13話 西の村へ
リリィの店を夜陰に紛れて出てから、どれほどの時が過ぎただろう。
廃墟で過ごした一夜を経て、今はいつの間にか頭上に灰色の空が広がる昼下がりだ。
荒野に降る灰は、湿り気を帯びていた。
底の薄い皮纏を泥濘に沈めるたび、背後から澱の蠢く音が聞こえる気がする。
私の視線の先には、エルヴィンの背中がある。
煤けた外套の裾が歩くたびに擦れ、その鉄手甲からは絶えず青白い光の鳴動が漏れ出していた。
あの夜、リリィの店を出た場所で、ジギタリスが突きつけた残酷な宣告。
『ここに書かれた村へ、行け。お前たちが求めるものはそこにあるだろうからね』
奴が地図を投げ渡す際、私の胸元に隠した「銀の鍵」を射抜くような鋭さで注視したことを思い出す。
『セリスさん、その鍵はあなたが持っていた方がなにかと都合がいい。せいぜい無くさないようにしなさい、私にとってその方が利用価値が高いからね』
奴は鍵を奪おうとはしなかった。私の胸元に宿る熱を、金の瞳は射抜いていた。
鍵を奪うのではなく、私の命ごと利用することを選んだのだ。
あんな男に、私の運命が組み込まれている――その事実を突きつけられたことに、私は猛烈な寒気を覚えた。
エルヴィンはジギタリスの毒気に反応することなく、ただ軍刀の柄を白くなるほど強く握り締めた。
彼にとって、あの男の言葉は情報ですらない。自分の破滅を確定させるための、死刑宣告の読み上げに過ぎなかったのだ。
私は胸元に隠した銀の鍵に、そっと指先を触れる。
かつてはただの重りに過ぎなかったこの鍵が、今は私の掌の中で確かな熱を帯びている。
彼が『世界の不具合』をその身に吸着し、世界に繋ぎ止めようとするのなら、私はその残滓を濾過し、結晶という『現実』として書き留め続けねばならない。
この鍵は、ただ開くための道具ではない。
私の命を代償に、エルヴィンという存在をこの世に縫い付けるための、唯一の錨なのだと、今の私は本能で悟っていた。
「……セリス」
エルヴィンが振り返る。
その灰色に濁った瞳に、微かな疲労が滲む。彼は私の指が鍵に触れていることに気づいていない。
「……もう少しだ。あの集落には、澱を濾過するための晶石がある。それさえあれば、お前の負担も幾分かは……」
彼は言葉を切り、チラリとこちらを振り返った。その瞳の濁りは相変わらずだが、視線にはどこか私を慈しむような、不器用な気遣いが混じっている。
彼が言いかけた言葉を、私は遮るように首を振る。
エルヴィン。あなたは、いつも自分を犠牲にすることばかりを考えている。
「いいえ。……私は、私の意志でここにいるわ」
強がって微笑んでみせた。
だが、その瞬間、エルヴィンの鉄手甲が鋭く鳴動し、私の視界が白く掠んだ。
視界の白濁が晴れた先、荒野の果てにその村はあった。
かつては人々の営みがあったであろう場所は、今や灰の重圧に耐えかね、骨組みを晒した廃墟の墓標と化している。
歪な尖塔が突き刺さるその景観は、まるで地表に開いた傷口のように見える。
「……あそこだ」
エルヴィンの言葉は短い。
彼は鉄手甲から漏れる青白い光を抑え込み、警戒を露わにする。
村の入り口を塞ぐのは、朽ち果てた硝子障の残骸と、泥のように積み上がった灰の山だ。
私が一歩足を踏み入れるたび、積もった灰が乾いた音を立てて崩れる。
エルヴィンは私の前に立ち、右腕を突き出す。
ガシャリ、と装甲が展開する。
鉄手甲の隙間から漏れ出る青い光が、周囲の灰を冷たく照らし出す。
「……澱の気配が濃い。気を抜くな」
彼の背中は、以前よりも心なしか痩せて見える。
それでも、私を守ろうとするその頑なな姿勢だけは、この荒野のどこよりも確かで、温かかった。
村の深部へ足を進めると、灰の奥から、数人の村人の姿が見えた。
痩せこけ、瞳に諦念を宿した彼らは、我々を異物として見つめ、すぐに奥へと姿を消していく。
この閉鎖された空間にも、かろうじて人の営みは残っていた。
私たちは、村の片隅でかろうじて看板を掲げている宿屋へと辿り着く。
エルヴィンは、酷く摩耗した私の肩を気遣うように、無言で宿の戸を叩いた。
「……今日はここで休もう」
彼がそう告げる声には、初めて安堵の色が混ざっていた。




