33話 魔力糖の熱量
抜いたばかりの軍刀が、激しい雨線の中で白銀に震えていた。
絶対の師に向けて、初めて刃を突き付けたエルヴィンの背中。
その内側に潜む私は、彼の肉体が恐怖ではなく、張り裂けんばかりの慈しみと焦燥によって強張っているの感じている。
だが、クレイオスの銀色の瞳は、揺るがない。
完璧な正解であるはずの師は、ただ冷徹に、雨霧の向こうからその視線をエルヴィンの脳髄の奥底へと突き刺してくる。
「君の違反は、ここで処理される」
指南役の冷徹な声と同時に、漂白部隊の術式が白濁した光を膨らませ、倒れ伏すレナの身体を包み込もうとする。
世界の理に従った、迅速な漂白。
それを阻まんと、エルヴィンが軍刀を振り下ろした瞬間――クレイオスの冷酷な秩序の一撃が、その白銀の刀身を根元から無慈悲に叩き折った。
甲高い破壊音と共に、折れた刃が雨の泥濘へと突き刺さる。
武器を失い、なおも止まらぬ焦燥のまま、エルヴィンは残された右腕の鉄手甲を突き出し、レナの身体を侵食せんと蠢いていたあの意思を持つ泥――世界の不具合、喪の触手を、直に掴み取ったのだ。
「――ガ、あ、ああああああああーーーーっ!」
鼓膜を、魂を、内側から爆破するような絶叫が、彼の喉から迸る。
掴んだ泥が、生き物のように右腕へと這い上がり、鉄手甲の隙間から肉体へと潜り込んでいく。
カシャカシャと不気味な鳴動を上げてスライドする黒鉄の装甲。
私の見知った形へと、強制展開されたその内側へ、粘着質な死神の爪牙が、生きたまま彼の意味を削り取ろうと侵入を始めた。
普通の人間であれば、一瞬で精神を書き換えられ、形を歪に引き伸ばされた澱へと成り下がるはずの禁忌の吸着。
あまりの激痛と浸蝕に、エルヴィンの魂が引き裂かれ、その命の灯火が完全に消え果てようとした、まさにその時だった。
――ガチリ、と。
彼の内側で、あり得ない文字が書き加えられる感覚があった。
それは、エルヴィン自身の意志ではない。
彼の脳内から記憶を読み取り、この世界を具現化しているクレイオスの、冷徹な指先が紡ぎ出した理の改竄。
不具合に呑まれゆく愛弟子を死なせぬため、彼はエルヴィンの記憶を貪り、かつて自らが彼に教え込んだ知識を手繰り寄せた。
――『エルヴィンは魔力糖の熱量により、今も生きている』と。
そうして、その記憶に最も近しい記述を世界へ滑り込ませ、彼の命を強引に仮止めしたのだ。
その歪な記述が脳髄へ上書きされた瞬間、私の網膜が、奇妙な世界のザラつきを捉える。
――おかしい。
本来この場では稼働するはずのない魔力糖の熱が、彼の血肉を無理やり脈打たせるたびに。
目の前の冷たい雨の輪郭が、クレイオスの纏う純白の軍装の境界が、そして今まさに銀色の大きな首飾りの中へと封印されゆくレナの泣き顔すらも。
まるで、黒い塗料で書かれた書物の文字が、強引な仮止めの負荷によってベタリと汚され、掠れてしまったかのように。
世界の輪郭が一瞬だけ不自然に曖昧に歪む。
不気味だった。
エルヴィンがこれほどまでに苦しんでいるのに、なぜ彼の見つめるレナの姿は、こんなにも頼りなく、甘く、薄れていくのか。
だが、その世界の綻びに触れた瞬間、動かぬ私の魂は、恐怖とは異なる奇妙な戦慄に震えていた。
この、エルヴィンを生かすために、彼の記憶を読み取り、固定し、歪に世界を書き換えているクレイオスの指先。
その独善的なまでの記述の重みが、今、彼の内側に潜み、彼の感情を必死に記述っている私の魂の手触りと――あまりにも、酷似している。
激しい混濁の最中、レナを封印した銀色の首飾りを泥塗りの左手で強く抱きしめながら、エルヴィンはただ、冷たい石畳の上に膝を突いた。
今の彼には、知る由もないのだろう。
自らの大切な記憶が、師の指先によって都合よく仮止めされ、そして未来の私の手によって再び固定されようとしていることなど。




