表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
絶蝕のアルカイヴ  作者: 天色うさぎ
灰被りの共犯者編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/38

20話 洞窟の中で


 静寂が洞窟を支配している。

 鉄手甲から喪が消え去った右腕は、あまりに白く、空虚に震えていた。


「セリス……セリス・フィア」


 エルヴィンが、私の名を呼ぶ。

 その声には、怒りも、絶望も——本来あるべき激昂げきこうが欠落していた。



「もう一度聞く。お前は、俺を助けるためにそうするしかなかったんだ、よな……?」



 彼は、私の記述によって固定された偽りの過去を、自ら手繰り寄せようとしていた。


 この数年、記憶の霧の中で半ば半狂乱となり、何が正しく、何が歪んでいるのかさえ分からず喘いでいたであろう彼に、突如として訪れた「明晰さ」という名の毒に、エルヴィンの精神は今、激しく揺れているのだろう。


 きっと、彼は、真実を直視する勇気がないのではない。

 真実そのものが曖昧で、霧が晴れた脳裏に、偽りの幼なじみの笑顔を、強引に描き直している。


 鉄手甲てっしゅこうの喪が消え去った今、真実の欠片が脳を突き刺しているはずなのに、彼はその痛みに蓋をし、私の作り上げた檻の中に自ら戻ろうとしている。



「セリス、お前は出会ってからずっと、俺を救おうとしてくれていた。俺は、お前のことを信じている」


 その言葉は、祈りにも似た響きを帯びているように思えた。


 きっと、言葉の通り、私を信じているのではない。


 信じなければ、この荒涼こうりょうとした現実の中で——そして、この空っぽになった右腕で生きていくための、意味のようなものを彼は見つけられないのだ。



 私は彼の手を握りしめた。



 銀の鍵が、冷たい金属音を立てて二人の間に割って入る。右手の指先には、記述を行うたびに刻まれる黒い痣が滲んでいる。


 それは、私が彼から奪った真実の代償だ。



「ええ、そうよ。エルヴィン。私は貴方を、何度だって救ってみせるわ」



 それが呪いだと分かっていても、私は頷く。

 言葉にすればするほど、胸の奥で黒い澱が渦巻うずまく。



 背後では、つい先ほどまで青く輝いていた水面が、急速に濁り、地底の泥を巻き上げながら腐敗し始めていた。


 村を護っていた理が崩れ去る音が、洞窟の壁に反響する。



 私の罪は深い。

 不確かな記憶を、さも真実であるかのように記述し、彼の魂を弄んだ。


 たとえそれが、彼を生かすための唯一の道であったとしても、人の記憶を書き換えるという行為に言い訳など許されない。



 嫌われたって私は彼を救う。

 剥落のあの日、私の力不足で彼の記憶を守ることができなかった。


 その取り返しのつかない過ちを埋めるために、私は偽りの歴史を紡ぎ続けている。

 彼がどれほど優しく言葉で私を許そうとも、他の誰でもない私自身は、彼が真に救われるその日まで、私を許すことはない。



 それが、この洞窟で共に罪を犯した——私たちの、共犯の形なのだから。



 その時だった。

 洞窟の静寂を打ち破るように、背後の暗闇から無数の赤い光が、一斉にまたたいた。低い息遣いが聞こえてくる。


「……歓迎されているようね」


 私の呟きに、エルヴィンは空っぽになった右腕の鉄手甲を握りしめた。

 結晶の光を奪われたことで、巣の主たちが飢えに狂い、獲物である私たちを喰らいにやってきたのか。


「セリス、記述を! こいつらは、ただの獣じゃない!」



 彼の声には、先ほどまでの凪のような静けさは微塵もない。

 エルヴィンが鉄手甲を掲げる。


「嘘、どうして?」


 私は、銀の鍵を空中に走らせる。

 けれど、付与は上手くいかない。


 おそらく、結晶の恩恵で今の彼はひどく静かで、澄み渡っている。

 その強固な理性が、私の記述という書き換えを異物として弾き返してしまうのだ。



「ダメよ、書き込めない! おそらくだけど、今の貴方は安定しすぎていて、記述の余白がどこにもないのよ!」


 狼の爪がエルヴィンの頬をかすめ、血が飛ぶ。

 彼は獣の爪を右腕で受けると、鈍い衝撃が響いた。



 喪を吸着しきれぬ手甲はただの重い鉄の塊に近く、彼の筋力を容赦なく削いでいく。



 このままでは、彼は灰狼に防戦一方の肉塊となって喰われる。



「……くそっ。この平穏が、今になって仇になるとはな」


 彼は追い詰められ、ようやく腰袋の魔力糖だいしょうとうを指先で探る。それを噛み砕くということは、この穏やかな明晰さを捨て、再びあの泥のような喪の記憶と、終わりのない湖へ沈むことを意味する。



 彼は躊躇ためらった。

 だが、背後から迫る牙に、覚悟を決めた。


「——セリス。お前を信じるよ。俺の脳を抉ってでも記述を叩き込め。俺の安定など、今すぐ焼き払ってやる」


 彼は腰袋から魔力糖だいしょうとうを取り出すと、ガリリ、と無造作に噛み砕いた。

 甘い香りが漂うはずの糖が、彼の口内では精神を蝕む劇薬へと変わる。



 溢れ出す力と引き換えに、自己の記憶が泥に溶け出していく。



「——来い!」



 彼の瞳孔が、警告の赤色へと変色する。


 不完全な機能、高まる汚染、そして死の匂い。

 浄化されたばかりの鉄手甲が、主の狂気に呼応するように、黒い泥を吸着しようと蠢き始めた。



「——今だ、セリス! 俺の脳を抉ってでも記述を叩き込め!」



 二度目の狂気じみた叫び。

 私は銀の鍵を握り締め、虚空に命じる。




『右腕の鉄手甲、喪の吸着を最大化せよ』




 付与が成功する。



 彼の精神という余白に、私の命令が焼き付いた。

 鉄手甲が青白い光を放ち、周囲の喪を強引に吸い寄せる。


 だが、吸着された汚濁は浄化されていない手甲の中で渦を巻き、エルヴィンの精神を再び、汚染していく。



 彼は折れた軍刀を振るう。

 付与された力で狼の喉元を切り裂くが、その代償に、彼の瞳はさらに深い濁りに染まっていく。



「深追いしすぎよ、エルヴィン! また余白が消えていくわ!」


「耐える……これくらいの痛み、以前に比べれば!」



 エルヴィンは、その隙を突き、半ば半狂乱の過去と決別するように、折れた軍刀で切り、鉄手甲で狼の牙を叩き、泥を散らしていく。



 私たちは今、結晶という光を手にしながら、誰よりも深くこの世界を壊した。


 ならばせめて、この飢えた群れを血肉の雨に変えながら、私たちは地獄の果てまで歩むしかない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ