甘い浸蝕
私が最後に見たのは、クレイオスの黒い外套の裾と、エルヴィンの折れた軍刀が、灰の中に沈んでいく光景だった。
……そして、気がつけば私はここにいた。
クレイオスの庭園には、灰の味も、澱の腐臭もなかった。
あるのは、磨き上げられた石畳の冷たさ、そして、窓から差し込む、あまりにも均質な陽光だけ。
私は、柔らかな布に包まれた長椅子に腰を下ろしていた。
指先を縛り付けていたはずの「記述」の重圧は、目の前の男によって丁寧に解かれている。
痛みはない。
ただ、なぜか。
書き綴るための力が、まるで見えない膜に覆われたように奥底へ押し込められている。
目の前には、あの男がいた。
かつて騎士団の総帥としてこの街の理を操り、今は死神の澱を纏う男——クレイオス・バルトフェルト。
彼が纏う漆黒の軍装は、今や不定形に蠢き、床を這う影と混じり合っている。
姿絵で見た、琥珀色の髪は色を失い、死した枯れ葉のように毛先が微かに震えていた。
彼が顔を傾けると、その隙間から覗く銀色の瞳が、冷酷なまでに精緻に私の輪郭を測定してくる。
それは獲物を愛でる捕食者の視線か、あるいは、芸術品を値踏みする蒐集家のそれか。
「……少し、顔色が悪いね」
静謐な声が、耳元で溶けるように響く。
隣に腰を下ろした彼は、手袋を外した長い指先で、私の頬に落ちた髪をそっと耳にかけた。
指先から伝わるのは、不思議なほど滑らかな熱。
クレイオスは懐から、見覚えのある飴を取り出した。
過去に、ジギタリスに貰ったことのある飴だ。
「君のために用意したものだよ、食べて。楽になるはずだから」
慈愛に満ちた表情で差し出されたそれは、まるで毒気を抜かれたかのように甘い香りを放っていた。
疑問よりも先に、甘い香りが理性を麻痺させた。
無意識に口を開き、その飴を受け入れる。溶け出した糖分が喉を通り、削られていたはずの神経が、ぞくりとするほどの安らぎに満たされていく。
飴が喉を滑り落ちた瞬間、思考の輪郭が溶けていくのを感じた。
先程まで張り詰めていたはずの記述者としての義務感が、まるで冬の霜が陽光に晒されるように、霧散していく。
「あ……れ……私の、鍵は?」
首元に手をやり、冷たい感触がないことに気づいて口を開いた。
焦燥。怒り。奪われたことへの憤り。
けれど、言葉にしようとすればするほど、思考が甘い香りに遮られて霧の中に消えていく。
私は苛立ち、目の前の男を睨みつけた。
「あれは、君を苦しめる重石だ。君が私と共にこの庭で生きるなら、もう必要のないものだよ」
「返してよ、……お願いだから。あなた……に、何がわかるの……」
突き放そうと腕を振るったが、指先は力なく空を切る。
手首をふわりと優しく掴んだ彼の指先からは逃れられない熱が伝わり、身体から思考の強度が抜け落ちていく。
彼のチグハグな優しさは、私を優しく、かつ確実に、この甘い安寧の深淵へと沈めていた。
ここには澱も、死臭もない。
エルヴィンが泥を被って戦い続けているというのに、私はその戦場から切り離され、ただクレイオスの指先に撫でられるだけの置物になっている。
――このまま、終わればいいのに。
そんな背信の言葉が、私の思考を支配していく。
彼は満足そうに、私の髪を優しく、どこまでも労わるように撫でた。
騎士団が目撃者を漂白し、エルヴィンが泥の中で血を吐きながら守ろうとしていた偽りの救いの正体。
その主が、今、私をただの少女として慈しんでいる。
私の指先はだらしなく開き、着ていた服の裾を握りしめる力さえ残っていない。
「いい子だ、セリス・ティアネ。もう、何も書かなくていい。君の抱くその執着は、彼を地獄に繋ぎ止めるだけだ」
耳元で囁かれる言葉は、狂おしいほどに優しかった。
反論を、しなければならないのに。痺れた舌がうまく回らず、言葉が途切れ途切れにしか形を成さない。
「……ク、レイオス……あなた、は……結局、は……」
最後まで紡げなかった声は甘い霧に溶け、私はその温もりの深淵へと、深く、深く沈んでいった。




