21話 残滓の冷たさ
灰狼たちの断末魔が洞窟の奥へと吸い込まれ、沈黙が訪れた。
鉄手甲の放熱音が、心臓の鼓動と重なるように耳障りな拍子を刻んでいる。
俺の右腕は、あまりの負荷に感覚を失い、軍刀を握る指先さえも自分の物ではないかのように重い。
床一面には、切り刻まれた灰狼たちの残滓が、煮凝りのように黒く散らばっている。
結晶の核を抜き取ったことで、俺の右腕から喪の記憶は霧散した。
それは、侵蝕されていた喪が浄化されたということだが、裏を返せば、右腕の鉄手甲は、ただの冷たい鉄の塊に成り果てたということだ。
このままでは、次に襲い来る敵を屠る力がない。
「……セリス。すまないが、少しだけ待ってくれ」
俺はふらつく足で、先ほど切り裂いた灰狼の亡骸へと歩み寄る。
結晶の光で浄化された今の身体では、亡骸に満ちる澱の気配が、吐き気を催すほどに生々しく感じられる。
俺は震える鉄手甲を、亡骸の胸元に突き立てた。
「——ッ!」
カシャリ、と装甲が展開し、奥底で何かが噛み合う音がする。
亡骸から黒い煙のような喪が、吸い込まれるように、絡みつくように、俺の右腕へと流れていく。
浄化されたばかりの肉体に、再び汚泥のような記憶と、異形の渇望が混じる。
視界が赤く染まり、脳の奥で灰狼の死に際の怨念が吠えた。
隣でセリスが、澱の残滓を濾過し、淡く輝く結晶の欠片を摘み取った。
俺は腰の袋から魔力糖の包みを取り出し、その中にあった残り僅かな銀紙を一枚引き剥がす。
その銀色に、彼女が濾過した結晶を丁重に包み込んだ。
冷たい金属の感触が、喪に汚染された俺の指先をわずかに正気へ引き戻す。
間違って鉄手甲に触れないように気をつけなければ。
「……エルヴィン、記述するわ」
彼女が俺の右腕に手を添える。その指先の黒い痣と、銀紙越しに伝わる結晶の理が混ざり合い、鉄手甲の奥底で渦巻く喪の暴走を強引に押さえ込む。
互いの魂をすり減らすような、粘着質な共犯の儀式。
「……っ」
セリスの吐息が荒い。
だが、そうしてようやく俺たちの身体は、人としてこの地を歩くための最低限の境界を保てたのだ。
「……これで、当面は大丈夫よ。結晶の理と私の記述があれば、貴方の身体に宿る喪の力も、しばらくは暴走しないはず。……でも、無理は禁物だから」
セリスの言葉には、祈りのような諦念が混じっている。俺はただ、短く頷くしかなかった。
俺は止まれない。
この空っぽの右腕が、再び死を運ぶための器として満たされるまで。
生きるために自ら汚泥に身を浸す。
それが、結晶の理を握りしめた俺たちに許された、唯一の救済なのだから。
俺はふらつく足取りで、セリスの方を向いた。
「……セリス。大丈夫か」
彼女は血の混じった塵を浴び、銀の鍵を握りしめたまま、小さく肩を震わせていた。
俺の問いに、彼女はゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、さっきまで俺に付与していた記述の余韻か、あるいは命を削り取った代償の疲労なのか、深い霧がかかっていた。
「……ええ。私は、なんとか生きているわ」
彼女の声は驚くほどに細い。
この閉鎖された空間で、俺たちは互いの摩耗を確認し合うことで、己がまだ記述の中に生かされているということを実感できないのだ。
俺は折れた軍刀を鞘に納めた。
結晶の核を奪った以上、この洞窟は間もなくその形を保てなくなるだろう。
「帰るぞ。村の様子が気になる。これ以上ここに留まれば、俺たちまでこの地殻と一緒に埋もれる」
俺たちは、血と腐敗にまみれた洞窟の出口へと向かった。
***
外に出ると、空から降る灰は以前よりも粘り気を増し、まるで地表そのものが腐敗の過程にあるかのような不快な臭気が漂っていた。
洞窟から村への帰路。
俺たちはただ、灰の舞う静寂の中を歩いた。目に見える変化は何もない。
けれど、この村の理が静かに、しかし確実に深淵へと滑り落ちようとしていることを、肌が痛いほどに理解していた。
鉄手甲のヒビから漏れる光は、もはや警告ではなく、この村の崩壊を告げる灯火のように頼りない。
宿屋の戸を叩くまでに、一言も言葉を交わさなかった。
交わすべき言葉のすべてが、あの地獄のような洞窟に置いてきてしまったかのように。
村の空気に混じる灰の味が、以前よりも濃い。
以前なら聞こえたはずの、遠くの街路を行く人々の足音も、今はただ、重苦しい風の鳴動が支配している。
結晶の核を失ったこの地は、もはや理の端を掴み損ね、深淵へと滑り落ちる直前の均衡を保っているだけなのだ。
俺はエマのいるはずの宿屋を見上げた。
硝子障の向こう、魔導燈の灯りが、まるで死にゆく者の瞳のように揺らめいている。




