夜
俺たちが森の入り口に着いた時には陽はとっくに沈んでいて、その代わりを務めるには少々頼りない長細い月が昇っていた。生まれて初めて町の外で迎える夜。当然この辺りには街灯も軒下の明かりも無いので、頼れるのはこの月明かりと星明かり、それに携帯電話のライトだけだ。それだけを用いて先へ進むことも不可能ではないが、暗い森を歩くことの危険性を考慮し、夜が明けるまではここで休むことにした。
今宵は虫達の賑やかな合唱に耳を傾けつつ、野宿と洒落込もうじゃないか。
「ちょっと蒼志! ボーッとしてないであんたも手伝ってよ!」
咲紅と翠がレジャーシートを敷こうとしている。そのくらい二人で手は足りるだろ。俺は明日の計画を立てないといけないんだから邪魔するなよな。
「待って、まだよ! まだこれ撒いてないから」
比較的平らな地面にシートを広げようとしていた翠に、咲紅が待ったをかける。そしてリュックの中からトリコロールカラーのスプレーを取り出すと「これはね、殺虫剤よ」と口にしながら地面に向けて盛大に噴霧した。ある程度の範囲に殺虫剤を撒き、それが終わると翠にシートを広げるよう指示をとばす。シートは一辺が3メートルくらいの正方形。三人が横になっても大丈夫。
さっそく横になってごろごろしようと思いスニーカーを脱いでいると、咲紅がリュックの中をごそごそと探っているのが目に留まった。そして半透明の小さなスプレーを取り出す。俺が「何それ?」と聞くと、それを自分の方に向けながら「虫よけスプレー」だと答えた。素肌が露出した部分にくまなく念入りにスプレーする。もちろん顔以外。それから、
「あんた達にもかけてあげるね?」
と、俺と翠は肌がべっとりするくらい執拗にスプレーを吹きかけられた。腕、足、首、もちろん顔にも、だと!?
「うげっ! ぺっ、ぺっ。お嬢、痛いぜ!」
「いたっ、目が痛っ! おいっ、そんなもん直接顔にかけるなよ!」
ううっ、あまりの痛さに目を開けていられない。涙があふれてくる。
「ごっ、ごめん! だって虫に顔、刺されたら嫌でしょ? だから……」
いやいや、だからって駄目だろ。確か虫よけスプレーには枯葉剤に含まれる成分が使われていると聞いたことがある。戦争で使われた薬だぞ? 大丈夫なのかよ。
しばらく目を閉じてじっとしていると、徐々に痛みが和らいできた。涙で薬剤が流されたからだろう。咲紅が「はい、これっ!」と言って、何か冷たい物を俺の目に押し付けてくる。水で濡らしたハンカチのようだ。俺はしばらくそれで目を押さえたあと、溢れた涙を拭ってようやく目を開けることができた。
俺の隣では、翠がペットボトルの水でうがいをしている。ひどい顔だ。よっぽどまずかったんだな。
……あれ? そのおいしい水のペットボトルはどこから出てきたんだ? まあ、なんとなく察しはつくけど。
「なあ咲紅。そのおいしい水って……」
翠の方を見ながら問いかけると、咲紅は少しあわてたふうに、
「なっ、なによっ、別に嘘はついてないわよ!? プカリは三本だけだし、それに他にはないのかって聞かなかったじゃない! だから――」
「――他にはないのか?」
「……あるわよ」
咲紅は口をへの字に曲げてそう応えると、リュックからアルミの保冷バックを引っ張り出し、その中身をシートの上に並べ始めた。
まず飲みかけのポカリが一本。そして飴玉が二袋。コーラ味とミルク味のものが、それぞれ二十個ずつ入っている。それからチョコレートバーが六本と板チョコが三枚。あと、どら焼きが四つにイチゴ大福が三個。六個入りのチョコパイが一箱と煎餅一袋。ポテトチップスが一袋。きのこ型と、たけのこ型のお菓子が一箱ずつ。色々な味がある十円の棒状スナック菓子が十本。以上。
「なんて言うか……すげえな」
「そうかしら? 女の子ならこのくらい常に持ち歩いて当然でしょ」
そうなのか? まあ、なにはともあれ食糧にかなり余裕ができた。明日中には魔女さんの家に到着するだろうから、節約する必要はないな。がっつり食っても大丈夫だろう。
「おっ、なにそのお菓子。食っていいの? いいんだろ? ねえ?」
復活した翠が目とよだれを輝かせている。
「いいわよ、べつに。もともとみんなで食べようと思って持ってきたものなんだし。それに、あたしもおなかすいちゃった」
「よし、じゃあ食うか。あ、そうだ。千霞に貰った今川焼きが――」
「あ、あたしそれいらない」
むう、そんなに千霞のことが嫌いなのか。まあ、嫌いなものは仕方ない。なんとなく、その事について突っ込むと俺が痛い目を見るような気がするので、今川焼きは俺と翠とで頂くとしよう。
靴を脱いで座るとすぐに、それぞれが狙っていた獲物に手を伸ばした。平等に分けよう、なんてことは誰も言い出さない。みんな腹が減っていたので、面倒なことはしたくなかったのだろう。
俺が最初に手を伸ばしたのは今川焼きだ。それと、ポテチを交互に口に運ぶ。ああ……うめぇ……。疲れた体につぶあんとのりしおのハーモニーが絶妙すぎる。少し固くなった今川焼きの皮と、ポテチのパリパリとした食感も相性抜群だ。
こうして俺たちは、残り少ないポカリをちびちびとやりつつ、各自で胃袋の要求を満たしてやった。そしてある程度腹がふくれると、誰からともなくお菓子をレジャーシートの端に寄せ、ごろごろし始めた。
おや? 咲紅が携帯電話をいじっている。電波が届いていないのに、いったいなにをしているのだろう?
「咲紅、何やってんの?」
顔を近づけて携帯の画面をのぞき込むと、咲紅はひどくあわてた様子で、
「バッ、バカッ! 見るな! この変態!」
肘打ちされた。聞けば日記を書いているのだそうだ。見られたら困るようなこと書かなきゃいいだろ。ごろんと翠の方に体の向きを変えると、コイツも携帯電話をいじっていた。
「翠、おまえも日記書いてんのかよ。女みたいなことすんなよな、あっ!」
いてっ。後ろから咲紅に蹴られた。
「いや、メールだ。ミッチーから届いてたの見るの忘れてたぜ。誰が日記なんてくだらないもん書くかよ」
あいたっ! 翠を狙った咲紅のキックが、あいだにいる俺を巻き添えにした。
「んで、なんだって? 愛してるとか、そういうことか?」
「バーカ、んなわけないだろ。あいつは僕の天敵だぜ? 帰ってきたら電話してくれ。迎えにいくから、だってさ」
「へぇー、メールってその一通だけか?」
「ああ、そうだけど。何でだ?」
なんだ、面白くないな。ストーカーみたいに何百通も届いてたら笑えたのに。
「ところで蒼志。ミハリ、どうすんだ?」
ミハリ? ……ああ、見張りか。うーん、確かに必要かもしれないなあ。トラもそうだけど、この森にも危ない動物とかいそうだし。けど、面倒だなあ。
「見張り、必要かなあ。べつに大丈夫なんじゃないか? 面倒だし。今日は疲れたし。たぶん明日も疲れるし。もう眠いし」
「いやいやいやいや、絶対必要だろ! ふと目を覚ましたら、いつの間にか下半身無くなってました! とか、そんなの絶対嫌だぜ!?」
そりゃあ、まあ俺も嫌だけどさぁ。……仕方ない、やるしかないか。
「じゃあ夜明けまで六時間だから、二時間ずつ交代でいいだろ。順番どうしようか?」
「僕が一番だ。嫌なことは早く終わらせて、ゆっくり寝たいからな。あとはどうでもいいぜ。お嬢と二人で勝手に決めてくれよ」
俺も一番最初がよかったんだけど……ま、いいか。二番目は二回寝られるし、三番目は今すぐ寝られるし。けっきょく寝られる時間はみんな同じなんだから、何番でもいいや。
「咲紅どうする? 俺はどっちでもいいけど、咲紅どっちがいい?」
俺がごろんと咲紅の方を向いて言うと、咲紅もごろんとしてこっちを向き、
「三番目。途中で起こされるの嫌だ」
眠そうな顔を枕代わりの畳んだタオルに押し付けてそう答えた。
「俺が二番目か。んじゃ翠、そういうことだから二時間たったら起こしてくれ、な?」
首をひねって翠に話しかける。……が、
「くー、かー、くー、かー……」
返事の代わりに聞こえてきたのは、気持ちよさそうな寝息だった。
「寝るの早いな、おいっ!」
自分から言い出しておいてこのざまかよ。疲れているのはわかるけど……まあ仕方ないか。寝てすぐに起こすのはかわいそうなので、順番を代わってやることにしよう。
「んじゃ咲紅。起こすのかわいそうだから俺が最初に見張りするよ。おまえもかなり歩いたから疲れてるだろ? 寝とけよ」
咲紅はそのままの姿勢で、しばらく俺の目を見つめてから、
「……まだいい。あんまり眠くないから。ねえ、蒼志はひとりで起きてられる? あたし、退屈だとすぐ寝ちゃいそうな気がする。一人が二時間、見張ってればいいんでしょ? だったら一緒に四時間起きていようよ、ね?」
……それもそうだな。二時間も一人でボーッとして過ごすのは辛いかもしれない。でも、そうすると二時間しか寝られないのか。……まあ、明日は森の中だから今日ほど暑くないだろうし、なんとかなるかな。うん、大丈夫だろう。
「そうだな。んじゃ、そうしようか」
それからしばらくの間、俺と咲紅は寝転がったまま色々な話しをした。学校のことや将来のこと、翠とミッチーのこと、それに魔女さんのことなどだ。
咲紅は穏やかな笑みを浮かべて、ずっと俺を見つめている。なんだか気恥ずかしいので、仰向けになって空を見た。邪魔な光がないせいで、町の中で見るより星の数が断然多い。綺麗だとは思うけど咲紅ほどじゃないな、という冗談を思い付いたのだが口に出すのはやめておこう。
「うー、体がベタベタする。気持ち悪い。シャワー浴びたい。何とかして」
「無理だ。明日、魔女さん家で貸してもらえ」
「いーまーあーびーたーいーのーよー。おーねーがーいー」
そんなの無理に決まってるだろ。まあ、咲紅も本気で言ってるんじゃないんだろうけど。
「翠君にあげた水、残ってないかなあ? あれでタオル濡らして体拭けば、ちょっとはサッパリすると思うんだけどな」
「なるほど、そういうことか。咲紅、おまえ最初からそうするつもりだったんだろ。だから、あの水があることを俺たちに言わなかったんだな?」
「あ、ばれちゃったか」
咲紅に悪びれる様子は全くない。俺もいまさら文句を言うつもりはないけどね。
「ねえ、蒼志も体ベタベタしてるんでしょ? もし水が残ってたら、あたしが拭いてあげようか。隅から隅まで隈無くきれいに拭いてあげるよ?」
咲紅は目を細め、微かに頬を染めてそう言った。
隅から隅が具体的にどこからどこなのかが気になるが……お、お願いしちゃおうかな!
あ! いやいや、違う違う。これは冗談だ。咲紅は俺をからかって遊んでいるんだ。危ない危ない、引っかかるところだった。一瞬、想像しちゃったよ。しかも、悪くないなあ、なんて思っちゃったよ、ちくしょう。
……さて、どうやって切り返そうか。俺だけドキドキさせられたままじゃあ不公平だからな。……よし。
俺は精一杯真剣な顔を作り、ごろんとして咲紅の目を見つめた。そして、
「その前に、俺がおまえの体を拭いてやるよ。だから早く服を――」
脱げ、と言おうとしたが、それより先に咲紅が口を開いた。
「わかった。そうよね、蒼志も男の子だもんね。興味あるんでしょ? あたしの体」
そして仰向けになり目を閉じる。それから「ハァ」と小さく息を漏らして、
「いいよ、脱がして。好きなようにしても」
その声は震えている。俺は体を起こして咲紅を見下ろした。表情が硬い。かなり緊張しているようだ。何かに導かれるように、俺の右手が咲紅の襟元へとのびてゆく。一番上のボタンに触れた瞬間、咲紅が全身を強ばらせたのがわかった。目を強く閉じて、俺の次の行動を怯えながら待っている。ひとつ、またひとつとボタンを外すたびに、咲紅の体が小さく震えた。どうやら下着はつけていないようだ。ワンピースのボタンを半分まで外したが、隙間から見えるのは白く滑らかな素肌だけだ。それから俺は思い切って……いや、待てよ? 体を拭くのなら先にタオルを用意しておかないと。そう考えて、リュックから未使用のタオルを取り出し、翠の枕元においてあったペットボトルを手にとって……ん?
「あっ、駄目だ。ごめん咲紅、水が残ってないよ。残念でした、はははっ」
笑いながら振り返ると、俺がごそごそする気配が気になったのか咲紅は上半身を起こしてこっちを見ていた。胸元は大きくはだけ、その中身が露出している。驚いたように見開いた瞳が、濡れて月明かりをはね返していた。
あれ? 泣いてるのか? もしかして俺、泣かせちゃった?
「バッ……バカーーーッ!」
突き出された小さな握りこぶしが俺の右目の辺りを打ち抜いた。そしてもう一度「バカ」とつぶやくと、咲紅は俺に背中を向けて丸くなった。俺がそのままの姿勢で呆然としていると、やがて寝息が聞こえ始めた。眠ってしまったようだ。
虫達の合唱を聴く以外にする事が無くなったので、横になって目を閉じた。ひどく疲れていたせいか、すぐに深い眠りに落ちていった。
♢♢♢
ふわぁーああ!
みなさん、いつまでおやすみしてるんでしょうねえ? 早く起きてくれないと私が寝られないじゃないですか。
まったく、無防備にもほどがあります。こんなところで見張りもなしに寝てしまうなんて。安全な町の中とはわけが違うんですよ?
まあ、昨晩近づいてきたのはお菓子を狙ったお猿さんと、猪さんと、毒のない温和な蛇さんだけでしたが、この森の奥の方には気性の激しい狼さんなんかも住んでるんですから。もっと危機感をもってほしいものです。
あ、ようやくお目覚めのようですね。やっと私も……眠りにつ……こと……ピッ……。




