16話 灰狼の導き
北の荒れ地を、私たちは数時間も彷徨っていた。
エルヴィンの右腕、鉄手甲が放つ青い光は、ここへ来るまでの路地裏とは比較にならぬほど激しく、まるで警告の鐘を打ち鳴らしている。
それは、あの剥落の日を思い出させた。
瓦礫を退け、灰の堆積をエルヴィンが軍刀で切り開く。
何処にも、澱の源などない。
まだ一日目、それでも、私たちに残された時間がどれほどあるのか、わからないという焦燥が私たちの足取りを重くする。
やがて、空から降る灰が急激に弱まり、太陽が地平線の彼方へ沈み去った。
——夜が来る。
世界から灰色が消え、ただ泥色の闇だけが残る時間。
その時。
村の北端、かつての放牧地であったであろう荒れ地で、エルヴィンが足を止めた。
「……あそこだ」
その視線の先——崖の中腹にある洞窟の入り口に、数人の村人たちがいた。
彼らは呼吸すら忘れたかのように、首を不自然な角度で固定したまま、微動だにせず洞窟を見つめている。
まるで、意思を、魂の在り処を、あの暗闇に預けてしまったかのように。
「見て、エルヴィン。……あれは」
私の言葉を遮るように、洞窟の闇から一匹の獣が姿を現した。
灰狼だ。
毛並みは煤け、眼光はまるで澱そのもののように濁っている。
その獣は、私たちがいることなど意にも介さず、不自然なほど静かな足取りで、洞窟を塞ぐ歪な膜のような障壁の中へと、吸い込まれるように消えていった。
「あそこが怪しい。もしかしたら、中は灰狼の巣になっているのか」
エルヴィンの独り言は、震えるほどに低かった。
鉄手甲のヒビから漏れる光が、さらに輝きを増す。
「夜は危険だ。……一旦宿に戻るぞ。明日の早朝、万全の状態で再びここへ来る」
エルヴィンは踵を返した。
村人たちは相変わらず、洞窟の闇を見つめ続けている。
「エルヴィン、あの村人には声をかけないの?」
「ああ、なんだか嫌な感じがするんだ、やめておこう」
エルヴィンの背中について行きながら宿へ戻った。
階下では女将のエマが温かな煮汁を用意して待っていた。
この村特有の湿った空気の中で、彼女の穏やかな微笑みは、凍りついた心に灯る火のように温かい。
「お帰りなさい。今夜は冷え込みますから、温かいものでも食べて、ゆっくりお休みになってください」
並べられた器。立ち昇る湯気は、この村の荒々しさを忘れさせるような、素朴で優しい香りを漂わせている。
私はその匂いに、旅の疲れが解けていくような安らぎを覚えた。
しかし、私の横でエルヴィンは微動だにしない。
彼は器のフチに指をかけつつも、どこか遠くを見るような、冷えた瞳でそれを見つめている。
きっと、エマの親切を疑っているわけではない。けれど、エルヴィンの中には、私には見えない何かに対する境界線があるようだった。
「ありがとう、部屋でいただくよ」
彼は煮汁の入った器を慎重に手に取り、エマへ小さく会釈した。その表情には、戦士の影だけでなく、日常を生きる者への最低限の敬意が混じっている。
その後、一緒に部屋へ戻ると彼は器には一切手をつけず、隠していた腰袋から古びた包みを取り出した。
中身は、岩のように硬く乾燥させた獣の干し肉と、塩をまぶしただけの固い干し糧だ。
彼はそれを数切れ、無造作に口へ運び、ゆっくりと咀嚼する。
保存のために石のように硬化したそれは、到底、食事と呼べる代物ではない。
「エルヴィン、煮汁は……」
「俺は、いい。お前は食べておけ」
そう言って、彼は私を促した。
エルヴィンの警戒心は、彼が戦いの中で生き抜くために研ぎ澄ませてきた防壁なのだろう。
もしかしたら、彼がエマを信じきれないのは、この村の不穏な空気を、彼だけが肌で感じ取っているからかもしれない。
私は温かな煮汁を一口、啜る。体内に優しい熱が広がり、エルヴィンの張り詰めた横顔と、温かな食事という対照的な現実に、少しだけ眩暈を覚えた。
彼は食べ終えると軍刀を抱え、寝台の端に腰を下ろした。
「エルヴィン。あなたはここで休んで。残りの時間は、私が守るわ」
私が鍵を握りしめて言うと、彼は眉間に深い皺を刻んで睨みつけてきた。
「澱の気配は消えていない。今日も俺が夜の番をする」
「でも、あなたは昨日も一睡もしていないし、このままじゃ体がもたないわ。お願い、せめて少しだけ……」
私が鍵を握りしめて訴えると、彼は酷く疲れた溜息を吐き、ようやくその重い視線を私へと向けた。
「……セリス、お前のその、使命感には折れる」
エルヴィンは軍刀から手を離し、強張っていた肩をゆっくりと落とした。
彼は寝台の端に深く腰を下ろし、私の顔をじっと見つめる。その灰色瞳の奥底に、戦士としての防壁が緩む瞬間を見た気がした。
「すまない、なにかあったらすぐに起こしてくれ」
「ええ、約束するわ」
彼は深く息を吐き出し、そのままゆっくりと寝台へ身を預けた。
無造作に放り出された右腕には、酷い火傷の跡が残っていた。
使い込まれた鉄手甲の下で、皮膚はこれほどまでに焼かれていたのか。……彼が背負っている喪の重さが、そこにあった。
私は彼の横に腰を下ろし、銀の鍵を握り直す。
彼はすぐに眠りに落ちた。
あんなにも張り詰めていた呼吸が、今は規則正しく刻まれている。
荒野の果て、異形の澱が蠢く村の夜。
その中で唯一、彼の寝息だけが、ここがまだ人の住まう場所であると証明してくれているような気がする。
私は、寝台の横に座り、ただ彼を眺める。
普段の彼からは想像もつかないほど、その寝顔は幼く、そして酷く壊れやすいように見えた。
いつか、本当の意味で鉄手甲という枷を外し、軍刀を抱える指先から力が抜けた時。
私は時折、彼がこのまま世界の隙間に溶けて消えてしまうのではないかと、言いようのない恐怖に襲われる。
私にとってエルヴィンは、憧れであり、救いであり、そして、何よりも恐ろしい澱に一番近い存在だ。
彼が背負う業の深さは、私には計り知れない。
私を守るためにその身を焼き、言葉を削り、感情を諦念の底へ沈める彼を見ていて、胸が締め付けられるのはなぜだろう。
ただ、もう二度と彼を一人にしない。
鍵を握りしめるこの手が震えているのは、恐怖のせいか、それとも、この人の魂を繋ぎ止めようとする執着のせいか。
はやく、幼なじみの記憶を取り戻してあげたい。
この眠りが、彼にとってせめてもの休息となりますように。
私は彼が目覚めるまで、ただ独り、夜の静寂を見張る。
窓の外、洞窟の方角から漂ってくる、気配を拒むように。




