28話 騎士団の論理
――目が眩むほどの、純白の風。
視界が明転した瞬間、私の意識は、驚くほど健やかで、圧倒的な生命の熱量に満ちた檻の中に閉じ込められていた。
動かない。私の意志では、指先一つ、まぶた一つ動かすことすら叶わない。
私は今、クレイオスの庭園の長椅子の上ではなく、疾走するエルヴィンの肉体の内側にいる。
クレイオスが一瞬だけ見せた、あの泥塗りの地獄の光景ではない。
ここは、高くそびえ立つ石造りの尖塔の屋根の上。
まだ何一つ失っていない、白銀の全盛の時間。
私の魂を閉じ込めた肉体――若きエルヴィンは、底の厚い皮纏で石の瓦を軽やかに蹴り、大空へとまっすぐに跳躍していた。
胸が、すく。
彼の内側から溢れ出てくるのは、のちの彼が纏っていたあの重苦しい諦念などでは決してなかった。
あの日、騎士団の誰もが未来を託せると確信していた、どこまでも純粋で、眩いほどにまっすぐな正義の熱。
人を、救う。その一念だけを信じて疑わない少年の心臓の、驚くほど温かで力強い鳴動が、私の意識へ直接流れ込んでくる。
私は彼の胸の温もりに触れ、魂が震えるのを確かに感じていた。
エルヴィンが鋭く視線を落とした、薄暗い石畳の路地裏。
そこに、湧き上がっていた。
じわじわと影のように湧き上がり、意思を持つ泥のように蠢く、歪な人型の澱。
世界の隅に溜まった不具合の塊が、逃げ遅れた街の男へと、粘着質な触手を伸ばしている。
エルヴィンは一切の躊躇なく、腰の軍刀へと手を伸ばした。
まだ根元から折れていない、白銀の光を放つ完璧な刀身が、澄んだ音を立てて抜刀される。
彼の右腕の鉄手甲が、ガチリと美しい音を立てて鳴動する。
空中から猛然と肉薄し、彼は住人を背に庇うようにして、鮮やかな一筋の剣閃を描いた。
剣先が空間の縫い目を繋ぎ合わせ、完璧な、欠けのない輪を紡ぎ出す。
無瑕の輪環。
断滅。
不具合を一切許さぬ絶対的な秩序の刃が、蠢く泥の人型を、その周囲の空間ごと文字通り消滅させた。
そこに血の跡も、不快な残香すら残らない。
エルヴィンは白銀の刀身を鮮やかに鞘へと収めると、すぐに目の前の住人の男へと向き直った。
その濁りのない灰色の瞳には、豊かな慈しみの光が宿っている。
「怪我はありませんか。――もう、大丈夫です」
少年の喉から漏れた声は、風に揺れる鈴のように清廉で、どこまでも温かかった。
怯えていた住人の男の顔に、救い主への深い感謝と安堵の色彩が広がる。
男がエルヴィンの差し伸べた手を握ろうとした、まさにその時だった。
「――そこまでだ、エルヴィン。よくやった、下がっていなさい」
背後から響いたのは、白い軍装を纏った、先輩の騎士団員たちの冷淡な声だった。
エルヴィンの肉体が、微かに揺れて動きを止める。
団員たちは、救われた住人の男に一切の労いの言葉をかけぬまま、機械的な手足の動きで、奇妙な術式の記述された魔導具を取り出した。
「不具合との接触者を確認。調停の規則に従い、これより漂白を行う」
「待ってください。彼はただ巻き込まれただけで、不具合には触れていません。怪我もないのです」
エルヴィンがまっすぐな声で、住人を守るように団員との間に一歩を踏み出す。
だが、団員の放った白濁した光が住人の頭部を包み込み、男の瞳から、先ほどまでエルに向けられていたあの温かな感謝の感情が、一瞬で抜け殻のように消え去った。
男は自分がなぜここにいるのかさえ分からぬ顔で、ただ虚空を見つめている。
団員たちにとっては、命もまた、世界の秩序を維持するための単なる数字に過ぎないのだ。
人を救い、その命を慈しむために剣を振るった少年の胸の奥底で。
騎士団が掲げる『救済』という名の冷徹な掟に対し、冷たい、しかし決定的な違和感の芽が、静かに弾けるのを。
彼の内側に潜む私は、胸が張り裂けそうな愛おしさを確かに感じ取っていた。




