24話 毒を食らわば灰の果て
静寂が、耳を塞ぐほどに重い。
先ほどまでセリスの体温が残っていた床板には、彼女が吐き出した血の跡が、黒いシミとなって広がっている。
師の力で軋んだ床の亀裂。
そこから覗く階下の帳場に、異様な何かが這い回っている。
湿った、粘着質な何かが床を這う音だ。
覗き込んだ先、そこには既に人の形を保てなくなったエマがいた。彼女は帳場に座ったまま、泥そのものとなって崩れ去ろうとしている。
「あら……お客様。もう、お帰りですか?」
彼女の口元から零れ落ちたのは、鮮明な言葉ではなく、黒い澱の泡。
俺と目が合うと最後に彼女は頭を下げ、そのまま硝子瘴の外へと溶けるように消えていった。
彼女がいた場所には、ただ空虚な静寂だけが残った。不気味だと思っていた彼女の笑顔はもうそこにはない。
俺は、軍刀を握りしめたまま、動けずにいた。
右腕の鉄手甲から上がっていた煙はいつの間にか消え、ただ冷たい鉄の痺れるような感覚が肌に貼り付いている。
俺の世界は、これで終わったはずだった。
幼馴染を救うための器も、それを綴る記述者も、すべて師の掌の上へと連れ去られた。
その時だ。
粉々に砕け散った硝子障の向こう、夜の路地から、軽やかな足音が聞こえてきた。
チク、タク、チク、タク。
懐中時計の音が、死にゆく街に異質な拍子を刻む。
現れたのは、派手な服を重ね着し、真鍮の杖を小脇に抱えた男――ジギタリスだった。
奴は半壊した宿屋の入り口に立ち、俺の惨状を一瞥して、わざとらしく溜息をついた。
「おやおや、今夜の『剥落予報』は最悪ですよ? ――さあ、命を前借りする準備はいいかな、エルヴィン?」
奴の金色の瞳が、俺の首飾りの澱を、そして紫の瞳が、セリスが連れ去られた空間の歪みを貪るように見つめている。
「……何の用だ。商売なら、今は時期が悪い」
俺の声は、ひどく掠れて聞こえた。
「時期が悪い? 違いますよ。今こそが最高の市場なんです。クレイオス・バルトフェルトという災害が去った後には、必ず喪の遺骸が落ちている。君、それを拾い上げる覚悟はあるでしょう?」
ジギタリスは杖で床の血痕を指し示し、口元を三日月に歪めた。
「セリス・ティアネという記述者を失った君に、僕がその『所在』を教えてあげようというんだ。もちろん、対価は相応のものをいただきますがね」
ティアネ? あいつは確か、セリス・フィアと名乗っていたと思ったが。
この男は、俺すら知らぬ彼女のことを知っているのか。
俺は折れた軍刀を床に突き立て、かろうじて身を支える。
右腕に宿る鉄手甲のヒビが、ジギタリスの放つ奇妙な残香に反応し、微かな鳴動を繰り返していた。
「喪を商う輩に、俺が渡すものなど残っていない。――消えろ。さもなくば、この折れた刃で、貴様のその胡散臭い商売道具を灰に変える」
殺気などという高尚なものではない。
ただ、内側から溢れ出す意味の抜け殻のような、形容しがたい生理的な嫌悪。
それをぶつけたが、ジギタリスは動じない。
「殺気立ちますねぇ。ですが、エルヴィン。君の抱える喪――その粘着質な泥のような執着こそが、一番の対価になるんですよ」
ジギタリスは、まるで果実の皮を剥くような手つきで、空中に指を走らせた。
空間が歪み、剥がれ落ちる。
「セリスは今、あの男の庭で『物語の書き直し』を強要されている。彼女の指先が折られ、魂が摩耗しきる前に……君は、行かないのか?」
その言葉は、まるで毒の滴る飴のように、俺の喉元へと滑り込んできた。
懐中時計の刻む無慈悲な音を聞きながら、軍刀を握る手に力を込めた。
たとえそれが、死への道連れであろうとも。
「……場所は、どこなんだ? お前なら知ってるんだろ」
俺の短い問いに、ジギタリスは満足げに目を細め、真鍮の杖を地面に鳴らした。
懐の結晶が、記述の加護を失い、冷たく俺の胸を蝕み始める前に――
――俺は深淵へと足を踏み入れた。




