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絶蝕のアルカイヴ  作者: 天色うさぎ
灰被りの共犯者編

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14話 宿屋にて


 宿屋の戸を開けると、灰の臭いとは異なる、微かな湯気の香りが鼻腔をくすぐった。


 廃れた村には似つかわしくないほど、室内の魔導燈まどうとうは穏やかな光を放っている。


 女将は、さっきまで見たこの村の住人とは到底思えぬ穏やかな笑みを浮かべていた。


 彼女はひどく痩せぎすで、異様に長い指先を滑らせるようにして木桶と使い込まれた麻布を差し出す。


 肌はとても白く、魔導燈の光を透かすほどに薄い。しかし、その瞳だけは、濁ったこの村の中で奇妙なほど澄み渡り、まるで硝子ガラス細工のように鈍く光っていた。



「冷え切った身体に、せめてもの温もりを。灰の汚れは、早めに落としておかないと、肌に染みついて取れなくなりますから」



 エルヴィンは無言でそれを受け取ったが、その瞳からは警戒が消えていない。


 彼は軍刀を肌身離さず、入り口に近い場所に背を向け座り込んだ。彼女はそんな彼を気にした様子もなく、私の肩にそっと触れる。



「気にしないでください。この村の人達は、あなたたちのような、いわゆる余所者をあまり好まない……自分たちの生活を壊す不吉の種だと思っているんです」



 彼女は窓の外、灰が降り積もる路地を見つめ、寂しげに付け加えた。



「私は構いません。ここへ来る人は、みんな何かを抱えて迷い込んできますから。……ただ、纏わりつく泥のようなものを少しでも拭い去ってほしいだけなんです。……ああ、失礼。名乗りも遅れましたね。エマと申します」


 女将はにこりと微笑むと、無言で帳場の奥を指し示した。


 狭く、軋む木造の階段。

 私たちは彼女に促されるまま、埃の積もった廊下を歩く。床板が歩くたびに悲鳴を上げ、その音は耳障りなほど、奥へと反響した。


 どこか甘いような、それでいて腐敗した何かの匂いが廊下に満ちている。


 エマが提示した部屋は、一番突き当たりにあった。


 鍵穴に、錆びついた真鍮しんちゅうの鍵を差し込み、彼女が静かに扉を開く。


「お二人には、この部屋を。……何かあれば、いつでも帳場へお越しください」


 室内は驚くほどに整えられている。だが、窓の隙間から漏れ入る冷風が、部屋に漂う温かな湯気の香りを絶えず削いでいた。

 


 彼女が去った後、部屋には湯気の立つ桶が残された。温かな湯に布を浸すと、指先から灰の記憶が少しずつ溶け出していく。




 私は桶の中の湯を見つめた。

 灰にまみれた指先から溶け出した黒いおりが、桶の底で意味の抜け殻のように澱んでいる。


 エルヴィンの背負うごうに比べれば、私の摩耗など些細なもの。そう言い聞かせ、私は重い身体を布で拭い始めた。


 身体を拭い終えると、私はぬるくなった湯を片付けるため、桶を抱えて部屋を出た。


 階下の帳場には、薄暗い魔導燈まどうとうの下で帳面を付けるエマの姿があった。


 私が桶を差し出すと、彼女はそれを受け取り、桶の中の水を捨てた。


「連れの分の新しいお湯をください」


「お湯の追加ですね。……そういえば、あちらの旦那様、先ほどわざわざ戻ってきて隣の部屋を借りると仰っていたのですが」


 

 彼女は少し困ったように眉を下げ、首を横に振った。


「今、他の客室はどれも雨漏りと故障がひどく、とても、人がお泊まりになれる状態ではないのです。お二人に案内したあの一室しかなくて、本当に申し訳ありません」


 彼女から差し出された桶を受け取り、私は努めて平静を装いながら、温かな湯を抱えて部屋へと戻った。


 エルヴィンと同じ部屋で二人、か。


 私が部屋へ戻り、一息ついたときだった。ふと、廊下から気配がして、扉が低くノックされた。


 エルヴィンだ。

 胸の奥で、微かな疼きが走る。


「……セリス。隣の別室を借りた。何かあれば声をかけてくれ。くれぐれも、戸締まりと警戒を怠るな」



 重厚な扉の向こうで、彼はそう言って一度だけ間を置いた。ドア越しに伝わる気配が、わずかに揺らいだ。


 ああ、コレは嘘だ。


 扉の向こうで、小さな音が聞こえる。

 もしかしたら、彼は眠るつもりなどないのかもしれない。私のために、この夜という境界線で見張りに立つのだろう。


 彼は本当に自分を犠牲にしてばかりだ。

 そんな彼の献身が、今の私には酷く痛ましくて、そして、どうしようもなく胸を締め付ける。


 自分が恥ずかしい。


 私は、改めて桶を手に取って扉を開けた。廊下には、軍刀を抱えたまま、微動だにせず立つエルヴィンの姿があった。



「……使い終わったお湯を返しに行くついでに、新しいものを貰ってきたわ。エルヴィン、あなたも疲れているでしょう。これを使って」



 私が桶を差し出すと、彼は困惑したように眉を寄せた。



「必要ない、休めるうちに休んだ方がいい」


 彼の表情は険しい。

 私は意を決して彼に問う。



「隣の部屋なんて、借りていないのでしょう?他の部屋は使えないってエマさんから聞いたわ」



 私の問いに、彼は一瞬だけ言葉を詰まらせた。


 その不器用な嘘を私は笑うことも、責めることもしない。ただ、彼の手を取り、自分の部屋へと促した。


「……俺はここで見張る。お前が眠る間、少しでも安全なように」


 頑ななまでに軍刀を握るその手に、私は優しく触れる。


「気にしないで。狭いけれど、二人でいた方がなにかあった時にも対処しやすいでしょう? それに、一人で眠るのが少しだけ怖いの。あなたの目が届く範囲にいてくれるだけで、きっと、安心できるから」


 エルヴィンは迷うように視線を彷徨わせたが、やがて短く息を吐き、桶を受け取った。



「……すまない。お前がそこまでいうなら、ここで休む」


 私は彼が身体を拭うのを邪魔せぬよう、桶を手渡すと一度部屋を出た。


 廊下の隅で数分ほど待っただろうか。

 埃っぽい空気が冷たく肌を刺すが、不思議と苦ではなかった。



 やがて扉が開き、彼は軍刀を抱えたまま、わずかに肩の荷を下ろしたような顔で姿を現した。



 部屋に入ると、彼は迷うことなく入り口に近い寝台を指し示した。


「……では、俺はそこで休む。必要があればすぐに動くから俺に任せてゆっくり休んでくれ」


 彼がそう告げたのは、私を寝台に押し込め、自分はあくまで門番として振る舞うという意思表示だった。


 彼は部屋に入った後も、軍刀を抱えたまま入り口を見張り、決して寝台には近寄ろうとしない。



 今は彼の優しさに甘えて、休もう。

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