22話 共犯者の水鏡
宿屋の扉を閉めた途端、張り詰めていた糸が切れた。
俺は力なく壁にもたれかかりつつ二階の部屋を目指す。
鉄手甲の放熱音と、己の荒い息遣いが部屋の中で不快な拍子を刻んでいる。
右腕の熱は、もはや鉄の限界を超えていた。
「エルヴィン、右腕を……早く、冷やさないと」
セリスは血の混じった塵を浴びたまま、小走りで部屋の隅へと向かう。
彼女の指先には、記述の代償である黒い痣が痛々しく滲んでいた。
彼女が桶に水を張り、あの"結晶"を取り出す。
部屋の冷気の中、結晶だけが毒を吐き出すように青白く、静かに瞬いていた。
その時、不意にエマの無邪気な声が響く
「お帰りなさい。……また、お二人ともずいぶんと汚れて……宿が、泥だらけになってしまいます。お湯をお持ちしましょうか?」
村全体が沈みゆく泥の船だというのに、彼女だけは、ここが戦場であることなど微塵も感じさせていない。
帳場の奥で帳面を付けていた彼女の、無垢な微笑みが脳裏をよぎる。
俺は深く被った外套の下で、毒気を孕んだ息を吐き出した。
あれを水に浸せば、この村の澱を濾過できるのか。
それとも――俺たちの記憶さえも濾過してしまうのか。
俺は震える手で、銀紙に包まれた結晶の欠片を確かめ、銀の首飾りを握りしめた。
これから始まる儀式が、俺を救うのか、それともこのまま死神の庭へと連れ去るのか。
俺にはもう、それを見極めるだけの余白も残っていない。
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部屋の隅、魔導燈の光さえ届かぬ影の中で、私は結晶を漬かした水を木桶に満たした。
水面は透明で、すべてを濾過するような、それは世界の不具合をも拒絶する。
触れるだけで指先に死の冷たさが伝わってくる。
「……始めるわ」
私はエルヴィンの胸元にある銀の首飾りを見つめ、震える手で記述の力を紡ぎ出した。
銀の鎖が、私の魔力に呼応するように微かな熱を帯びる。
水面に指先を浸し、銀の表面をなぞる。
途端、脳髄を焼き切るような衝撃が私を襲った。
視界が白濁し、現実が剥落していく。
現れたのは、廃れた村の景色などではない。
柔らかな陽光が降り注ぐ、幼い二人が笑い合っていた過去の断片だ。
エルヴィンの視界越しに、私は"彼女"を見る。
そこで、あどけない少年の声が響く。
それは、今隣にいる男の面影を残しながらも、瑞々しく響く幼き日のエルヴィンの声だった。
――『レナ』
その響きが私の脳内で跳ねた瞬間、私は自制を失った。
「……レナ」
私の唇から、呪詛のようにその名が零れ落ちる。
強制的に意識が現実へ引き戻され、激しい吐き気が胃を突き上げた。
結晶の水は、先ほどまでの透明度を失い、私の記述によって汚されたように黒く濁っている。
私は肩で息をしながら、呆然とするエルヴィンの顔を見上げた。
彼は瞳孔を大きく開き、震える声で私を追い詰める。
「今、なんて言ったんだ? セリス。……本当に、そう聞こえたのか?」
私は掠れた声で、彼が最も渇望していた名前をもう一度告げた。
言わなければならない。この名前が、彼の世界のすべてなのだから。
「レナ、私はその名前をあなたの口から聞いたわ」
エルヴィンが息を吞む。
彼はまるで、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように喉を鳴らし、それから、ゆっくりと銀の首飾りを握りしめた。
彼がどれほどこの名を渇望していたか、私にはわかる。
けれど、今の彼からは安堵の色が消えていた。
代わりに浮かんでいたのは、剥き出しの狂気と、世界が崩れ落ちるような悲壮な決意。
「……レナ」
彼は自分の舌の上で名前を転がすように、何度も繰り返した。
そのたびに、彼の影が不自然に伸び、揺らめく。
記述した結晶の水は、完全に腐敗し、異臭を放つ泥と化している。
私は彼に触れようとして、その指先を止めた。
彼が握りしめる首飾りの奥から、何か――もっと古く、粘着質な”澱”が、私の指先を窺うように蠢いているのを確かに感じたからだ。
先ほど結晶の水を通し、彼女の記憶に触れたはずなのに。
そこに残っていたのは、陽光のような温もりではなく、冷たく、底なしの食欲を持つ”喪”の気配だった。
――ねえ、エルヴィン。
これは本当に、あなたが救いたいと願った、幼馴染なの?
喉まで出かかった言葉を、私は必死に飲み込む。
彼が今、鏡を見るような瞳で追い求めているのは、かつての幼馴染なのか、それとも自分をも食らい尽くそうとする死神なのか。
私は知っている。
これは救済ではない。エルヴィンが望む温もりは、彼を食い尽くすための餌に過ぎないことを。
それでも私は、彼を止められない。
「エルヴィン。……あなたが見たいと願う夢なら、私は最後まで綴るわ」
彼に聞こえないくらいに小さい独り言は届く前に、泥水の中に消える。
私は彼に背を向け、黒く濁った桶を片付ける。
震えの止まらない自分の手を、冷たい布で必死に拭いながら。
彼をこの嘘の果てに連れて行くことこそが、私の抱える”共犯”という名の贖罪なのだと、自分に言い聞かせるように。




