間違えていたのかもしれない」
エルヴィンの唇から漏れたのは、現世のすべてを諦めきったような、物悲しい独白。
「あの銀の檻の中にいるのは、もう俺の知る幼馴染ではない。名前も顔も、あの粘着質な泥の中に溶け落ちて、ただ意味の抜け殻となった化け物の苗床だ。……それを、お前が命を削ってまで、俺が追いかける意味はどこにもない。レナを諦めて、このまま指南役にあの首飾りを漂白してもらうのがきっと、正しい。そうすれば、お前が消える必要は、ない」
「……ふざけないで、エルヴィン」
私の声が、静謐な空間の冷気を鋭く切り裂いた。
透け始めた自分の指先など、もう目に入らない。ボロボロの灰色の外套を掴む私の両手は、今や影のように朧げで、それでも、かつてないほどの熱量を帯びてエルヴィンの胸元に縋り付いていた。
「あなたが今まで大切にしてきたものを、泥を啜り、鉄手甲を焼き切ってまで守り続けてきたその願い、その祈りを……どうして、そんなに簡単に捨ててしまえるの」
「セリス、だがお前の存在が――」
「私の身体なんて、どうなったっていい!」
激情のままに叫ぶ。涙が床の石畳へと滴り、冷たく爆ぜた。
この人はいつだって、最小限の言葉の裏で、自分以外のすべてのために奥歯を噛み締めて拷問に耐えている。その痛痛しい背中を、ただ羨望の目で見つめるだけの私は、もういない。
「あの男に問われたわ。『お前は、あそこまで壊れた男に、まだあの地獄を続けろと言うのか』って。あの圧倒的な正論の前に、私はただ、震えることしかできなかった」
エルヴィンの濁った灰色の瞳が、驚愕にわずかへと見開かれる。
私は彼を睨み据えたまま、あの時喉の奥で固まっていた言葉を、いま、剥き出しの意志として彼に叩きつけた。
さらには、
『銀の檻の亡霊か。それとも、生きた記述者か』
理を気取る男の、あまりにも傲慢な二者択一。
その答えを、私はここで、引き千切るように叩きつける。
「どちらかじゃない。私は、あなたが泥を食わせ続けてきたあの人の祈りも、あなたと共に歩むこの命も、そのすべてを現世に記述してみせる。…… たとえ、世界の理のすべてを敵に回すことになっても。私はあなたと共に行く」
境界の薄れゆく私の左手を、エルヴィンの右腕が、今度はすり抜けることなく、硬質に、強く強く掴み返す。
「ねえ、エルヴィン。――あなたはどうするの?」
私の問いかけが、静謐な空間の冷気に吸い込まれて消える。
エルヴィンは応えない。
掴んだ私の左手――その視覚から失われ、透明に透けた指先の輪郭を、男の濁った灰色の瞳が、引き裂かれそうな沈黙で見つめ続けていた。
このままレナを諦めれば、これ以上お前が世界から消えずに済む。それが最も楽で、傷のない正解なのだと、男の骨肉に刻まれた諦念が叫んでいる。
外套の端切れを引き千切らんばかりに強張る、黒鉄の鉄手甲。
やがて、彼はゆっくりと私からその視線を逸らし、そして。
「……お前がそこまで言うなら、俺の命は、もう俺一人のものじゃない」
掠れきった声。それは、私の消えゆく肉体の代償をすべてその背に背負い、現世の不条理をどこまでも歩き続けるという、追放者の悍ましき執着の証明。
「一緒にきてくれ、セリス。お前をこれ以上消させはしない。……指南役から、奪われたすべてを引き摺り下ろす。きっと、きっと、……お前のその指も元に戻す方法もわかるはずだ」
鉄手甲がカシャカシャと展開し、青い光が焦燥の熱を帯びて激しく鳴動した。
私の記述がクレイオスにどこまで通じるかはわからない。それでも――
私は、世界の綻びを観測し、記録する。
私は、最期まで彼と共に歩む。




