午後
私は、時々こう考えることがあります。果たしてこれから私が行おうとしていることは、本当に正しいことなのだろうか、と。
この先、町が永遠に存続していくためには、いずれ処理せねばならない問題であるということは理解できます。が、このまま放置したとしてもさして問題にならない可能性があることも事実であり、それにあの人たち、ひいては町の人たち全員が負うリスクを加えて考えていくと……ああ! もう、私、頭が痛くなってきました!
お父さんと違って、私は単なる凡人にすぎません。いくら必死になって頭を働かせようと、天才の考えることになど理解が追いつかないんです。私にできることといえば、ただ言い残されたことを実行に移すのみ。
あの人たちはもう、柵のすぐそばまで来ています。これから私が空けた穴をくぐって、幾多の危険が待ち受けるであろう町の外へと出て行くのです。
ならば、せめて私はあの人たちが無事ここまでたどり着くことを祈りつつ、見守っていくことにしましょう。
♢♢♢
「じゃあ、乗っちゃいますよ?」
そう言って俺にしがみついてきた千霞の服装は、フリルのついた白いブラウスにグレーのフレアスカート。背中に黒い革のリュックを背負っている。
本当に軽いなあ千霞は。でも咲紅も同じくらい軽いんだよなあ。身長は咲紅の方が高いのに、体重はそれほど変わらない。その要因はやっぱりこれかな? と、背中に押し当てられた柔らかいものに気を奪われていると、後ろから、
「エロ蒼志! デレデレしないの!」
と怒鳴り声が響く。咲紅の格好は襟元に青いリボンの付いた白のワンピース。背中に白黒チェックのリュックが揺れている。
「ええ? 俺べつにエロくないし、デレデレなんてしてないよお?」
そう答えておいて、荷台に横座りしている千霞に優しく語りかける。
「千霞、おしり大丈夫? 痛くないか?」
「はい、大丈夫ですよ? それより加倉井さんの顔がなんか怖いんですけど……もしかして、やきもちを焼いてるんでしょうか?」
やきもち? いや、そんなんじゃないよ。自分だけ話す相手がいないから淋しいんだろ。咲紅の後ろでは翠とミッチーが二人並んで会話を楽しんでいる。あれ? いま気づいたけど、ペアルックだこいつら。柄は違うが二人とも緑色のTシャツを着ている。なんだかんだ言って仲いいよなあ。知らない人が見たらカップルだと思うぞ? きっと。
「なに見てんだよ、蒼志。ニヤニヤして気持ち悪いぜ?」
「いや、べっつにー?」
「ところでさあ、柵のとこまで行ってからどうすんだ? 柵を越える方法とか、おまえなんか考えてんのか?」
「さあね。でも、あっちが呼んでるんだから、あっちでなんとかしてくれんじゃない?」
だべりながら自転車を漕ぎ、しばらくすると浄水場が見えてきた。信号機の高さほども厚みのあるコンクリート製の板が、川幅いっぱいに蓋をするように覆い被さっている。窓や扉の類は一切ついておらず、どこからともなく滝壺で聞くような低い音が響いていた。
俺たちはその手前の細い橋を渡り、さらに上流へと向かった。日差しは相変わらず強く照りつけ、気力と体力をじわじわと削っていく。軽口も、俺を怒鳴りつける声も徐々にその回数を減らしていた。
「暑いよー、まだ着かねーのかよー」
翠の泣き言が聞こえる。確かに暑い。さっきまでは確かに心地良く思えていた千霞の体温も、次第に暑苦しいと感じるようになってきた。ふと、咲紅の方を見ると……んー、やっぱこっちの方が涼しそうだなあ。交代……って言ったら怒るよな、きっと。
「ん? 蒼志さん、どうかしましたか?」
「えっ、ああ、いや、べつに? なんでもないよ?」
川面を跳ねる魚を横目に見ながら自転車を走らせていると、前方に車の往来の激しい道路が見えてきた。環状七号線だ。荒川ハイウェイは環状7号線に突き当たったところで終っており、その向こう側にはまばらに雑草の生えた空き地が広がっている。荒川はここから――というか、ここまでは地下を流れている。その出口――というか入口は柵の外側にあるので、どうなっているのかはわからない。俺たちは、やたら待ち時間が長い信号を渡り、すぐ近くの細い枝道に入った。
環状7号線は柵から300メートルほど内側に、ぐるりと住宅地を囲むように円を描いている。その外側はほとんどが荒れ放題の空地で、所々に墓地と火葬場があるくらいだ。
そして、柵のすぐ内側には100メートルくらいの幅で木がびっしりと植えられており、容易には人が近づけないようになっている。
「随分と淋しいところだな。こんな所に来るのは生まれて初めてだ」
キョロキョロとあたりを見回し、誰にともなくつぶやくミッチー。
「ミッチーはお墓参りとか行かないの?」
道路の左側にそびえる墓地を囲った高いブロック塀を見上げる咲紅。
「いや、もちろん墓参りにはいくぞ? でも西の方はこっちとは感じが違うんだ。なにかの研究施設がいくつかあるから人通りもけっこう多いしな」
「へえー。なあ、そこって何の研究してんの?」
道路右側のだだっ広い駐車場を眺めつつ俺が聞くと、
「さあな。そんなことまであたしが知るか、エロ蒼志」
「いや、だから俺はエロくないって!」
「おーい、ここからどうやって進むんだ? もう道がないぜ?」
先頭の翠が止まったところで道は途切れ、木が異様に密集した雑木林に塞がれている。
「ここからは歩きだ。自転車はブロック塀の陰に隠しとこう。見つかると面倒だからな」
墓地を囲むブロック塀と林の間は余裕で人が通れるくらい開いているので、そこにみんなの自転車を押し込んだ。こうしておけばそう簡単に見つかることは無いだろう。
子供達だけで柵の近くにいるのを大人に見つかると、すぐに警察に通報される。そして警察に捕まると、警察署に連れて行かれて執拗に注意され、学校に送られて厳しく指導され、各家庭に帰されて激しく叱られる。そのうえ反省文も提出しなくてはならない。俺はまだそんな目に遭ったことは無いが、去年の夏休みに佐々木がやられたらしい。
「うええ、本当にこんなとこに入るの? ねえ、蜘蛛とかいない?」
咲紅が不安げに林の中をのぞき込んでいる。そういえば虫が苦手だったな、こいつは。
「咲紅、大丈夫だ。蜘蛛は意外と美味しいらしいから。チョコレートに似た味だってさ」
そう言って咲紅をなだめておいて、自転車を押し込んだ隙間の奥へと進んだ。あとの四人は「蚊が……」とか「蜘蛛が……」とか「ジメジメして……」とか「暑い……」と不満を垂れ流しながらついて来る。
林の方を気にしながら少し行くと、見覚えのある大きなスギの木が目に留まった。この木の周りは、他より木の間隔が広くなっているので中へ入りやすい。俺は後ろを振り向き「入るぞ」と声をかけてから林の中へ足を踏み入れた。鬱蒼とした木々が日差しを遮っているので、涼しくて当然といった雰囲気だ。
大きなスギとイチョウの間を通って林の奥へと進む。正面を塞ぐクヌギの右脇を通りサクラの左側からマツの裏側に。そして二本並んだケヤキの間を抜けて竹林へと入る。何でもかんでも手当り次第に植えまくったって感じだな。いくら雑木林とはいえ普通はもう少し木の種類が限られていると思うんだけど。
そういえば五年前に来た時も同じことを考えたな、と当時を思い出しつつ、自然と形作られた人工の迷路を進んでいった。
「おっ、お嬢! ほら、そこっ!」
唐突に翠が声を上げる。何かを見つけたようだ。
「なになに? 何か、面白いものでも見つけ……ひゃあっ!」
咲紅が悲鳴を上げて、背中に抱きついてきた。
「何ですかぁ? ……ああ、加倉井さんって、蜘蛛とか苦手なんですか。へぇー」
千霞は拾った木の枝で蜘蛛の巣を巻き取り、その先に蜘蛛を乗せてニヤリと笑った。そして「ほら! ほーら!」と楽しそうに、その枝の先を咲紅のすぐ目の前に突き付ける。
「あのー、千霞? あんまり咲紅をいじめるなよ。かわいそうだろ?」
顔を背け「ひいっ!」と叫んで枝を避ける咲紅を背中に庇ってやる。
「これはいじめではありません。女と女の戦いなんです。でも、蒼志さんがやめろと言うなら仕方ありません。今は、やめておいてあげます」
そして千霞は持っていた枝を林の奥に投げ捨てた。あ、咲紅が泣いてる。可哀想なので「もう蜘蛛いないから、泣くなよ」と声をかけ、頭を撫でてやった。
ところでミッチーはいったい何をしようとしてんだ? 太いブナの木に向かって正拳突きの構えを見せている。大きく息を吸って……吐いて……それから「せいっ!」と気合を入れると、木の幹に渾身の力を込めた一撃を打ち込んだ。
鈍い音と葉の擦れる音がして木が根本から震える。そして、その音から少し遅れて何かがパラパラと降ってきた。何だ? ドングリか? いや、これは……虫だ! 毛虫や芋虫、カナブン、他にもよくわからない虫の諸々が、俺たちの頭上に大量に降ってきた! そして俺が気づいた時にはすでに、咲紅は俺の腕をつかんだまま走り出していた!
震える鼻声で何かつぶやきながら、咲紅は林の中を一目散に駆けて行く。俺はそのあとを、ただ転ばないようついて行くだけで精一杯だ。偶然なのか、はたまた本能的に明るい方へと向かったからなのかはわからないが、咲紅は出口への最短経路をとおり、まもなく雑木林の向こう側へと抜け出した。そしてその場にしゃがみ込み、膝を抱えて泣きじゃくる。
「なんであだじが! ひっぐ!……ごんなっ! ううー……」
あ……パンツ見えてるけど、言うと叩かれそうなので黙っておこう。それから咲紅の背中にしがみついている毛虫とカナブンを取ってやった。
「ほら、虫は全部取ったから、もう泣くなよ」
「うう……あじがど……」
咲紅は背中のリュックからティッシュを取り出し盛大に鼻をかんだ。それからもう一枚ティッシュを引っぱり出して涙を吹いた。そのあと使用済みのティッシュを両手で丸めて「はい」って……何で俺に渡すんだよ。そして、俺が受け取ったティッシュをポケットに突っ込むのとほとんど同時に、あとの三人が林の中から姿を現した。
「おい、蒼志! 案内役が先に行くなよ!」
「ちょっと加倉井さん! 蒼志さんを返してください!」
最後に林から出てきたミッチーは、バツが悪そうに咲紅の前に進み出ると、気を付けの姿勢で頭を下げ、
「いや、その……お嬢、すまなかった! 拳を鍛えるのにちょうど良さそうな木が目の前にあったから、つい……いや、もう、本当にすまなかった!」
まあ、ミッチーは人に嫌がらせをするような性格じゃないからな。わざとではないのだろう。それは咲紅もわかっているようなので「ミッチーは赦す。でも、二度とあんなことしないでね」と言ってミッチーの謝罪を受け入れた。だが、
「加倉井さん! 私は蒼志さんを返せって言ってるんですよ!」
千霞が木の枝を突き出し、再び咲紅に嫌がらせを始めた。その枝の先に蜘蛛はいないのだが、咲紅は顔を背けているので気づいていない様子だ。小さく「ひっ!」と叫んで大きく後ずさると、
「千霞、あんたは絶対に赦さないからね! いつか、ギャフンって言わせてやる!」
声を荒らげてそう言い放ち、素早く俺の背中に隠れた。
「……咲紅と千霞って、前からこんなに仲が悪かったかな?」
うんざりした顔で成り行きを見守る他の二人に尋ねてみた。
「ずいぶんといまさらな質問だな。だが答えてやろう、イエスだ。二人が顔を合わせると、かなり高い確率でケンカを始める」
「去年の春、体育館で身体測定してるとき取っ組み合いのケンカになって、二人とも救急車で病院に運ばれたっていうのは有名な話だぜ?」
ああ、そういえば去年の春ごろ、一日だけ咲紅が早退した日があったような……。
咲紅と千霞は間に俺を挟んだまま睨み合いを続けている。ミッチーと翠は口を挟むつもりは無いようだ。ふう、仕方ないなあ。この場は俺がなんとかしてやるとするか。
「あー、二人共! そんな風にいがみ合っていたら、せっかくの楽しい夏休みが台無しじゃないか。そもそも、何で二人はそんなに仲が悪いんだ?」
原因がわからないとケンカの仲裁はできないからな。まずはそれをハッキリと――。
「――はあ? ちょっと、蒼志。あんたがそれ聞くの!?」
「……蒼志さん、ふざけてるんですか!?」
二人同時に睨まれる俺。えっ? なんで? 俺、悪いの?
「お、俺、別にふざけてないけど? みんなで楽しく遊べたらいいなって思っただけで」
俺は左右交互に顔を向けてそう言った。ふ、二人とも顔が怖いです。
「楽しくなんてできるわけ無いでしょ! こんな、なに考えてるかわかんない腹黒女と!」
「私だって嫌ですよ! この冷酷ヒステリー女!」
余計な口出ししなきゃよかったと思いつつ、ミッチーと翠の方を見ると……なんか、だんだん遠くに離れていってるような気がする。
「男と見るとすぐに擦り寄っていって、ベタベタ体を触ったりブヨブヨの体を触らせたりする万年発情女のくせに!」
「私はそんなことしてませんし、ブヨブヨもしてません! 自分の体が女性としての魅力に乏しいからといって、ひがまないでください! とても迷惑だし、見苦しいです!」
「なんですって!」
「なんですか!」
俺は二人に挟まれたまま、どうすべきか答えを出せずにオロオロしている。うーむ、どちらにも悪い印象を与えず、平和的にこの場を切り抜ける良い方法は無いものだろうか?
しばらくして、俺もこっそり逃げちゃおうかな、と思い始めたとき、はるか遠くの方から翠の声が聞こえてきた。
「おーい、ちょっとこっちに来てみろよ! 面白いもんがあるぜ!」
俺たちを呼んでいるようだ。よし、すぐ行くぞ!
「おい二人とも。翠達が何か大変なものを見つけたようだぞ。ケンカなんかしている場合じゃない。今すぐに駆けつけよう!」
「はあ? ちょっと、まだ――」「蒼志さん、これからが――」
なにか言ってるようだが気づかない振りをして、俺は翠たちがいる方へ逃げ出した。けっこう遠くまで逃げたな、あいつら。俺一人に面倒ごとを押し付けといて、二人っきりでのんびりお散歩か? いい気なもんだよ、まったく。
チラッと振り返ると、咲紅と千霞がものすごい形相で俺のあとを走ってくるのが見えた。いけない。あれに捕まってはいけない! 俺は100メートルほどの距離を全速力で駆け抜けると、翠とミッチーを盾にするような位置に素早く回り込んだ。
「おまえら! よくも俺一人に押し付けて――」
「ふん、自業自得だ。そんなことより見てみろ。おまえ好みの穴が空いてるぞ」
ミッチーはポケットに両手を突っ込んだまま、少し離れた場所の地面をあごで差した。妙にそそられる言葉に釣られミッチーの視線の先を見ると、柵からほど近い地面に確かに穴が空いている。けっこう大きいな。直径2メートルくらいの丸い穴だ。でも、これのどこが俺好みなんだ? そう思って翠とミッチーの方に目を向けると、二人は中をのぞいてみろと言わんばかりにあごをしゃくった。
どれどれ、穴の中になにか……何もないな。穴は柵の方に向かって斜めに掘り下げられている。底はちょうど柵の真下あたりかな?
「穴の出口は、多分あれだぜ」
翠が柵の向こう側を指さした。柵を挟んでちょうど対照となる位置に、同じような穴が口を開けている。なるほど、穴の底が明るいのは、あっちの穴からも光が差し込んでいるからか。ん? と、いうことは……、
「なにこれ! 町の外に出られるじゃん!」
穴の位置と深さから考えると、これをくぐれば感電することなく柵の下をとおり抜けることができるはずだ。
俺はほんの少し目線をずらし、柵に目をやった。ずっと町を守り、そして閉じ込めてきた柵。離れて見るぶんにはただ頑丈そうな鈍色の柵だが、近づくと命を落とす危険すらある。
そして柵の向こう側、草と土しかない世界を見やる。三百年前まではそこにも町があったらしい。いや、そこだけではなく見渡す限りの土地に。いや、それも違うな。見えていないところにも、地面さえあれば人はその全ての場所に暮らしていたのだそうだ。
でも今から三百年くらい前、環境の汚染や資源の枯渇などあって、みんなで宇宙へと逃げ出した。もっと住みよい星を探し求めて。たった三百年前のことだからな。おそらく彼らは未だ宇宙のどこかをさまよっているだろう。
「どうだ、おまえ好みだろう?」
「え? ああ、うん。かなり好みに近いな」
俺に助けを求めてきた誰かは、ここから町の外に出られることを知っていたから俺にあんな映像を見せたのだろう。しかし……その誰かって何者なんだろうな? 映像を見せた方法も、砂浜に文字を書いた方法もわからないし、なぜ俺になのかもわからない。わかってることといえば、誰かがあの家で俺たちが来るのを待っているということと、俺の中で好奇心が暴れまくっているということだけだ。
「それでおまえはどうするんだ? 行くのか?」
そう聞いてきた翠の顔からは、俺も行くぜ! といった感情がハッキリ読み取れる。もちろん俺も行きたい。行きたいのだが……。
「――ハァ、ハァ、あたしも、行くっ!」「――ハァ、私も、行きますっ! ハァ、ハァ」
息を切らせ駆けつけてきた二人にも事情を説明すると、予想通りそんな返事が帰ってきた。うーん、この二人を一緒に連れて……は行きたくないなあ。町の外ではどんな危険なことが待ち受けているかわからないっていうのに、こいつらの面倒まで見ないといけないとか……物凄く、嫌なんですけど。せめてどっちか一人にして欲しい。
「あんたは来なくていいのよ! 足が短いあんたの歩幅に合わせてたら、いつまでたっても目的地に着けないからね!」
「あなたの方こそ一人で帰ってください! 歩きながら、お漏「あーっ! あーっ!」されたら、臭「あーっ! あーっ!」って大変ですからね!」
誰か、何とかしてくれ! と天に祈りを捧げていると、
「千霞は行けないだろう?」
どうやら千霞の方は、ミッチーが何とかしてくれそうだ。
「サクラと会う約束をしているだろう。約束を破ると怒るぞ?」
「うっ、それは……みっちゃん、代わりに謝っておいてください」
「それは勘弁してくれ。サクラを怒らせると怖いからな。悪いことは言わない。千霞、サクラとの約束は守ったほうがいい。絶対に、だ」
やけに念を押すなあ。さくらさんって、そんなに怖い人じゃないと思うけど。
「残念だが今回は諦めろ。あたしも一緒に帰るから、な?」
ミッチーが優しく言い聞かせる。
「……わかった、帰る……」
千霞はしばらく考えてがっくりと肩を落とすと、心の底から残念そうにそう返事をした。ホッ、どうやら諦めてくれたようだ。
「ミッチーは行きたいと思わないのか?」
「できることなら行きたいさ。だが今日は無理だ。サクラに会ったあと、道場にも顔を出す約束がある。次に行くときにでも誘ってくれ」
そうか、じゃあ仕方ないな。このメンバーの中では、間違いなく一番頼りになるのに。
「蒼志さん、今夜、電話しますから! 町の外がどんな感じなのか教えて下さいね? それと怪我しないように気を付けてください!」
千霞がまるで今生の別れであるかのように、思いつめた表情で言う。大げさだなあ。
「わかったよ。千霞も気を付けて帰れよ。あ、それとサクラさんによろしく」
これで町の外へはいつもの三人で行くことになった。
……だが、待てよ? 咲紅は門限があるだろ。ってことは咲紅も行けないじゃん。
因みに俺と翠は1週間くらい家に帰らないと言ってあるので、町の外へ出たことさえバレなければ特に問題は無い。
「咲紅、おまえ門限どうすんだよ。今日中には帰ってこれないよ?」
あの家までどれくらいかかるのかはわからないが、さっきの映像の感じでは一、二時間で到達できるような距離ではなかったように思う。道順も一度見ただけなので、迷わずたどり着ける自信はそれほどない。それを考えると今日中どころか、明日いっぱいかけてたどり着けるかも怪しい。
ましてやこれから向かうのは、前人未踏のなにが起きるかわからない場所だ。思いも寄らない危険に見舞われる確率は決して低いとは言えないだろう。さらに帰りの時間も併せて考えると、一体何日かかることやら。門限を延ばす許可を取るにも一苦労する咲紅が、何日も家に帰らないなんて……そんなの無理に決まっている。
「バックレるわ」
「……はあ? ……親父っさん、怒るぞ?」
「大丈夫よ、覚悟したから。だって、死ぬまで出ることは無いと思っていたこの町から出られるのよ? お父さんに怒られるくらい、なんてことないわ。こんなチャンス、みすみすふいにできるもんですか!」
おい咲紅。一緒に行動する俺も怒られるってことを……考えてないよな。でもまあ、俺も咲紅みたいな立場だったら同じようにすると思う。仕方がない、帰ってから俺も一緒に謝ってやるとするか。
「ハァ……おまえ一度言い出したら他人の言うことなんか聞かないもんな。わかったよ、連れてってやるよ。但し! あの家に着くまで絶対引き返さないからな?」
「わかってるわ。絶対に帰りたいなんて言わない」
「翠もそれでいいよな。しばらく町へは帰ってこれないぞ?」
「あったりまえだろ! 僕は最初っから、そのつもりだぜ!」
二人とも、気合入ってんなあ。まあ、ずっと不可能だと思っていたことが、これから実現するんだもんな。その気になるのも当然のことか。
そんな俺たちのことを悔しそうに見つめる千霞は、両手でスカートの裾をギュッと握りしめている。
「ううっ……加倉井さん以外は無事に帰ってきてくださいね……」
咲紅はその様子を見下したふうにほくそ笑んでいる。
それからミッチーが、不意に何かを思い出したように、
「ああ、そうだ。千霞、あれは蒼志たちに渡しておいた方がいいんじゃないか? どのみち、あたしらだけじゃ処理しきれないだろう?」
「あっ、それもそうですね。蒼志さん、ちょっと待ってくださいね。いいものあげますから。あ、加倉井さんには与えないでくださいね」
そう言いつつ千霞がリュックから取り出したのは……なにも印刷されてない真っ白なビニール袋だ。受け取って中をのぞいてみると、
「おおっ、今川焼きかあ」
そういえば俺たちなにも準備してないけど、このまま出発して大丈夫かなあ。食料とかちゃんと揃えてからのほうがいいんじゃな――、
「よおーし、食料も手に入ったことだし、さっそく出発しようぜ!」
「グズグズしてたら通り掛かった誰かに見つかっちゃうかもよ?」
二人が俺の背中を押す。おいおい、そんな軽いノリでいいのかよ。命を落とし兼ねない危険な目に遭うかもしれないんだぞ?
「ちょっと待ておまえら! こういうときはもっと慎重にだな――」
「大丈夫だ。僕はいつも常に慎重だぜ!」
「あたしもいつも通りよ。慎重に慎重に超慎重に行動してるわ!」
嘘つけ!
二人はヘラヘラ笑いながら俺の背中をさらに押す。そして俺はポッカリ空いた穴のすぐそばまで押しやられた。まだ柵からはかなり離れているはずなのに、髪の毛が浮き上がるように感じる。俺は今川焼きをリュックに突っ込むと、
「ゆっくり順番にだ。いっぺんに入ると崩れるかもしれないからな。まず俺から行く。んで、俺が向こうに着いて、合図したら次は咲紅な?」
浮き足立つ二人にそう念を押した。俺は咲紅が頷いたのを確認してから、後ろ向きに穴の中へ足を踏み入れた。慎重に一足ずつ、足場を確かめながら下って行く。穴の壁は俺の体重で崩れてしまうほど脆くはなく手掛かりや足掛かりもふんだんにあったので、割と簡単に底まで下りることができた。まあ、この程度なら咲紅でも問題ないだろう。
一息ついてから、町の外へ通ずる穴を上り始めた。後ろから咲紅の声が聞こえてくる。
「蒼志、大丈夫? ねえ、大丈夫?」
振り返らず一言「ああ」とだけ応え急角度の壁を上り続ける。少しして、特に労することもなく頂上に手が掛かった。右手に力を入れ体を引っ張り上げるように穴から這い上がり、目の前に広がる風景を見渡した。
感動は、薄い。まあ見えているものはさっきと変わらないからな。目の前に柵が有るか無いかだけの違いだ。でも、やはり開放感はある。
首を回し左の方を見ると遠くに山が霞んで見える。まっすぐ前を見ると遠くに山が霞んで見える。右の方を見ると……お? ああ、発電所か。緑と茶色の平原にぽつんと、真っ黒な立方体があるのが見えた。うん、あそこにも帰りがけにちょっと寄ってみようか。
しかし……あいつら遅いな。何でこの程度の壁を上るのに、こんなに時間がかかるんだよ。そう思って振り返ると、ちょうど咲紅が穴から顔を出したところだった。俺が右手を差し伸べると、咲紅はそれにつかまって一気に穴の外へ。続いて翠が、ん? 何故かニヤニヤしながら自力で這い上がってきた。
「遅いよ、おまえら。こんな上りやすい壁に、どんだけ時間かけてんだよ」
咲紅に文句を言うと、
「はあ? 何言ってんのよ。あんたが合図するって言ったんじゃない。呼ばれるの待ってたけど、全然そんな気配がないから気を利かせて来たのよ?」
そう言い返された。
「ええ? 俺、そんなこと言ったっけ? いや、言ってないだろ」
「さあ、どうだっけ? どっちでもいいよ。そんなことより早く行こうぜ!」
翠は咲紅の方を見ながらニヤニヤと、いやらしい笑みを浮かべている。訝しげにその様子を見ていた咲紅は、突然ハッとした表情になり慌ててワンピースの裾を両手で抑えつけた。今更だよ。
「うわっ、最っ低! ……変態!」
翠が変態なのは今に始まったことではない。今のは油断した咲紅が悪い。
「蒼志さぁーん! 怪我しないでくださいねぇー! それと、おみやげー、おみやげー!」
柵の向こう側から千霞の声が聞こえてきた。目をやると、二人がハンカチを手に持って、ひらひらと振っている。
「ああ。んじゃ、行ってくる! 誰かに俺達のこと聞かれても、知らないって言えよー!」
軽く手を振りながらそう返し、まだ高い位置にある太陽の下をゆっくりと歩き始めた。




