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七匹の子山羊 1

本作はえきちー(@EkitaiT)の名前で、カクヨムにも掲載しております。

「それじゃあお母さん、職場に行ってくるわね。夜には帰って来れると思うけど、誰か来ても出なくていいから」


 そう言って玄関へ向かったに母親に、リビングのソファに寝そべりながらスマホを触っていた西山(にしやま)勇人(ゆうと)は、視線を上げずに「うん」と短く返した。

 午後4時。

 今日は仕事が休みだった母親だが、職場で急なトラブルが発生したので至急、会社に来て欲しいという連絡を受け、慌てて家を出て行った。

 今日は昼過ぎから大雨が降っており、ざああああ、というシャワーの音をより重くしたような激しい雨音が部屋の中にまで響き続けている。

 雷の音も鳴り響く外はすでに夜中を思わせるような暗闇に覆われており、たとえ近場であったとしても外出などしたくはない様相だった。

 玄関の扉が開けられたのか、一際大きな雨音が勇人のところまで届いたが、その音はすぐに閉められた扉に遮られる。

 がちゃん、と扉に鍵がかけられた音を最後に、再び外の雨音だけが聞こえる静寂の中で、勇人はぼんやりと電子コミックを読んでいた。

 スマホの画面に映っているのは、最近、勇人が通う中学校で流行り始めた、アニメ化も決定したギャグ漫画だった。

 だが、勇人の表情に笑みはない。作者のコメディのセンスが勇人と合わないのだろう。何が面白いのか全くわからない。何故こんな作品が流行るのかさっぱり理解できない。

 そう思いながらも指で画面をスクロールさせ、ページを進める。

 学校という閉じられた社会では、流行に乗るか乗らないかで居心地というのが大きく変わる。

 流行りの話題を振られたときに、それを知っているか否か。何か答えられるか否か。

 何も知らず、答えられなければ「こいつはつまらないやつ」というレッテルを貼られ、クラスの中で爪弾きにされてしまう。

 勇人は中学の入学当初からこのような流行りものに対して積極性のある人物という立ち位置となり、クラス内での中心的人物の一人となっている。

 だから興味がなくても目は通して知っておかなければならない。

 傍から見ればつまらなそうな時間潰しにも見えるその姿だが、勇人にとっては自己の居場所を維持するのに必要な行為であった。


 ピーンポーン


 母親が家を出てから単行本2冊分を読み終え、次の巻に進もうとしたとき、家のチャイムが鳴った。

 勇人はスマホから目を離し、少しだけ玄関の方を見やる。しかしまたすぐにスマホへ視線を戻した。

 宅配か郵便か、あるいは押し売りか宗教勧誘か。

 この雨の中、ご苦労なことだと思いながらも、母親は出なくていいと言っていたので居留守を使うことにする。


 ピーンポーン


 ピーンポーン


「しつこいなぁ…!」


 諦めていなくなればいいのに、何回も押されるチャイム音に勇人が苛立ちの声を漏らした。

 スマホから顔を上げ、睨むように玄関を見る。

 すると、今度は声が聞こえた。


「お母さんよ。開けてちょうだい」


 それは家を出たはずの母親の声だった。

 スマホの時計を見れば、母親が家を出て行ってからまだ30分ほどしか経っていない。

 母親の職場はうちからそんなに遠いわけでもないが、もう帰って来たのだろうか。


 ピーンポーン


「お母さんよ。開けてちょうだい」


 再度鳴らされるチャイム、そして母親の声。

 勇人に別の苛立ちが生まれる。

 鍵を持っているんだから自分で開けて入ってくればいいだろう。

 勇人はソファから身を起こすと、スマホをテーブルに置いて玄関へ向かった。


「鍵持ってんだろ。自分で開けて入ってくればいいじゃん」


 玄関から扉越しに、思っていることをそのまま声に出す。


「鍵を落としたの。開けてちょうだい」

「はぁ…?」


 何やってんだよ、と勇人から呆れた声。

 この土砂降りの雨の中では、落とした鍵を見つけるのは難しいのだろう。

 だから一旦戻って来たという訳か。


「開けてちょうだい」


 繰り返される母親からの要望に、溜息を吐き、腕を伸ばして鍵を開けた。


 ガチャン


 ドアノブを下げ、扉を押し開く。

 水を多分に含んだ生温かい空気が家の中へ入り込んでくる。


「ったく、何やってんだよ――」


 扉を開けた先に勇人が視線を向ける。


 そ(・)こ(・)に(・)は(・)誰(・)も(・)い(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)。


「え?」


 母親が立っているはずの玄関前には誰もおらず、勇人の視界に映るのは、激しい雨と夜を思わせる真っ暗闇な玄関先の風景だけ。

 勇人は靴に足を入れ、開けた扉の先へ頭だけを出して辺りを窺う。

 この場所に人が来たような痕跡はなく、家に面する通りを見ても、この雨の中を歩く人物は見当たらなかった。

 頭を引っ込め、扉を閉め、再び鍵をかける。


 それじゃあ。


 それじゃあさっき、扉越しに会話をした相手は誰だ…?


 確かに母親の声だった。

 幻聴などではない、はっきりとした声だった。

 鍵を落としたから扉を開けてくれたと言った。だから開けた。

 でも誰もいなかった。

 勇人の胸の内に、消化しきれない胸焼けのような気持ち悪さが残る。


「まぁ……いいか……」


 気味悪くはあったが、現実には玄関に誰もいなかった。

 考えても仕方ないと、勇人が玄関の扉に背を向けた時だった。


 ――しゃきん


 勇人の足が止まる。

 何か、金属同士が擦れるような音。

 そして、不意に背中に感じる視線。

 何かに、じっ、と見られている感覚。

 勇人はその視線の主(ぬし)をまだ見ていない。

 なのに、全身から嫌な汗が噴き出した。


 ――しゃきん


 再び、音。

 何の音なのか。何がいるのか。

 その何(・)か(・)に見られていることに耐え切れず、勇人は思い切って後ろを振り向いた。

 そこで彼が見たのは“異形”だった。

 真っ黒な人形(ひとがた)のシルエット。胸元には2つの膨らみがあり、何も衣服を身に着けていない女体のようにも見える。だが、その顔は人間ではなかった。

 頭部から後ろへ向かって波打つように伸びる2本の角。逆に、口や鼻は前方へ向かって伸びている。

 それは動物の――山羊(やぎ)の頭部であった。

 顔の正面よりもやや横にある眼が、ぎょろぎょろ、とせわしなく動いている。


 ――しゃきん


 だらん、とぶら下がった異形の右手が開き、そして閉じる。

 それに合わせて、手に握られた物も、開き、そして閉じる。


 大きな鋏(はさみ)。


 山羊頭の異形が右手に握っているのは、通常の鋏の3倍はあろうかという、大きな、無骨な金属の鋏だった。

 その刃や持ち手は所々錆びて黒ずんでおり、遠目にも刃が欠けているのがわかる。

 非常に切(・)れ(・)味(・)の(・)悪(・)そ(・)う(・)な(・)鋏。先ほどからの音の正体は、この鋏の刃が閉じ合わされるときの音だとわかった。


「…………」


 突然、玄関に現れたその山羊頭の異形に、勇人の理解が追い付かず、言葉が失われる。


 ――しゃきん


 四度(よたび)鳴らされたその鋏の音と共に、あちこちに動いていた山羊頭の両眼が勇人を捕らえた。


「ひっ!?」


 勇人の口から短い悲鳴が洩(も)れる。

 見(・)つ(・)か(・)っ(・)た(・)。

 本能的にそう思った。

 山羊頭が一歩を踏み出す。

 その瞬間、勇人は異形に背を向け、廊下を走った。


 見つかったら終わる。どこかに隠れなければ。


 あれが何かはわからない。

 何故急に現れたのか。何故山羊の頭なのか。何故鋏を持っているのか。

 そ(・)も(・)そ(・)も(・)人(・)な(・)の(・)か(・)。 

 何もわからない。

 わかるのは『ヤバいやつ』ということだけ。

 あれに見つかったら、あれに捕まったら、勇人は死ぬ。

 その確信に突き動かされ、勇人は逃げた。

 家の中に居てはダメだ。外に逃げないと。でも玄関からは逃げられない。

 勇人はさっきまでいたリビングに戻り、そこにある窓から庭へ逃げようと考えた。

 慌ててカーテンを開け、窓の鍵を開けようとする。


「くそっ! 何で動かないんだよ…!」


 いつもならすんなりと下がるはずの窓の鍵が、まるで接着剤で固められたかのようにびくとも動かない。

 廊下から、フローリング床の軋む、ぎし、ぎし、という音が聞こえ、勇人から冷静さを奪う。リビングの入り口に大きな鋏の先端が見えた。


「ちくしょう!」


 もう間に合わないと判断した勇人は、窓からの脱出を諦め、キッチンの方へ逃げた。

 ここで行き止まりだが、どこかに隠れてやり過ごすしかない。

 母親が料理好きということもあり、西山家のキッチンは広く、戸棚も多い。

 いくつか戸棚を開けたところ、足元に身を丸めれば勇人でも入れそうなところがあったため、彼はそこに転がるにして入り、扉を閉めた。

 真っ暗でかび臭い戸棚の中で、荒くなった呼吸を無理矢理落ち着け、息を潜める。

 パニックで鼓動が煩(うるさ)く鳴っている心臓に手を置き、気配を殺す。


 やがて、あの山羊頭がキッチンに来たのか、足音が聞こえてきた。

 すぐ近くにいる。

 口元と心臓に手を置き、目を瞑り、存在を消す。


 どん、どん、という重い足音を響かせ、獲物を探すようにキッチン内をうろつく気配。

 その足音が、勇人の隠れる戸棚の横で止まった。


「…………」


 戸棚の薄い扉一枚が、文字通りの生死の境目。


 気付くな! 早くいなくなれ! どっか行け!


 勇人を探している山羊頭に、心の中で必死に念じる。

 どれほどの時間が経ったのか、山羊頭が再び歩き出した。

 その足音は徐々に遠ざかっていったようだ。

 完全に足音が聞こえなくなっても、勇人はしばらく戸棚の中にいたが、戻ってくる気配がないと判断し、ゆっくり、恐る恐る扉を開けた。

 薄暗いが、それでも戸棚の中よりは明るいキッチン。そこにあの山羊頭の姿はなく、足音も聞こえない。ただ、変わらずに雨の音が聞こえるだけだった。

 だが、まだどこかにいるかもしれない。見つからないように、この家から出なければ。

 そう思いながら、戸棚から這い出たとき。


 右腕を掴まれた。


「っ!?」


 突然のことに心臓が跳ね上がった。

 もうキッチンにはいなくなっていたはずの黒い山羊頭が、足元の戸棚から出てきた勇人を見下ろしながら、身を屈(かが)めてその腕を掴む。

 万力で締めあげられているかのような、腕の骨が折られるんじゃないかと思うぐらいの強い力で掴まれた勇人は、そのまま戸棚から引きずり出され、床の上に投げ出される。

 背中と後頭部を打ち付け鈍い痛みが走るが、すぐにそれ以上の痛みが勇人を襲った。


 ぐじゅり


 山羊頭の持つ鋏が、勇人の右の手のひらに突き立てられた。

 鋏の鋭い先端は、骨の合間を縫って容易く手のひらの肉を貫通し、フローリングの床にまで突き刺さった。


「ああああああああ!!!!」


 堪え切れず、叫び声を上げる。

 床に縫い止められ、血がどろどろと流れる右手は、ほんの少し動かすだけでも激痛が走る。

 鋏(これ)を抜かなくては。

 視界が涙で歪み、痛みで明滅するが、突き立てたれた鋏を抜こうと左腕を伸ばす。

 だが、山羊頭はそれを許さない。

 伸ばされた左腕は掴まれ、2本目の鋏が右手と同じように左手を貫いた。

 絶叫。

 両の手のひらから、見たことがない量の血が流れて床に広がっている。

 急激な失血のショックで過呼吸となり、血圧の低下で意識も朦朧とする。

 その眼に何の感情も映さずに勇人を見ていた山羊頭だったが、不意に、右手に持つ3本目の鋏を開いた。


 今度は何をするつもりだ…?

 これ以上何をするつもりだ…?


 床に磔にされ動くこともできない勇人は、恐怖と共に黒い山羊頭の行動を、ただ見ていることしかできない。

 開かれた鋏がゆっくりと近付く先。


 そこは勇人の下腹部だった。


 気付いた。

 気付いた瞬間、勇人は再び大声を出して抵抗した。


「や、やめろ! おい、やめろおおお!!」


 開いた鋏の下側の刃先、鋭い先端が勇人の腹部に触れる。

 僅かな抵抗の後、刃先が皮膚を、ぷつり、と貫通し、ゆっくりと押し刺された。


 ぐじゅ


 「うああああああ!!!!!」


 鋏の刃先は勇人の薄い腹筋も貫(つらぬ)き通り、刃が腸まで達するかというところまで届いた。

 そして。

 山羊頭はそこで右手を握った。

 鋏の上の刃が閉じ、刃の間にある勇人の皮膚、脂肪、筋肉を断ち切ろうとする。


 ぎじゅ、ぎじゅ、ぎじゅ


 切れ味の悪そうなその鋏は、すんなりと肉を断てない。

 山羊頭は、右手を開いては握り、開いては握り、開いては握り。

 その度に鋏の刃が勇人の下腹部の肉を圧(へ)し切り、ゆっくりと、徐々に、ぐちゃぐちゃな断面を作りながら、胸の方へと切り開いていった。

 喉が潰れんばかりに勇人の口から上がっていた悲鳴はどんどん弱々しくなっていく。


 ぎじゅ、ぎじゅ、ぎじゅ


 床の上に血溜まりが広がる中、山羊頭は淡々と勇人の腹部を切り進める。

 恐怖と苦痛で顔を歪めたまま、その目から光を失った勇人からは、もはや悲鳴は上がらない。

 雨が激しく家を叩く音と、鋏が人肉を断つ音だけが、薄暗いキッチンに響いていた。


 ◆◆◆◆◆


「――よし、こんなところかしら?」

「うん、綺麗になったね」


 アリアの確認に、黒亜(ここあ)が頷いた。

 神無(かんな)市の南区、その東の外れにある喫茶“煙羅亭(えんらてい)”

 アール・ヌーヴォー調の装飾とレンガ造りの重厚な雰囲気を纏《まと》った“レトロ喫茶”とも呼べるこの店は、神無市で長く、そしてひっそりと営業を続けている老舗である。

 そして、夕川(せきかわ)黒亜、襟崎(えりざき)芽衣(めい)、アリア・エルフィンドをはじめとする、オカルト専門相談サイト【奇々怪々(ききかいかい)】のメンバーの活動拠点でもあった。

 関係者以外に客が来ない。

 何故そんな状況で経営が成り立っているのかわからないが、とにかく飛び入りで客が入って来ない。だがそれは“呪い”や“幽霊”などという『世間一般からは理解を得られにくい噓臭いもの』を相手に活動をしている黒亜たちにとっては、非常に都合のいいことだった。

 逆に、彼女たち以外に誰かがこの場にいたら、それは煙羅亭ではなく【奇々怪々】の客ということになる。

 今、黒亜の目の前に座って目を瞑っている中年の男性も、彼女たちの客の一人だった。


「どうですか、檜山(ひやま)さん。身体、軽くなりましたか?」


 黒亜が声をかけると、檜山と呼ばれた男性は目を開け、両肩と首をぐるぐる回し始めた。


「ああ。やっぱりだいぶ違うな。毎度毎度、本当に助かる」


 角刈りに無精髭を生やした檜山は、低い声で答える。


「今回はけっこう憑(・)い(・)て(・)た(・)か?」

「私が視た感じだと、4体」

「そうか……」


 はぁ、と深い溜息が檜山の口から吐かれた。

 檜山(ひやま)武彦(たけひこ)、45歳。

 神無県警察 刑事部 捜査第一課に勤める、現職の刑事である。


「右足と左腕が重かったんじゃないんですか? あと視界も悪かったんじゃないかな、と。右足は痛みもあったと思います」

「……その通りだ」

「ですよね」


 約2ヶ月ぶり煙羅亭に来た檜山は、右足に2体、左腕に1体、両目に1体の霊をぶら下げていた。右足には下半身のない髪の長い血だらけの女性の霊と、ひたすらに泣いている若い男性の霊がしがみついていた。特に女性の霊が爪を立てるように足に絡みつき、ぶつぶつと何かを呟いており、いわゆる『悪霊』の類である。

 左腕には見た目が5~6歳ぐらい小さい男の子の霊が抱き着いていたが、口を三日月のように歪め、にたにたと嗤(わら)っていた。これも『悪霊』だ。

 そして白い腕が後ろから伸び、目隠しをするかのように檜山の両目を手が覆っていた。これは悪い感じがなく、むしろ檜山の身を案じているかのような“生霊”のように視えた。これが4体目であった。

 そんな彼の状態を視た黒亜は、同じく煙羅亭にいたアリアにお願いし、緊急で檜山に憑いた4体の霊を外してもらったところだった。


 檜山が初めて煙羅亭にやって来たのは半年以上前のこと。芽衣からの紹介がきっかけだったという。

 何故芽衣が現職の刑事、それも捜査第一課の警部と面識があるのかは知らないが、最初に彼を視たとき、すぐ隣に小柄な老人の霊が立っていることに気付いた。その老人の霊は白目を剝いており、子供のように、しきりに檜山の左手を引っ張っていた。

 一目で『悪霊』と判断できたその老人の霊を、黒亜とアリアが処理したところ、檜山を悩ませていた左腕の痺れが治まった。

 傷害、強盗、殺人などの事件を担当する檜山は、様々な現場に足を運ぶことが多い。また、本人が憑かれやすい体質ということもあり、そういった現場でよく霊を拾ってくるのだそうだ。

 その一件以来、檜山は月一回ぐらいのペースで煙羅亭に通うようになり、かかりつけ医の如く、定期的に黒亜に視てもらうようになったのである。


「今更ですけど、逆に煙羅亭(ここ)に来るまではどうしてたんですか?」


 檜山が煙羅亭に来るときは、何かしら1体は霊を連れてくると言ってよい。

 そんなに憑きやすい体質なら、これまでは不便はなかったのだろうか?


「ん? ああ。東区に小さい神社があるのは知っているか? 神無市の土地神を祀(まつ)っているらしいんだが、そこにお参りをしてた」


 なるほど、と黒亜は頷いた。

 神社とは“神域”だ。ちゃんと手入れがされ、信仰の厚い神社であれば、そこに祀られた神の加護によって魑魅魍魎の類は退けられるかもしれない。

 だが……


「知ってます。ただ、あの神社は高齢の神主さんが一人で管理していますが、最近はあまり手入れが行き届いてなく、参拝する人も減ってきているので、土地神様の力も弱まっていて……強力な悪霊には対処できないんじゃないかなぁ……」

「何!? そうだったのか……」

「全く効果がないわけではないですけど……あの神社に行くぐらいなら、アリアのいるカトリック教会に行った方がよほど効果があると思いますよ」


 大学での講義のフィールドワークの一環で、黒亜はその神社に何回か行ったことがある。その身に強力な“呪い”を宿しているという体質上、黒亜は神聖な場所や清い場所に行くと不安感や気分の悪さ、体調不良に襲われる。だが、あの神社に関しては、鳥居を潜っても特に大きな体調の変化はなかったのである。

 それだけ、土地神の力が弱くなっている証拠だろう。

 あれはあれで何とかしないと、東区周辺の土地が悪霊悪鬼の溜まり場になったり、あるいは土地神自体が“祟り神”となって危害を及ぼしかねない。


「さて、と。じゃあ仕上げをしようか」

「? まだ何かあるのか?」

「ええ。こ(・)い(・)つ(・)ら(・)の始末です。檜山さんはそこから動かないでください」


 アリアが檜山に対しておこなったのは、4体の霊を身体から外しただけ。

 そのうち、檜山の両目を覆っていた腕だけの生霊は姿を消しており、3体が檜山の傍に残っていた。

 泣いている若い男性の霊は、おそらく害はない。後で話を聞き、アリアに上(・)に(・)送ってもらおう。

 問題は残りの2体の『悪霊』の方だ。

 今はアリアが焚いた白檀(サンダルウッド)と聖木(パロサント)の香(インセンス)の煙が周囲に漂い、檜山を守る結界となっているため近付くことができないが、隙ができればまた憑こうとするだろう。


「一応、聞く。改心する気があるなら、そこの男の霊と一緒に上に送ってやる。どうだ?」


 檜山が椅子に座る横。傍目には何もない空間を見下ろしながら黒亜が『悪霊』たちに交渉を試みる。

 先ほどまでとは打って変わった厳しい口調。変貌した黒亜の雰囲気に、歳が倍以上も離れている檜山にすら緊張が走る様子が見られる。

 一方、問いかけられた2体の『悪霊』は、黒亜を一瞥(いちべつ)すらしなかった。

 檜山の方を向きながらにたにたと嗤う子供と、ぶつぶつと何かを呟き続ける女。

 そんな2体の『悪霊』に対して、


「それが答えか」


 黒亜はそう言うと、黒い長手袋に包まれた左腕を軽く振った。


「!?」


 横目でその様子を見ていた檜山の目が大きく見開かれる。

 黒亜の目の前の狭い範囲に、黒い霧のようなものが現れた。

 その霧は見えない壁に閉じ込められているかのように、拡散することなく、一定の範囲内でうっすらと漂っている。

 ここで初めて、2体の『悪霊』が周囲の異変に気付き、黒亜の方へ顔を向けた。

 しかし、遅かった。

 見る見る濃度を増した“黒い霧”は、取り囲んだ『悪霊』に触れると、そ(・)の(・)存(・)在(・)を(・)溶(・)か(・)し(・)始(・)め(・)た(・)。


 ――ぎゃああああああ!!!

 ――ああああああああ!!!


 2体の『悪霊』から上がる壮絶な悲鳴。

 存在を蝕む猛毒から逃れようと身をよじり、腕をばたつかせるが、纏わり付く“黒い霧”は容赦なくその身体を溶かし、消していく。

 黒亜はただ、その様子を無言で、無感情に、じっ、と見つめていた。

 徐霊や浄霊。

 俗に言う霊能力者や霊媒師がおこなうとされる、霊を取り祓ったり、また取り祓った霊を成仏させ、神仏の下へ送るための行為。


 黒亜は霊に対して、そ(・)ん(・)な(・)優(・)し(・)い(・)こ(・)と(・)はできない。


 できるのは、跡形もなく存在を消し去ることだけ。

 まさに今、黒亜の目の前にいる『悪霊』は輪廻から外され、その意志や魂を抹消されようとしていた。


「今、何か聞こえなかったか…?」

「そうね……女性と子供? の呻き声かしら」


 黒亜の耳には先ほどから『悪霊』たちの断末魔の叫びが響き続けているが、霊が視えないアリアや檜山にも声が聞こえたらしく、辺りをきょろきょろと見回していた。

 やがて。

 悲鳴と、その悲鳴を発していた『悪霊』の存在は完全に姿を消した。黒亜の目の前にあるのはそれを成した“黒い霧”だけだったが、彼女が再び左腕を振ることで、その霧すらも空気中に溶け込むように消え去った。


「よし、『悪霊』の方は終わり。あとはそこの泣いている男性の霊だけだね。アリア、この霊はたぶん成仏を望むかもしれないから、送る準備をお願い」

「了解」


 アリアが鞄から道具を取り出す傍で、黒亜はしゃがみ込み、座り込んで顔を伏せ、嗚咽を漏らす男性の霊に話しかけた。


「泣いてるだけじゃわからないよ? 話、聞いてあげるから。言いたいことがあるなら言ってみて」


 そう語りかける魔女の声色は、先ほどよりもだいぶ優しかった。


 <続>

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