31話 遭遇
――雨霧の向こう、そこは意味の抜け殻だった。
辿り着いた故郷の村は、冷たい豪雨に打たれながら、不気味なほどの静寂に沈んでいた。
かつてエルヴィンが育ち、その胸に豊かな慈しみを育んだ温かな家並み。
それが今や、生きた世界の境界を失い、じわじわと湧き上がる漆黒の影に塗り潰されようとしている。
動かぬエルヴィンの肉体の内側で、私は彼の網膜を通じて、その光景を直に受信していた。
彼の心臓が、ドク、ドクと、肋骨を打ち破らんばかりの勢いで狂暴に脈打っている。
「……嘘、だ」
彼の喉から、震える声が漏れた。
石畳の路地の先、泥濘に半身を沈め、歪に蠢いている人型。
それは、先ほど調停の現場で目撃した、あの無機質な澱などでは決してなかった。
衣服の端切れ、見覚えのある体躯。
泥の隙間から覗くその顔は、彼の記憶の中にある、いつも温かく微笑みかけてくれた、隣家に住む男の変わり果てた姿だった。
「……おじ、さん……?」
エルヴィンがまっすぐな声を絞り出し、泥塗りの知人へと駆け寄ろうと一歩を踏み出す。
だが、その男の濁りきった瞳には、エルヴィンを映す光などもう残されてはいなかった。
男の口から漏れたのは、言葉ではない。
生理的な不快感を伴って鼻腔を突く、粘着質な泥の臭気。そして、世界の隅から湧き上がる、意味を持たない、名前のない人々の断末魔の叫び。
半ば世界の不具合――喪に浸蝕されたその肉体は、メキメキと音を立てて歪に引き伸ばされ、かつての名前を失っていく。
助けたい。手を伸ばして、あの温かな日々を毟り取り戻したい。
彼の胸の奥から溢れ出る狂おしいほどの慈しみと焦燥が、熱となって私の意識を焼き焦がす。
けれど、目の前の知人は、すでに命を数字として処理されるべき異物へと変貌しつつあった。
エルヴィンは震える手で、肌着の奥の銀色の大きな首飾りを痛いほど強く握りしめる。
彼がどれほどその魂を傷つけ、絶望に身を焼き尽くされようとも、時間は冷酷に、破滅の円環を閉じようと進んでいく。
やがて、蠢く泥の向こう側から、さらに深い、粘着質な絶望の気配がじわじわと這い上がってきた。
――ドク、と。
心臓が、本日一番の、狂暴な歪み方で脈打った。
同時に、彼の指先が、肌着の奥の銀色の首飾りを、千切れんばかりの力で強く、強く掴み直す。
言葉など、何一つ要らなかった。
身体の内側から溢れ出る、魂がひっくり返るほどの焦燥の熱だけで、私は理解した。
この雨霧の向こう、村の中央広場に、彼が全てを捨ててでも駆けつけねばならないほどの、絶対の理由が、今、まさに不具合の泥に呑まれようとしているのだと。
「……っ!」
エルヴィンは息を詰め、猛然と泥濘を蹴った。
背後で、かつておじさんだった泥の人型が、意味を持たない虚無の唸りを上げて崩れ落ちていく。
それを振り返る余裕すら、今の彼にはない。
激しさを増す冷たい雨が、容赦なく白銀の軍装を濡らし、視界を白く遮る。
彼は、感覚の消えかけた足で、ただ一念だけを胸に突き動かされ、豪雨の中を疾走し続けた。
辿り着いた、広場。
そこでエルヴィンが、そして内側にいる私が目撃したのは、あらゆる秩序を嘲笑うかのような、おぞましい泥の蠢きだった。
意思を持つ泥が、じわじわと、かつて温かかった家並みを喰い破り、世界の境界を消滅させていく。
その不具合の泥が、広場の中央に佇む「ある人影」へと、粘着質な触手を伸ばした、まさにその瞬間のことだった。
冷徹な、白濁した光が、雨霧を切り裂いてその場所に突き刺さった。
エルヴィンが軍刀に手をかけるより早く、泥の向こうから姿を現したのは――白い軍装を纏った、あの冷酷な掟を体現する、騎士団の漂白部隊だった。




