26話 弧を描いていた男
思考の底、甘い泥濘のさらに奥深くへ沈められていく感覚の最中。
その時。
鼓膜を微かに揺らしたのは、冷徹なまでに均質で静謐な声。
「……さあ、目を開けてごらん」
耳元で溶けるように響く声。
重い瞼を辛うじて持ち上げると、霞む視界の先で、クレイオスの白い指先が動いていた。
彼が石畳の上に描いた大きな円が、淡く発光を始める。
それは、魔力による光というよりは、彼の力そのものが空間に定着したかのような、白濁した揺らぎのように見えた。
その光の輪が広がると共に、私の脳髄を縛っていた甘い霧が、冷徹な秩序の輝きによって強引に吹き飛ばされていく。
円の内部に、立体的な光景が立ち上がる。
そこには、今とは比べ物にならないほど穏やかな光を纏った、若きエルヴィンの姿があった。
「見てごらん。かつてのエルヴィンは、あそこに立っていた」
クレイオスの声が、庭園の空気を震わせる。
光の中のエルヴィンは、騎士団の白い軍装に身を包んでいた。
その右腕を覆う黒鉄の鉄手甲は、今はただ純粋な武具としての機能を全うしている。
表面は鏡のように磨き上げられ、刻まれた騎士団の紋章が神聖な光を反射する。
エルヴィンが右腕を振り、空間に弧を描くたび、手甲の内部に仕込まれた幾百もの精巧な歯車が、カシャ、カシャと澄んだ音を立てて高らかに鳴動する。
淀みなく、速く、そして美しく。
一振りごとに空気が裂け、純白の外套の裾が鮮やかに翻り、風の渦を巻く。
不具合を一切許さぬ、絶対的な秩序の体現。これこそが、師の説く、完璧な円の雛形だった。
私は、その眩いほどの光景を記録しようと、無意識に指先を動かそうとした。
だが、動かない。
私の「記述」は、命を削り、魔力を編み、ようやく世界に干渉する。
この男、クレイオスは――ただ指先を動かすだけで、この空間そのものを支配している。
彼にとって、私の記述など、まるで児戯のようなものに過ぎないのだろう。
「驚異的だった。あの頃の彼は、どれだけ激しい戦場に身を置こうとも、その白い軍装には塵一つ付着させなかった。……完璧な私の正解。それが、かつてのエルヴィンだ」
クレイオスは愛おしむように、空間に浮かぶ円を細い指先でなぞる。
「だがね、セリス嬢。そんな美しい私の人形が、たった一つの例外に触れて、いかに脆く、歪に壊れ去ったか。君のその目で、しかと見届けるといい」
眩いほどの白銀の残影を網膜に焼き付けられた瞬間。
飴の毒でだらしなく融けかけていた私の心臓が、激しく、痛烈に跳ね上がった。
守るべきだった、あの人の本当の姿。
その衝撃が、クレイオスの与えた偽りの安寧を内側からぶち破る。
思考の霧が晴れる。だが、未だ痺れたままの唇が、呪縛のように言葉を遮った。
それでも、私は途切れそうになる意識と回らない舌を必死に奮い立たせ、言葉の破片を強く紡ぎ出した。
「……結局は、あなたが一番恐れているだけだわ。師匠っていう、権威が……エルヴィンっていう、あの生き方の……生きた証に、負けるのが……!」
彼が今までどれだけ、独りで頑張ってきた事をこの人は知らない。
私だけが彼の記憶に触れたんだ。
「エルヴィンの、していることは……泥遊びじゃ、ない……彼は、吸着しているのよ……あなたが捨てた、名前のない人たちの、叫びを……それを消そうだなんて、卑怯、よ……!」
自分の口から漏れた剥き出しの言葉に、私自身が驚き、それから絶望した。
クレイオスは私を試すように覗き込んだ。
彼が指を曲げると、穏やかな訓練場の景色が、空間ごとメキメキと音を立てて歪む。まるで、現実の壁に泥が染み込んでいくように、光景が侵食されていく。
「卑怯、か。面白いね。だが。セリス、君がエルヴィンの生きた証と呼ぶものが、実は単なる私の弟子の壊れた残響だとしたら? 君の記述は、ただの死体を飾り立てる化粧に過ぎない」
「君の抱く、その無意味な執着が、彼を終わりのない地獄に繋ぎ止めているとは思わないかね?」
クレイオスは冷たく微笑み、その細い指先で空間に浮かぶ、円の中心を強く穿った。
言葉には先ほどまでの優しい温かみはない。
その瞬間、視界が泥色に反転する。
肺を焼くような硝煙と、耐え難い腐敗の臭気が、現実の壁を突き破って私の意識を浸蝕してくる。
視界が安定した時、私は地獄にいた。
かつてエルヴィンの故郷だった村。惨劇の真っ途中だ。泥に半身を沈め、喉を澱に喰い破られた幼馴染の断末魔が響く。
――だめだ。記録しなきゃ。
叫ぶ私の意識を、クレイオスの冷笑が塗り潰す。
その光景が頂点に達した瞬間。クレイオスが指を弾くと、泥色の地獄はあっけなく霧散した。
再び、静謐な庭園。
私は荒い息を吐き、膝をつく。
目の前には、何事もなかったかのように微笑むクレイオスがいる。
地獄の熱気は消えた。
だが、私の肌には、あの泥の粘着質な感触が、決定的な汚れとして残っていた。




