20話 洞窟の中で
静寂が洞窟を支配している。
鉄手甲から喪が消え去った右腕は、あまりに白く、空虚に震えていた。
「セリス……セリス・フィア」
エルヴィンが、私の名を呼ぶ。
その声には、怒りも、絶望も——本来あるべき激昂が欠落していた。
「もう一度聞く。お前は、俺を助けるためにそうするしかなかったんだ、よな……?」
彼は、私の記述によって固定された偽りの過去を、自ら手繰り寄せようとしていた。
この数年、記憶の霧の中で半ば半狂乱となり、何が正しく、何が歪んでいるのかさえ分からず喘いでいたであろう彼に、突如として訪れた「明晰さ」という名の毒に、エルヴィンの精神は今、激しく揺れているのだろう。
きっと、彼は、真実を直視する勇気がないのではない。
真実そのものが曖昧で、霧が晴れた脳裏に、偽りの幼なじみの笑顔を、強引に描き直している。
鉄手甲の喪が消え去った今、真実の欠片が脳を突き刺しているはずなのに、彼はその痛みに蓋をし、私の作り上げた檻の中に自ら戻ろうとしている。
「セリス、お前は出会ってからずっと、俺を救おうとしてくれていた。俺は、お前のことを信じている」
その言葉は、祈りにも似た響きを帯びているように思えた。
きっと、言葉の通り、私を信じているのではない。
信じなければ、この荒涼とした現実の中で——そして、この空っぽになった右腕で生きていくための、意味のようなものを彼は見つけられないのだ。
私は彼の手を握りしめた。
銀の鍵が、冷たい金属音を立てて二人の間に割って入る。右手の指先には、記述を行うたびに刻まれる黒い痣が滲んでいる。
それは、私が彼から奪った真実の代償だ。
「ええ、そうよ。エルヴィン。私は貴方を、何度だって救ってみせるわ」
それが呪いだと分かっていても、私は頷く。
言葉にすればするほど、胸の奥で黒い澱が渦巻く。
背後では、つい先ほどまで青く輝いていた水面が、急速に濁り、地底の泥を巻き上げながら腐敗し始めていた。
村を護っていた理が崩れ去る音が、洞窟の壁に反響する。
私の罪は深い。
不確かな記憶を、さも真実であるかのように記述し、彼の魂を弄んだ。
たとえそれが、彼を生かすための唯一の道であったとしても、人の記憶を書き換えるという行為に言い訳など許されない。
嫌われたって私は彼を救う。
剥落のあの日、私の力不足で彼の記憶を守ることができなかった。
その取り返しのつかない過ちを埋めるために、私は偽りの歴史を紡ぎ続けている。
彼がどれほど優しく言葉で私を許そうとも、他の誰でもない私自身は、彼が真に救われるその日まで、私を許すことはない。
それが、この洞窟で共に罪を犯した——私たちの、共犯の形なのだから。
その時だった。
洞窟の静寂を打ち破るように、背後の暗闇から無数の赤い光が、一斉に瞬いた。低い息遣いが聞こえてくる。
「……歓迎されているようね」
私の呟きに、エルヴィンは空っぽになった右腕の鉄手甲を握りしめた。
結晶の光を奪われたことで、巣の主たちが飢えに狂い、獲物である私たちを喰らいにやってきたのか。
「セリス、記述を! こいつらは、ただの獣じゃない!」
彼の声には、先ほどまでの凪のような静けさは微塵もない。
エルヴィンが鉄手甲を掲げる。
「嘘、どうして?」
私は、銀の鍵を空中に走らせる。
けれど、付与は上手くいかない。
おそらく、結晶の恩恵で今の彼はひどく静かで、澄み渡っている。
その強固な理性が、私の記述という書き換えを異物として弾き返してしまうのだ。
「ダメよ、書き込めない! おそらくだけど、今の貴方は安定しすぎていて、記述の余白がどこにもないのよ!」
狼の爪がエルヴィンの頬をかすめ、血が飛ぶ。
彼は獣の爪を右腕で受けると、鈍い衝撃が響いた。
喪を吸着しきれぬ手甲はただの重い鉄の塊に近く、彼の筋力を容赦なく削いでいく。
このままでは、彼は灰狼に防戦一方の肉塊となって喰われる。
「……くそっ。この平穏が、今になって仇になるとはな」
彼は追い詰められ、ようやく腰袋の魔力糖を指先で探る。それを噛み砕くということは、この穏やかな明晰さを捨て、再びあの泥のような喪の記憶と、終わりのない湖へ沈むことを意味する。
彼は躊躇った。
だが、背後から迫る牙に、覚悟を決めた。
「——セリス。お前を信じるよ。俺の脳を抉ってでも記述を叩き込め。俺の安定など、今すぐ焼き払ってやる」
彼は腰袋から魔力糖を取り出すと、ガリリ、と無造作に噛み砕いた。
甘い香りが漂うはずの糖が、彼の口内では精神を蝕む劇薬へと変わる。
溢れ出す力と引き換えに、自己の記憶が泥に溶け出していく。
「——来い!」
彼の瞳孔が、警告の赤色へと変色する。
不完全な機能、高まる汚染、そして死の匂い。
浄化されたばかりの鉄手甲が、主の狂気に呼応するように、黒い泥を吸着しようと蠢き始めた。
「——今だ、セリス! 俺の脳を抉ってでも記述を叩き込め!」
二度目の狂気じみた叫び。
私は銀の鍵を握り締め、虚空に命じる。
『右腕の鉄手甲、喪の吸着を最大化せよ』
付与が成功する。
彼の精神という余白に、私の命令が焼き付いた。
鉄手甲が青白い光を放ち、周囲の喪を強引に吸い寄せる。
だが、吸着された汚濁は浄化されていない手甲の中で渦を巻き、エルヴィンの精神を再び、汚染していく。
彼は折れた軍刀を振るう。
付与された力で狼の喉元を切り裂くが、その代償に、彼の瞳はさらに深い濁りに染まっていく。
「深追いしすぎよ、エルヴィン! また余白が消えていくわ!」
「耐える……これくらいの痛み、以前に比べれば!」
エルヴィンは、その隙を突き、半ば半狂乱の過去と決別するように、折れた軍刀で切り、鉄手甲で狼の牙を叩き、泥を散らしていく。
私たちは今、結晶という光を手にしながら、誰よりも深くこの世界を壊した。
ならばせめて、この飢えた群れを血肉の雨に変えながら、私たちは地獄の果てまで歩むしかない。




