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光輝くぼくらの未来  作者: 阿野真一
夏休み二日目
13/27

夕方

 ようやく私の存在に気づいてくれたみなさん。その旅路はすこぶる順調なご様子です。なにもない本当につまらない道筋ですが、仲間さえいれば退屈とは無縁のものらしく、彼らは軽口を叩き合いつつ軽い足取りでこちらに向かっています。


 今の段階で取り立てて心配なことと言えば、やはり町の人から「外敵」と呼ばれている動物たちでしょう。とは言え昔と比べると、このあたりに生息する「外敵」は大きくその数を減らしており、偶然に遭遇する可能性は極めて小さいと……そう思っていたのですが。


 来ちゃいましたねえ。餌の匂いを嗅ぎつけ、一頭の「外敵」がみなさん目掛けてまっしぐらに突っ込んでいきます。圧倒的に足が速いですからね。ひとたび見つけられてしまえば人間の足で逃げ延びることは、まず難しいでしょう。


 ですので「外敵」ちゃんには申し訳ないのですが、手を出させていただきます。


 えい! とお! はっ!


 ……まだ諦めてくれませんか。


 ていっ! おりゃ! ほっ!


 ……けっこうしつこいですねえ。


 きえい! とりゃ! はいっ!


 ……ふう、どうやら諦めてくれたようですね。名残惜しそうにしながら、もと来た方角へ引き返していきます。


 お食事の邪魔しちゃって本当にごめんなさい。あと二年くらいしたら私をあげるから、それで許してね?




       ♢♢♢




「あたし思うんだけど」


「うん? なにをだよ、咲紅」


「蒼志を呼んでるのって、実は魔女さんなんじゃない? ほら、魔女さんって魔法で子どもを町の外に連れ出すんでしょう?」


「つまりお嬢は、蒼志が見た幻覚やら砂に書かれた文字が魔法だって言いたいのか? へっ、バカげてるぜ。魔法なんて現実にあるわけないだろ」


「うーん、魔女さんか。魔女さんの噂の元になった誰かって可能性はあるかもな」


「でしょ!? あたし、それが言いたかったのよ!」


「んじゃあ問題になるのは、蒼志が良い子か悪い子か、だな。良い子ならご馳走してもらえるけど、悪い子だと逆に食われっちまうんだぜ?」


「ははっ、良い子に決まってるだろ。ともかく便宜上、俺を呼んでる謎の存在のことは魔女さんとよぶことにしようか」


 町をあとにし、しばらくはそうして「魔女さんっていくつくらいだろう?」とか「珍しい動物とか現れないかなあ」などの話しで盛り上がっていたのだが。


「「「……」」」


 今はこの有様だ。誰も、一言も喋ろうとしない。三人とも暑さにやられてしまっている。一日の内で最も暑い時間はとっくに過ぎ、陽はずいぶん西に傾いてはいるが、だからといってすぐに涼しくなるものではない。長い時間をかけて熱せられた地面からは茹だるような空気が立ちのぼり、弱まったとはいえまだ強い日差しが剥き出しの肌を焼く。あたりは見渡す限りの大平原だ。避難できそうな木陰の一つも見あたらない。あー、のど乾いたな。


 ふと、振り返って後ろを見た。我慢強さに定評のある俺がこれほど参っているんだ。根性のない翠は相当へたばっていることだろう。


「ハァ、ハァ……。あっちい……、み、みず……」


 ほら、思った通りだ。


 お? 意外と咲紅は頑張っているな。根性は人並みに有るが体力のない咲紅も、そろそろ限界ではないかと心配していたのだが。汗をかいて少し息は荒いが、翠と違って目が死んでいない。あ、目が合った。……ふふん、笑いかけるくらいの余裕はあるようだな。俺もすぐに笑い返してやった。


 しかし暑いな。ジュースとか買ってくるべきだったなあ。まあ今更どうしようもないけど。少し辛いが命に関わるほどの事でもないので、我慢して黙々と歩くことにしよう。


 黙々と、もくもくと。もく、もく、もく、もく、ごく、ごく、ごく。


 ごく? なんの音だ? その不思議な音は後ろの方から聞こえてくる。


 気になって振り返ると、さっきと変わらない辛そうな翠の顔が。その翠も不思議そうに、ノロノロと後ろを振り返る。その視線の先には、プカリのペットボトルを傾けて、幸せそうにごくごくと喉を鳴らす咲紅の姿があった。


 ああ、プカリか。プカリならしょうがないな。ごくごく音がするのは当然のことだ。


 俺と翠は納得して前を向き、黙々と歩き――、


「「いやいや! なに一人でプカリ飲んでんだよ!」」


 二人揃って勢いよく振り返り、咲紅に詰め寄った。驚いてむせた咲紅は激しい咳を何度か繰り返したあと、涙目で言いわけを始める。


「あ、う、ち、違うのよ! これは、その……お弁当の時にみんなで飲もうと思って、荒川に行く途中で買ったんだけど……」


 弁当の時は確か、みんなお茶を飲んでいたな。プカリを持ってきていたのなら、なぜそのとき出さなかったのだろう。不思議に思いつつ続きを促す。


「……それで?」


「お弁当とプカリって、あんまり合わないかなって思って、それでお昼はお茶にしようって思って――」


 なに言ってんだよ! 弁当とプカリの相性は抜群だろ!? と思ったが、いま大事なのはその事ではないので、口に出さずに続きを促す。


「……それから?」


「お昼はお茶を買って飲んだから、プカリはリュックの中にずっと入れっぱなしだったの。それをさっき、急に思い出して……」


「なるほど、それで独り占めして隠れて喉を潤していたというわけか」


「なんらとーっ! ハァ、ハァ……」


 ヘロヘロになった翠が、かすれた声で憤ってみせるが全く迫力がない。今にもぶっ倒れてしまいそうだ。取り急ぎ水分を補給してやらないと。


「ち、違うわよ! 独り占めしようなんて考えてない! あんたたちに持たせると一気に全部飲んじゃって、あとで困るんじゃないかと思ったの! そうならないように保管しておいてあげたのよ!」


 あー、確かに翠はそうなりそうだな。でも俺はそんなにバカじゃない! と、強く言い返したいところだが、あんまり追い詰めて「あたしがお金出して買ったんだから、全部あたしのものよ! あたしの物をあたしがどうしようとあたしの勝手でしょ!」などと言い出されたら面倒くさいことこの上ない。いま最も大事なことは水分の補給だ。大事の前の小事。多少の事には目をつぶってやろう。


「あー、確かに翠はそうなりそうだな。でも、俺は大丈夫。ちゃんと後のことも考えて計画的に飲むからさ」


「なんらとー!? 僕はそんらにバカじゃらいぞぉ! ハァ、ハァ……」


 咲紅は値踏みするように、俺と翠を交互に見比べ、


「……わかったわよ。じゃあ渡しておくね? クドいようだけど念を押しておくわ。これで全部だからね? それが無くなったら、もう本当に終わりだから」


 そして、やれやれといった感じでリュックからペットボトルを取り出した。


「はい、大事に飲んでね?」


 差し出されたプカリを引ったくるように奪い取る翠。そして大慌てでキャップを外し、大きく開けた口に一気に流し込んだ。口の端から涎のようにだらだらと垂らしながら。


「プハーッ、うっめーっ! あー、生き返るぜ!」


 なんというか……あさましいな。咲紅も同じように感じたらしく、冷めた目でその様子を眺めている。


 一方の俺は「悪かったな、変に勘ぐったりして」と言っておいてから、落ち着き払ってキャップを開け上品に喉を潤した。いくら喉が渇いて死にそうだったとはいえ、あんまり見苦しいのはよくないよな?


 そして、咲紅のプカリのおかげですっかり元気を取り戻した俺たちは、さっきより少し速いペースで目的地へと歩き出した。


 それから一時間くらい歩いただろうか。正面に見えている森の緑は徐々に深くなり、俺たちがそこに確実に近付いていることを実感させる。日差しはさらに弱まり、気温もだいぶ下がったようだ。まだ「涼しくなった」とまでは言えないが「過ごしやすくなった」くらいは言ってもいいだろう。


「翠、大丈夫か?」


「大丈夫だって! そんなに何回も聞くなよ!」


「翠君、大丈夫でちゅか?」


「だーかーらー、大丈夫だから!」


 さっきから二十回くらい、同じようなやりとりを繰り返している。べつに深い意味はない。ただの嫌がらせだ。


「頼むからやめてくれよ。集団登校で初めて学校に行く新入生のような扱いは!」


 うーん、例えが微妙だな。もう少ししっくりくる、うまいことを言ったら止めてやろうかな。そう考えていると、


「あれ!? いまなにか動かなかったか!?」


 翠が話題を逸らそうとして、見え透いた小芝居を打ってきた。手でひさしを作り、遠くを見る素振りまでしている。


「誤魔化すの下手だね、翠君。すっごく、わざとらしいわよ?」


「いや、嘘じゃないって。あっ、ほら、また動いたぜ! 見ろよ、二人とも!」


「わかったわかった。もう新入生みたいな扱いしないから。だから下手な小芝居なんかしなくていいよ」


「いやいや、だから芝居じゃないって。見てみろよ。あれはたぶん、野生動物だぜ」


 野生動物という言葉に釣られ、つい翠の視線をたどってしまう俺と咲紅。世の大抵の子供は動物が大好きだからな。その一言に心惹かれてしまうのも無理はないだろう。


 ……あれ? ……本当になにかがいるなぁ。


 俺たち三人の目に映るのは背の低い雑草に覆われた一面緑色の大平原。所々に点々と茶色い地面が顔を覗かせている。そしてその茶色に紛れるように、少し違う色のなにかが動いているのが見て取れた。距離が離れている上に地面の色と紛らわしく、あまり大きくもないので何なのかまではわからない。


「……なんか……いるね」


 咲紅にも見えたようだ。目を細め、じっと遠くを見つめている。


「ほらー! なんかいるだろ? 嘘じゃないだろ? ほらー! 二人とも、なにか俺に言うこと無いの? ほら、あるはずだぜ? ほら!」


 勝ち誇った顔で騒ぎ出す翠がうざい。無視する。


「ねえ蒼志。あれ、こっちに向かって来てるみたいよ? だんだん大きくなってる」


 ……本当だ。確かにこっちに近づいているように見える。それにつれて、徐々にその形もはっきりしてきた。


 ……どうやら猫のようだな、あれは。姿勢を低くして走る姿が、家の近所に縄張りを持つ野良猫のボスに酷似している。


「たぶん、あれは猫だな。動きが猫っぽいし」


 すると、無類の猫好きの咲紅が突然はしゃぎだした。


「あ、本当だ、猫だ。きゃーっ! かわいいーっ! 走ってるー!」


 おいおい、こんだけ距離が離れているのに、かわいいかどうかわかるのかよ。ふてぶてしいヤクザみたいな猫だったらどうすんだ。


「おい、僕が最初に見つけたんだからな! 感謝しろよ!」


 いや、なにを感謝するのかよくわからない。


「蒼志見て蒼志見て! これが本当の猫まっしぐらってやつよ! きゃーっ!」


 そして猫に向かって手を振り、ぴょんぴょん飛び跳ねる咲紅。まあ確かに、まっしぐらにこっちへ向かってきてるな。えーと、確かそのフレーズはキャットフードのCMで使われてたんだよな。案外あの猫、俺たちのことを餌だと思ってたりして。はははっ。


 ああ、このくらい近くまでくればハッキリ見えるな。ほら、やっぱり猫だ。毛色は鮮やかな黄色と黒の縞模様。一般的にトラネコと呼ばれている種類だ。んー、ちょっと目つきが悪いかな。それに、かなり大きそうだ。まだ100メートルくらい離れているので正確にはわからないが……あれ? なんか目の調子がおかしいな。遠近感がうまくつかめない。


「……おい、蒼志。あのさあ……逃げようぜ?」


 声をかけてきた翠の顔を見てみると、マラソン大会の途中でベンチに座ってさぼってるのを見つかり、体育教師に追いかけられた時と同じ表情をしている。


「はあ? おまえ、なに言ってんだよ。なんで逃げなきゃいけないんだよ」


「あ、あのね、蒼志。すっごく大きいの。それでね、なんか、あんまりかわいいって感じじゃなくてね、なんか違うの。強そうというか、逞しいというか――」


 咲紅まで様子がおかしい。まるで、親父っさんに門限を破った言い訳をしている時のようだ。いったいどうしたんだろう二人とも、と首をひねりつつ駆け寄ってくる猫に目をやる。疑問は、その瞬間に氷解した。


 それは、猫ではなかった。猫ではなかったのだ。普通、猫はこんなにでかくない。


 では、この野生動物はいったいなんなのか。俺はこの謎も一瞬で解くことができた。以前、ネットでこの動物の写真を見たことがあるのを思い出したからだ。たしか、近所のおばさんが着ていた洋服の写真を使って検索したときに見たんだと思う。


 その写真の下には「トラ」と書かれていた。その下の説明文には、肉食の哺乳類で主に森や林に生息している事、成獣の大きさは3メートルに達するものもいる事などが書かれていた。そして……人間を襲うことがある、ということも。


 俺たちまでの距離はわずか10メートル足らず。トラは嬉しそうにグルグルと喉を鳴らし、一直線に突っ込んでくる。その鋭い爪の一撃が俺たちに振り下ろされるのに、おそらくあと一秒とかからないだろう。


 気づいた時にはすでに手遅れ。逃げることも、声を出すことすらできず、俺たちは三人で抱き合うようにしゃがみ込み、きつく目を閉じてその時を待った。


 …………ん? なにも……起こらないな。


 数秒後。なぜだか理由はわからないが、どうやら三人とも無事のようだ。現状を把握するためにおそるおそる目を開いた。


 目の前に咲紅の顔。ぎゅっと目を瞑っている。翠の顔も同じように目は閉じたままだ。そして二人のすぐ後ろ、手を伸ばせば簡単に触れるくらいの距離に、黄色と黒の縞模様が見えた。トラは左の前肢を挙げ、いまにも飛びかかってきそうな態勢で動きを止めている。その顔に浮かぶ表情は――驚愕。俺はトラの生態に詳しいわけでも、動物の心が読めるわけでもない。が、このとき、トラがなにかに驚いて動きを止めているということを、その表情からはっきりと読み取ることができた。


「……おい、咲紅、翠。なんか大丈夫そうだぞ? 目、開けて見ろよ」


 下手にトラを刺激しないよう声のトーンは抑え気味に。二人は右目からジワジワと開き始め、そしてすぐに両目を「クワッ!」と音が聞こえそうなほどに見開いた。


「あわわわわわ……」


 意味をなさない音を発し、しなだれかかってくる咲紅を支えてやる。


「なななっ、なんだよ、どうなってんだよこれ!」


 声を上げ寄り添ってくる翠は右手で防ぐ。男にくっつかれても暑苦しいだけだから。


「なんだかよくわからないけど、助かったみたいだ」


 とはいえ完全に難を逃れたとは言い難い。依然、俺たちの目の前では大型の肉食獣が、鰹節を前にした猫のように牙を光らせている。なぜ襲いかかってこないのかは不明だが、目の前の御馳走を諦めたというわけではなさそうだ。


 ここからどうやって逃げ出そうかと考えを巡らせていると、咲紅が「キャッ!」と声を上げて体を押しつけてきた。トラが左前肢をこっちに伸ばしてきたからだ。だがその動きは緩慢で、俺たちに危害を加える意図があるとは思えない。まるで、空中にある見えないなにかを探し出そうとしているような、そんな動きだ。


 そして、突然なにかに驚いたように巨体を震わせ、伸ばした前肢を素早く引っ込めた。俺たちもその動きに驚いてビクッとする。


 それからトラは低く唸り声をあげ、ゆっくりと俺たちの周りを回り始めた。


「ねえ、なにこれ。なにやってるのよ、この子」


「だ、誰から食おうか悩んでんだぜ、きっと」


 いや、そんな感じじゃないんだよなあ。悩んでるっていうより困ってるって感じだ。


 トラは俺たちのちょうど真後ろで立ち止まり、さっきと同じように手を伸ばしてきた。そしてさっきと同じ様に素早く手を引っ込め、さっきと同じように周りを回りだす。


 それから同じことを何回か繰り返したあと、俺たちを見回してため息を付くように肩を落とし、背中を丸めてトボトボと走り去っていった。


 呆然としたまま立ち尽くす三人。


 しばらくして咲紅が、震える声で堰を切ったようにしゃべり始めた。


「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっとなんなのよ、いまの! あれってなに? トラでしょ? トラよね。ネットで写真見たことがあるから知ってるわよ。小山さんちの奥さんがおしゃれな柄のカットソー着てたから、あたし写真撮って調べたのよ。確かトラって肉食なのよね? ってことは、あたし達を食べようとしてたってこと!? あたしなんか食べてもおいしくないの、見てわからないの!? わかるでしょ! ねえ、おかしいよね。なんでこんな時に千霞がいないのよ。あいつが、あのブヨブヨがいたら、きっと、あたし達になんて見向きもしなかったわよ、あのトラ」


 翠は疲れたようなうんざりしたような顔をして、喋り続ける咲紅を眺めている。きっと俺も同じような顔をしていることだろう。そして咲紅の目にはジワジワと涙が溜まり、その声は鼻声へと変わっていった。


「それになんで? なんで翠君はあたしの隣にいるの? それになんで蒼志はあたしの後ろにいるのよ!」――じゅる――「あんたたち男の子でしょ!? 違うの!? 男の子って、女の子を守るものじゃないの!?」――じゅる――「だったら当然、前に出るべきじゃない! あたし本当に、すっごく危なかったのよ!?」――じゅる――「もう少しで、トラに食べられちゃってたかもしれないのよ!? ねえ、わかってる!? 本当にわかってるの!? なんのためにプカリあげたと思ってるのよ。こんな時のためでしょ!?」――じゅるじゅる――「あんたたち、あたしのプカリがぶがぶ飲んだくせにあたしより長生きしようだなんて、図々しいにもほどがあるのよ!」――じゅるじゅるじゅる。


 余りにもあんまりな言いようが癪にさわったので、咲紅が一際大きく鼻を啜った隙をついて口答えする。


「だっ……だってさあ! しょうがないじゃんか。あんなでかいやつ、俺にどうしろって言うんだよ。例え俺が前に出て咲紅の代わりに食われたとしても、そのあとすぐおまえも食われるんだぞ?」


「はあ? なに言ってるの? なんでそんな事言うの?」――ずびっ――「パパだったらそんな情け無い事言わないもん! あんな、ちょっと大きいだけの猫なんか、すぐにやっつけてくれるんだからぁ!!」


 無茶言うなよ! 親父っさんと俺とじゃあ体のつくりが全然違うだろ! 確かに親父っさんならなんとかできるかもしれないけど……いや、間違いなくなんとかするだろうけど……いや、むしろトラの方が怖がって最初から近づいてこないんじゃないか? あ、芽衣子さんも大丈夫そうな気がするな。ああ、無理を言ってでもミッチーに付いてきてもらうべきだったかな? いやいや、そうじゃなくて。あれは、ちょっと大きいだけの猫なんてもんじゃない! いやいや、そういうことでもなくて……えーと……そうだ! 咲紅はあまりの恐怖にひどく混乱しているんだ。冷静に落ち着いて話を聞いてなだめてやるのが、この場合の正しい兄の在り方だろう。うん、それで間違い無い。


「……その……ごめん、悪かったよ」


「なんで謝ってるの? あたしけっこう無茶なこと言ってるわよねえ。あんたにあんな大きなトラの相手なんてできるわけないじゃない。あんたもそう思ったでしょ? そう思ったならそう言えばいいじゃない。なんであんたは! いつも! すぐに! 折れるのよ!!」


 ……駄目だ、全く理解できない。こいつはいったいなにが言いたいんだ。


 咲紅はリュックからティッシュを取り出して、涙の跡と鼻を拭いている。翠は……あれ? 翠、どこ行った? あ、いた。50メートルくらい離れたところをポケットに手を突っ込んで歩いている。ちくしょう、逃げやがった!


 まだ少し濡れた瞳で、俺の目をじっと見つめる咲紅。なんというか……居心地が悪い。いたたまれない空気とは、こんな空気のことをいうんだろうな。ハァ……俺はどうすればいいんだよ。ああ言えばこう言うし、こう言えばああ言うし。


「ハァ……もういいわよ。ちょっと言い過ぎたかも、ごめんね?」


 え?


「すっごく怖かったからストレスが溜まっちゃったの。もう大丈夫よ、解消したから」


 え?


「先を急ごうよ。早く出発しないと暗くなっちゃう。こんなだだっ広い場所より、森のそばのほうが休める場所ありそうじゃない?」


 時刻は午後六時を少し回ったくらいだ。暗くなってからよく知らない場所をうろつくのは危険なので、咲紅の言っていることは正しい。まだ明るいうちに、今晩休める場所を探しておくべきだろう。


 ……けど……けどね、ストレス? さっきまでの文句はただのストレス解消? 言ったことに意味なんてなくって、ただ大声出せればそれで良かったってことかよ。ちょっと真面目に悩んじゃったよ! おかげで俺のほうがストレス溜まっちゃったよ!


 くっそー、文句の一つも言ってやりたい気分だが、それでまたさっきのようなストレス解消をされても困る。納得はいかないが、納得した振りをして先を急いだほうが良さそうだ。


「翠くーん、そろそろ出発するよー!」


 咲紅が散歩中の翠に手を振りながら、俺に丸めたティッシュを差し出す。


「おーい、おいてくぞー!」


 俺は受け取ったティッシュをポケットに詰め込みながら叫んだ。


 呼ぶ声に気付いた翠がこっちに駆け足で戻ってくる。……ずいぶん遠くまで逃げたな。こんちくしょう、覚えてろよ?


「おう二人とも。意外と早く終わったな。もう大丈夫なのか?」


「うん、大丈夫。そんな事より早くいこうよ。急がないと暗くなっちゃうわよ?」


「そうだな。気が変わってさっきのトラが戻ってきても嫌だし、他に危ない奴がいないとも限らないしな」


 スッキリした顔の咲紅と、のほほんとした顔の翠と、モヤモヤしたままの俺は、残りのプカリを口にしつつ、爽やかな風の吹く平原を急ぎ足で歩き始めた。


 それからしばらくして、


「あれ? 圏外。ねえ携帯、圏外になっちゃった」


 さっきから携帯を見ながら歩いていた咲紅が驚いたふうな声を上げた。すぐに俺と翠も、ポケットから携帯を取り出し確認する。


「本当だ、僕のも圏外になってるぜ」


「俺のも圏外だ。まあ当たり前だけど」


 俺は町のほうに少し戻ってみた。するとすぐにアンテナマークの横に表示されていた圏外の文字が消えた。


「へー、この辺までしか電波届かないんだ。俺、圏外の表示なんて初めて見たよ」


 直径15キロ程度の円形の我が町に、携帯の電波が届かない場所なんて存在しない。


「嘘ね。電源入れた時にちょっとだけ表示されるはずよ?」


「そういう意味で言ったんじゃないよ。いちいち揚げ足を取るなよな」


「わかってるわよ。ねえー、そろそろ機嫌直してよぉ」


 咲紅が甘えたような声を出して腕を絡めてくる。いや、俺は別に機嫌が悪い訳じゃない。ただ、気持ちの切り替えがうまくいっていないだけだ。


「別に機嫌悪くないよ」


「本当に?」


「本当だよ」


「絶対?」


「ああ、絶対」


「けっ、バカップルが。おい、くだらないこと言ってないで急ごうぜ」


 あたりは宵闇に包まれ気温もぐっと下がっている。見上げると、気の早い星がいくつも姿を見せるほど空色は濃くなっていた。陽は遠くの山に落ち地平線にうっすらと名残が見えるだけだ。そして暗い森は、ようやく木の一本一本が見分けられる距離にまで近付いていた。


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