23話 漆黒の師と絶望の浸蝕
それは、木桶を片付け、布で指先を拭っている最中だった。
宿屋の空気が、まるで凍りついたように止まった。
窓の外から聞こえていた喧騒――魔導燈の微かな唸りや、遠くで蠢く澱の足音すら、すべてが遮断された。
これは、単なる静寂ではない。
まるで、この空間そのものが、何者かの手によって”書き換え”られたのだと直感した。
扉の向こうから、ゆっくりと、しかし確実に死神が近づくような足音が響く。
礼節は不要とばかりに、扉が音もなく内側へ消えた。
部屋に入ってきたのは、澱の泥すらその足元にひれ伏すような、静謐な支配者だった。
硝子障から漏れる月光が、彼の影を歪に引き伸ばす。衣服の擦れる音一つなく、ただそこに存在するだけで、世界そのものを従属させているような純黒の気配。
その男を見た瞬間、私の息は完全に止まった。
「……随分と、拙い儀式をしていたのだな」
男の言葉は、まるで冷たい鋼を研ぐ音のように部屋を満たした。
その声が響いた瞬間、エルヴィンの肉体が、見たこともないほど激しく強張るのを私は見た。
エルヴィンの瞳孔が赤色に変色し、右腕の鉄手甲がカシャカシャと不吉な音を立てて展開する。
エルヴィンが、獣のような低い唸りを漏らした。
「クレイオス、……師匠……!」
――クレイオス。
その名がエルヴィンの口から零れ落ちた瞬間、私の脳裏で、かつて廃墟の瓦礫の中でめくった騎士団の記録が激しく明滅した。
嘘、……あの紋章は、バルトフェルト家の……ということは、彼が、クレイオス指南役なの?!
正典の記録に刻まれていた、完璧なる白銀の騎士団を率いる高潔なる指導者。その本物が、なぜ下層街の澱の泥を、世界の不具合をその手中に従えてここに立っているのか。
知っているはずの名前と、目の前にある悍ましい現実のギャップに、脳髄が直接殴られたような戦慄が走る。これは夢か、それとも世界そのものが狂って記述されているのか。
「名前を知ったところで、何になる。器の中身が意味の抜け殻だという事実は、何も変わらぬというのに」
彼が指を弾くと、部屋の壁に張り付いていた澱の泥が、意思を持つかのように蠢き、エルヴィンの喉元へ牙を剥いて飛びかかった。
その瞬間、エルヴィンは獣のように床を蹴った。
背負っていた折れた軍刀を抜き放つと同時に、鉄手甲が青白い放熱光を放つ。
――断絶。
彼は迷うことなく、空間ごと澱の牙を切り裂いた。
火花が部屋を埋め尽くす。
しかし、切り裂いたはずの澱は、黒い雨のように床に降り注ぎ、再び結合してクレイオスの足元へと戻っていく。
「遅いな、エルヴィン。その程度か」
クレイオスは動じない。
ただそこに立っているだけで、彼が放つ圧倒的な喪の圧力が、床板を軋ませ、木桶の水を蒸発させていく。
エルヴィンの呼吸が荒い。
右腕の鉄手甲からは、限界を超えた負荷による煙が上がり、彼の白い混じりの髪が、さらにその彩度を失っていくのがわかった。
「……あ、……あ……」
エルヴィンの喉から、掠れた吐息が漏れる。
刃を構えるその指先が、狂ったように震えていた。いつもなら冷酷に空間を切り裂くはずの軍刀が、まるで鉛のように重く垂れ下がっていく。
彼が、怯えている。牙を剥くことさえ許されない圧倒的な絶対者としての呪いが、あのエルヴィンを縛り付けている。
私はきっと、ここで、殺される――
本能が、死への恐怖を叫んでいた。この男の指先一つで、私は、私たちは、石畳の上の塵のように消される。
逃げ出したい衝動が全身を駆け巡る。
けれど、私は彼の記述者だ。あの日、自らの存在を削り取ってでも、この不具合を世界に繋ぎ止めると誓ったのだ。
ここでエルヴィンを死なせるわけにはいかない。
私は叫び、魔力を限界まで絞り出して空中に『記述』を刻んだ。
しかし――空間は私の記述を弾いた。
まるで泥の中に石を投げ込むように、文字は形を成さず、ただ黒い水分となって霧散する。
「っ……嘘、どうして!」
機能しない。私の編むはずの理が、まったく通じない。正典の記録にあったはずの指南役の影が、世界の不具合そのものとなって私の文字を拒絶している。
それでも、エルヴィンを死なせるわけにはいかない。
私は自身の心臓を削る覚悟で、ありったけの力を空間に叩きつけた。
――固定せよ。
ガリガリと、まるで骨が擦り合うような音が私の内側で鳴った。
鼻腔から熱い血が吹き出し、視界が真っ赤に染まる。物理法則を無理やり固定する反動が、私の精神を、肉体を、内側から引き裂いていく。
「……愚かだな」
クレイオスがわずかに眉を動かした。
その視線に晒されただけで、私の記述した結界は、薄氷が砕けるように音を立てて消滅する。
あまりの衝撃に、私はたまらず床に叩きつけられた。肺の中の空気が全て押し出され、視界の端が急速に闇に食われていく。
エルヴィン。逃げて――。
声は喉の奥で詰まり、ただ血の混じった嗚咽だけが床を汚した。
床に伏したまま、意識の淵で私は悟った。
私は、きっと殺されるのだと。
クレイオスの影が、黒い泥の触手となって私を絡め取る。
冷たく、粘着質な喪が皮膚に浸透し、私の思考を凍らせていく。
「……記述の書き手か。エルヴィン、お前がその拙い吸着を繰り返し、この小娘との甘い幻影の中に閉じこもるというのなら、これは私が引き取る」
男の放つ言葉の意味は、今の私の濁った意識では理解できなかった。ただ、自分がこの恐ろしい男に物として扱われていることへの、底知れぬ戦慄だけが胸を突いた。
彼が指先を僅かに動かすと、私の体は宙に浮き、逆らうことのできない黒い闇の中へと沈んでいく。
「待て……っ、セリスを、戻せ……!」
エルヴィンの叫びが聞こえた。
けれど、その足は一歩も前へ進めない。何か目に見えない巨大な檻に縛られたように、彼はただ、その赤い瞳を血が滲むほどに見開いて私を見つめることしかできなかった。
視界が歪む。最後に見たのは、絶望と怒りに染まったエルヴィンの赤い瞳と、彼が持つ銀の首飾りが、クレイオスの喪に呼応するように、不気味に、まるで心臓のように脈打っている姿だった。
「……エルヴィン」
私の声は、泥の海に飲み込まれ、届かない。
黒い泥の触手が開いた私の口を封じ、意識を強制的に遮断した。
その空間に、再び静寂が訪れる。
残されたのは、半壊した宿屋と、たった一人で立ち尽くすエルヴィンだけ。




