17話 泥の咆哮
灰の降り止んだ早朝。
村の北端、沈黙を守る洞窟の入り口には、昨夜見た村人たちの姿はもうなかった。
ただ、入り口を覆う歪な膜が、肺腑を患った獣のように規則正しく明滅を繰り返している。
エルヴィンは無言で軍刀を抜き放つと、折れた刃の先が黒く震え、鈍い光を帯びる。
「セリス。入り口から先は、呼吸も浅くしろ。澱の濃度が違う。おそらく昨日の、灰狼の巣になっているハズだ」
私が頷くより早く、彼が膜を切り裂いた。
空間そのものを断ち切るような音とともに、洞窟の深淵が口を開ける。
洞窟の内部は、湿った土と腐敗した澱の臭いに満ちている。
用意した魔導燈を手に奥へ進むと、地底から響く不快な鳴動が耳を打った。
不意に、エルヴィンが足を止めた。
その視線の先で、泥が蠢いていた。
灰狼だ。
三頭の群れが、こちらを囲むように身を低くしている。
二頭は毛並みが剥がれ落ち、粘着質な泥そのものに変貌していた。
残る一頭だけは、煤けた毛並みを残し、悲痛な鳴き声を漏らしている。
正常な個体を、泥の塊が食い殺そうとしていた。
「……共食いか」
エルヴィンが忌々しげに吐き捨てる。
彼の鉄手甲がカシャカシャと音を立てて展開し、青い光が洞窟の壁面を激しく照らし出した。
「この洞窟は空気が悪い、本物の火を使えば蒸気で視界は奪われ、空気も枯渇するだろう。セリス、付与は極めて最小限に留めろ。手早く片付ける!」
私はエルヴィンから受け取った魔導燈を地面に置く。
私は、銀の鍵で、彼の右腕に記述をした。
私の鼓動を吸い上げるように、鉄手甲のヒビから青白い光が私の記述によって、紅蓮へと変色した。
エルヴィンが、炎の刃を振るう。
刃が泥を焼いた瞬間、洞窟内は猛烈な蒸気の幕に覆われた。
瞬く間に視界が白濁し、焦げた腐臭が鼻腔を突き刺す。
先ほどまでの熱風は鳴りを潜め、代わりにまとわりつくような湿度が私たちを包み込んだ。
見えない。
敵の位置も、エルヴィンの背中さえも、この蒸気の中では朧げだが、私はエルヴィンの気配を濃く感じ取っていた。
銀の鍵を介して結ばれた記述の回路から、彼の荒い呼吸と、鉄手甲が放つ熱の奔流が直接に脳裏へと流れ込んでくる。
「……来るぞ!」
エルヴィンの短い警告と同時、蒸気の奥でヌチャリと嫌な音が響く。
彼が軍刀を振るう。
肉と泥を両断する湿った重い音が、私の鼓膜を震わせた。
気配の渦。
エルヴィンを中心に、澱の泥と鋼が激しく衝突し、引き裂かれる様を、私は確かな感覚として追っていた。
じきに、泥の灰狼が上げる人間にも似た断末魔が空間を満たす。
火花が散る。
その度にエルヴィンの背中が、私を庇うように小さく揺れた。
戦うたび、彼の右腕には過剰な負担がかかる。それでも彼は、泥にまみれた澱を切り裂くことに躊躇いがない。
「終わった、先を急ぐぞ」
エルヴィンは布で軍刀を拭くと、慣れた手つきでしまい、魔導燈を私から受け取った。
私たちは結晶を求めて歩みを進める。
彼の負担を軽くするためにも、彼の幼なじみを救うためにも。
そこは、洞窟内にしては、かつて地殻が崩落した跡なのか、不気味なほどに空間が広がっていた。
壁面には、本来あるはずのない植物の根のようなものが張り巡らされ、動脈のように絡みついている。
まるで洞窟そのものが巨大な胃袋のように、村の不具合を消化しているかのように思えた。
足元を流れるのは、土砂と灰が混じり合って粘性を帯びた水。それが、時折、抜け殻のような泡を立てて弾け、不快な音を立てる。
崩落跡の中央にたどり着くと、エルヴィンは静かに足を止めた。
天井には、見るからに綺麗な晶石が、死にゆく星の残光のように蒼白く瞬いている。
求めているものはこれなんだろうか?
「よし……少し、ここで休むか」
私がそう考えていると、彼は荒い呼吸を整えながら、無造作に魔導燈を置きながら言った。
エルヴィンが、腰の小袋から魔力糖を取り出す。
この先を考え、この場所で少し休むことになった。
私たちはお互いの摩耗を認め合うことでしか、この灰の村を歩き続けることができない。




