27話 無瑕の輪環
私の肌には、あの泥の粘着質な感触が、決定的な汚れとして残っていた。
荒い息を吐き、石畳に膝をつく私を、クレイオスは冷ややかに見下ろしている。
今のは一体……?
「セリス嬢。君は知っているか。先ほど君が見た、あの騎士団の奥義――無瑕の輪環という言葉を」
クレイオスの声が、庭園の静謐を切り裂く。
私は泥の不快感に耐えながら、辛うじて首を横に振った。そんな言葉は、私の記録のどこにも存在しない。
「そうだろう。これは騎士団の選ばれた者にのみ、極秘裏に伝承される『理』だ。剣先が描く軌跡を空間の縫い目と捉え、それを魔力で繋ぎ合わせる。完璧な、欠けのない輪。その輪環の中に身を置く者は、世界の不具合や澱といった異物から完全に隔絶される」
クレイオスは石畳に投影された、あの白銀の残影を細い指先で愛おしげに指し示す。
その銀色の瞳には、若きエルヴィンへの慈愛と、彼を飼いならす支配者の愉悦が混在している気がする。
「あの頃の彼は、美しかったよ。私と同じ高みへ至り、この世界の不具合を完全に拒絶する『無瑕の輪環』を描き出せる、不世出の才能が彼にはあった。……今後の騎士団のすべてを、この街の理のすべてを、任せるに足る唯一の器だと、私は信じていたのだよ」
慈愛の奥に、仄暗い執着のような響きが混ざる。
クレイオスの言葉と共に、投影された映像のカメラが、若きエルヴィンの手元へと肉薄していく。
「毎夜、彼は指先が傷だらけになり、白い軍装の袖が血に染まるまで木剣を振り続けていた。私に与えられた正解を、ただ愚直に信じ込んでね。……だが、どれだけ肉体を追い詰めようとも、彼が完璧な円の頂点へと至る前に、鉄手甲は無残に焼き切れた」
「あれは、修練による摩擦の熱などではない。彼が完璧な秩序に近づけば近づくほど、世界の隅に溜まった『喪』の気配が、意味の抜け殻のような泥となって彼の右腕に吸着し、内側から機巧を蝕み、過負荷を与えていたのだ。手甲が焼き切れていたのは、不具合が彼を終わらせようとしていた反応に他ならない」
クレイオスの声音から、不意に温度が消える。
その銀色の瞳の奥に去来したのは、かつてその最高傑作が、世界の不具合《喪》という例外に触れ、粛清対象へと堕ちていった夜の、冷徹なまでの惜念だった。
私は、息を呑んでその光景を凝視する。
彼にとって、この修練こそが師の教えに従い、自分自身を完成させるための唯一の正解なのだと、私にはわかる。
空間を切り裂く白銀の剣閃が、その頂点に達した、まさにその瞬間のことだった。
鉄手甲の機巧が、まるで小さな悲鳴を上げるようにカチリと空転した。
エルヴィンの呼吸が、ほんの数瞬だけ乱れる。
完璧であるはずの『輪環』に、世界の不具合が牙を剥き、目に見えぬほどの致命的なヒビが入った瞬間だった。
「……まただ」
木剣を下ろしたエルヴィンの喉から漏れたのは、若者らしい瑞々しさの欠片もない、掠れた声だった。
彼の表情からは、先程までの無垢な称賛への期待が消え、深い絶望と自己嫌悪が滲み出していた。
「修練が足りない。……まだ、輪が閉じていない」
彼は傷だらけの震える手で、右腕を、狂おしいほど強く抱きしめる。
その姿は、師の期待に応えられぬ自分を許せない、ただの傷ついた少年のそれだった。
私は、その光景を直視できなかった。
エルヴィンは、その綻びを自分の努力不足だと信じ込み、死線を越えるような修練をさらに自分に課そうとしている。
それは、彼自身を、鉄手甲という理で無理やり縫い合わせる行為に他ならない。
「……やめて。彼を、これ以上……」
私の掠れた懇願に、クレイオスは冷たく微笑み、その細い指先で、今度はエルヴィン自身の胸元を強く穿った。
「ではセリス。君のその記述の力で、彼の記憶の深淵を『体験』してくるといい。彼がどうして最初の世界の不具合をその身に宿したのかをね」
その瞬間、私の肌にこびりついていた泥の汚れが、生き物のように熱を帯びて暴れ出す。
視界が、またもや空間ごとメキメキと音を立てて崩壊し、私の意識は、あの右腕を抱きしめて震える少年の肉体へと、強引に引きずり込まれていった。




