森と井戸と 6
本作はえきちー(@EkitaiT)の名前で、カクヨムにも掲載しております。
日も落ちかけた薄闇の寝室で。
促されるまま、ベッドの上に横になると、甘くていい香りに包まれた。
その心地良さに、少しだけ目を閉じたくなった。
眠るのは怖い。
でも数秒だけ、目を閉じるなら。
1……2……3……
3秒を数えて目を開ける。
部屋は窓から差し込む日の光で明るくなっていた。
薄闇ではなく薄明りの寝室で、芽衣はぼんやりと白い天井を見上げていた。
3秒だけ目を瞑ったはずなのに、何故部屋が明るくなっているのか。思考がまとまらない。まるで寝起きのように頭の中がぼんやりして……
「って、寝起き!?」
答えに辿り着いた芽衣の脳が急速に覚醒し、驚きながら、がばり、と上体を起こした。
3秒どころではない。目を閉じた瞬間、芽衣は眠りに落ちていた。
否、それはもう気絶だ。
意識を失い、何の夢を見ることもなく、ただ過ぎ去る時間にその身を置く。
はっきりとは覚えていないが、昨日が布団に入ったのは夕方だったはず。
なのにこの部屋の明るさ。つまり、半日以上は眠っていたと思うが……
「おはよう、お姫様。よく眠れたかしら?」
その声に芽衣がベッドの横に顔を向けると、長い金髪の碧眼の女性――アリアが座ったまま微笑み、芽衣を見上げていた。
その顔にはうっすらと隈が浮かび、少し疲れた様子を見せている。
彼女の前に置かれたテーブルの上には、溶けた蝋燭に白い火が灯ったランタンを始め、様々な道具が置かれている。
続けて、僅かに残る甘い香の残り香が漂うベッドの、その周囲に置かれていた水の入った瓶を見て、芽衣がその目を大きく見開いた。
真っ黒に澱んでいた。
閉じられたカーテンの隙間から漏れる一条の光が透明な瓶に当たるが、その光の大部分が中に入った黒い汚濁に吸収されていた。
その瓶には透明で綺麗な水が入っていたはずだ。一体何があったらここまで汚されてしまうのか。
芽衣は慌てる様にベッドから降り、アリアの隣に座った。
「ちょ、アリア、大丈夫…!?」
テーブルに置かれた金の置時計を見ると、9時を過ぎたところだった。
芽衣が夕方6時頃に眠ったとしたら、15時間は寝ていたことになる。
その間、この室内で何が起こっていたのか。
もちろん“呪い”だ。
芽衣を苦しめ、死に追いやろうとしていた“井戸の呪い”が、この部屋に来ていた。
アリアは芽衣が寝られるように、一晩中、あの“呪い”から守ってくれていたのだ。
「も、もしかしてアリアもあの“井戸”に…!?」
憔悴したアリアの様子に、芽衣が最悪の想像を頭に思い浮かべる。
「もう、私を誰だと思っているの? 気を張って徹夜で結界を維持してたからさすがに疲れたけど、あの程度の“呪い”をどうにかできないほどやわな祓魔師じゃないわよ」
アリアの腕を掴み焦った様子を見せる芽衣。
だが彼女は手をひらひらさせ、なんてことのない様子で答えた。
「そ、そっか……そうだよね」
アリアも黒亜と同じく、対“怪異”のプロだ。素人の芽衣が心配することでもなかったようだ。
「そうよ。……それにしても、だいぶ元気になったわね。徹夜した甲斐があったわ」
頭に手を置かれ、アリアにわしゃわしゃとされる芽衣。
いつもなら『やめい!』と手を払いのけるところだが、まだ本調子とは言い難いせいか、されるがままになってしまう。
やがて気が済んだのか、アリアは『よし』と言って立ち上がると、寝室の扉を開け、リビングに置いていた袋を手に取った。それは昨日、アリアがここに来る前にスーパーで買っていたあるもの。
「ちょっとキッチン借りるわね。少し待ってて」
あの袋の中身は何なのか。
疑問符を頭に浮かべたまま、とりあえず芽衣は頷いたのであった。
◆◆◆◆◆
芽衣を寝室に残し、一人キッチンに来たアリアは、小さく息を吐いた。
シンクの横に立てかけられたまな板を置き、収納扉を開けて包丁を見つけると、袋から2種類の果物を取り出した。
一つはイタリア・シチリア産のブラッディオレンジ。もう一つは南米エクアドル産のバナナ。
小さいスーパーだったが、この2つの果物を見つけたときは、なかなかこだわった仕入れをしていると感心したものだ。
厚いオレンジの皮に包丁を入れる。中身を覗かせた瑞々しい赤い果肉を食べやすいサイズに切り分けながら、アリアは昨晩のことを思い出す。
芽衣にはあの程度の“呪い”と、大したことはなかったという雰囲気を出して言ったが、あれは半分嘘だ。
なかなかの“呪い”だった。
アリアの張った三重の結界が突破されることはないという自信と確信はあったし、結果的に芽衣に被害は及ばなかった。
しかし、思っていた以上に侵入はされてしまった。
”聖霊の白火”の子機の蝋燭は尽きかけ、親機の蝋燭も溶け出した。
魔の黄金時間の3時間は、想定通り“呪い”の気配が増大し、“聖域”への侵入を試みる“何か”――おそらく芽衣が言っていた“死人の腕”かもしれないが、その数が増え、結界を叩く一打一打が重くなった。
聖水の結界がごっそりと削られたのもこの時だ。
舐めていたつもりはない。だが、見通しは少し甘かった。
その気になれば一時的に“神域”すら再現する稀代の若き祓魔師は、反省しつつ作業を続けた。
カットされたオレンジと、皮を剥かれて同じ様に一口サイズに切られたバナナを皿の上に乗せる。他に何かないかと勝手に冷蔵庫を開けると、未開封のペットボトルに入ったミネラルウォーターを見つけたので取り出す。
皿と水を並べたアリアは、首に提げていたロザリオを外して手に巻くと、目を閉じて祈りを捧げた。
「主よ、全能なる父よ、祝福を授け賜え。エイメン」
呟き、ロザリオの十字架を皿とペットボトルに軽く触れさせると、再びロザリオを首にかけたアリアは、その2つを持ってリビングへ向かった。
「メイ、朝食、というわけではないけど、これを食べて頂戴」
リビングのテーブルに座っていた芽衣の前に皿を置き、卓上にあった爪楊枝をオレンジに刺した。
「オレンジとバナナ…?」
首を傾げながら、爪楊枝を指先でつまみ、パクパクと皿の上の果物を食べる芽衣に、ペットボトルの水も渡す。
「どうかしら?」
「うん……普通のオレンジとバナナって感じで、特には…?」
水を飲みながら答える芽衣だったが、徐々に何か違和感に気付く表情となり、胃の辺りに手を置いた。
「ん…? なんか、身体があったかい…?」
訂正された芽衣の答えに、アリアが満足そうに頷く。
「そのフルーツは太陽の光をたっぷり浴びて育ったもの……言い換えれば“太陽の光を溜め込んだ果物”ね。それを食べるということは、陽の光を体の内側に取り込むということ。体内の邪気を清めて、内から身を守る効果があるわ。さらに私が祝福もしておいたから、しばらくはメイの身体に悪いものは入って来れないはずよ」
「そうなんだ……フルーツすご……」
「あとその水も。私が飲める聖水にしておいたから」
聖水とは、カトリックでは司祭以上の位階の信徒が“聖別”をおこなって作り出す神聖な水とされる。
だが実際、その中身は司祭が祝福した塩を溶かした塩水に、主への祈りを唱えて作られるものであり、人が飲むことはまずできない。
だがアリアは、その生まれつきのある特性により、司祭に祝福された塩を用いずとも、その場で主への祈りを捧げることで聖水を作り出すことができる。
芽衣が飲んだ水も、元はコンビニで売られていた普通のミネラルウォーターだったが、アリアが聖水化したのであった。
「よし、そろそろ“呪い”の本体を祓いに行こうかしら。メイ、案内をお願いできるかしら?」
「うん…!」
「そんなに緊張しなくていいわよ。現地で少し手伝ってもらうかもしれないけど。じゃあ準備するから少し待ってて」
そう言って寝室に入ったアリアは、そこに置いていた数々の聖具を回収してスーツケースにしまうと、代わりにある服を取り出して着替え始めた。
◆◆◆◆◆
神無市西区、神無山の登山道入り口。
太陽が燦々と輝く晴れ渡った平日昼前のそこには、2人の人影があった。
一人は神無高校の制服を着て、首からロザリオを下げた芽衣。
そしてもう一人は、大きなスーツケースを隣に置いた、修道服に身を包んだアリアである。その首にはずっと芽衣に渡していた大振りな十字架が掛けられていた。
アリアは現在、黒亜のように大学には通っておらず、東区にある小さな教会に住み込みで修道女として働いている。
以前、芽衣はその教会で地域住民向けに催されていたイベントで、修道服姿のアリアを見ているが、今彼女が着ている服は、そのときのデザインとは異なっている。
襟元が白い、黒のチュニックワンピースと頭を覆うベールは、多くの人が想像する修道女が身に纏う典型的な修道服だ。だが、そのスカートや袖、ベールには十字架の銀の刺繍が入っている。
アリア曰く、この修道服は対“怪異”専用の戦闘服、らしい。
修道服を専用服呼ばわりするのはなかなか物騒だが、神への深い信仰、祈りと祝福を以て魔物を祓い、浄化する祓魔師にとっては適した表現かもしれない。
「日差しが暑いくらいね。もう日光浴は十分。さ、早く登山道の日陰に入りましょう」
そう言うとアリアはスーツケースを転がしながら先に歩き始めた。
芽衣もその後ろをついていくように歩き出す。その腕には途中のコンビニで購入した2リットルの水のペットボトル4本が抱えられていた。
やや湿度はあるが、森の木々で日光が遮られるため、登山道は平地よりも快適に歩くことができる。2人は特にこれといった会話もないまま、緩やかな坂道を登り、休憩所を兼ねた1つ目の広場に辿り着いた。2人は重量物を持っているとはいえ、休憩するほどでもなかったため、そのまま先に進み続ける。
もうすぐ、この辺りだ。
芽衣が“井戸”へと続く細い“獣道”があった場所に差し掛かろうとするアリアに声をかけようとしたところ、
「……メイ、この辺りかしら?」
不意に立ち止まったアリアが、周囲を見渡しながら芽衣に尋ねた。
「え…? 確かにそうだけど、わかるの?」
「いえ……ただ、ここに来た途端、少し空気が変わったというか、嫌な感じがしたの」
これまでの経験で磨かれたアリアの卓越した“第六感”が、この場の違和感を察したらしい。
そう、この辺だ。それは芽衣も覚えている。
しかし、登山道の両脇に道らしき所は見当たらない。
あの時は、まるで芽衣を呼ぶかのように口笛みたいな音が聞こえて道が現れたが……
「具体的にどの場所に道があったか覚えている?」
「うん。えっと、左側だった。近くの柵に大きな傷が2つあったところの傍だったと思うけど……」
言いながら、芽衣は登山道の端に設置された柵を注意深く見ながらゆっくり歩く。
「あった! これ!」
アリアが芽衣の傍に来て、柵の先の森を見る。しかし、無数の木々が乱立しており、通れそうな場所はない。
芽衣が困った様に眉を寄せる。一方、アリアはその場でスーツケースを開くと、1本の透明な瓶――聖水を取り出した。その瓶の蓋を開けると、柵の向こう側へ撒いた。
ばちん
急に響いた、何かが弾けるような大きな音に、芽衣の身体が、びくっ、と震えた。
「やっぱり隠れていた。せっかく美少女2人が来てあげたのに、失礼ね」
溜息と共にそんなことを言うアリアの目の前。
そこに、道ができた。
いや、そこに道は最初からあった。おそらく“井戸の呪い”が隠していたその道を、アリアが暴いたのだ。
「だいぶ狭いし歩き難そうだけど仕方ないか。先に行くわね」
重そうなスーツケースを持ち上げて柵を跨ぐアリア。
黒亜もそうだが、こういう不可思議な現象に遭遇しても全く物怖じしないどころか、早く先に進みたい雰囲気を出すのは、さすがプロと言うべきか。
ペットボトルを抱えたまま、芽衣も柵を越えて後を追う。
外はあれだけ晴れているが、足場が悪く狭いこの“獣道”は、まるで雨が降り出す直前の空模様の暗さであり、日差しは全く差す気配がない。
やがて、2人は開けた空間に出た。
「あれ…?」
そこは“井戸”の本体がいるはずの場所。
しかし、そこには何もなかった。
「メイ、ここにその“井戸”があったのね?」
「うん、あったよ…! あの奥の方に……」
「そう。ほんとに歓迎されていないのね――」
そう言うと、アリアは先ほどと同じ様に、目の前の何もない空間に聖水を撒いた。
ばちん
「…っ!!」
芽衣の目が大きく見開かれる。
苔の生えた、古びた石積みの丸井戸。
トラウマとして心に刻まれてしまった、あの“井戸”が鎮座していた。
……がり
それは木と石が擦れる音。
……がり……がり……
夢で見た、路上で見た、石の“井戸”を閉じる木板の蓋がひとりでにずれ、開こうとする音。
何度も聞き、耳の奥にこびりついたその音に、芽衣の身体が無意識に震え始める。
《《あれ》》が開いたら、また無数の“腕”が掴みに、捕らえに来る。
芽衣の表情が強張り、消え去ったと思っていた恐怖が、胸の内に蘇り――
「メイ!」
アリアに名前を呼ばれると同時に、ばん、と芽衣の背中が手のひらで強く打たれた。
「気をしっかり持ちなさい。黒亜もよく言っているでしょ。“怪異”との勝負で大事なのは気力と体力。気持ちで負けたらあっという間にやれるわよ」
そう言うと、アリアは手に持っていた聖水の瓶を“井戸”に向かって投げた。
放物線を描き飛んでいった瓶は、見事に“井戸”の縁に当たる。ガラスの割れる音が響き、その中の聖水が古井戸を濡らした。
…………
蓋の動きが止まった。
「よし。今のうちに準備するわよ。メイも手伝って」
アリアは芽衣が抱えていたペットボトルを受け取り、代わりに、足元に開いたスーツケースから縦長の4つのランタンを取り出し手渡した。
「近寄りたくないでしょうけど、これをあの“井戸”を囲むように置いてきて欲しいの」
火の点いていない、真新しい蝋燭がセットされたランタン。
それは芽衣の寝室に“聖域”の結界を張った“聖霊の白火”の子機。
背中を叩かれ我を取り戻した芽衣は、アリアの頼みに神妙な面持ちで頷いた。
アリアの言う通り、確かにあの“井戸”には近付きたくない。これまで散々苦しめられたし、あれに殺されそうになったのだ。当然だ。
ただ、アリアに言われて気力を……気合いを入れたら、あの“井戸”に対する苛立ちも生まれていた。
『“怪異”とは理不尽なもの』
それは黒亜もアリアもよく言っている台詞だが、今初めてその意味がわかった気がする。
確かに理不尽だ。自身が原因で誰かから強い恨みを買ってしまった、という理由ならまだわからなくもないが、今回はただ、近所の山にある井戸を見ただけだ。何故それだけで恐怖を煽られ、殺されそうになるのか。腹が立つ。癪に障る。
理不尽な“井戸”に対する“恐怖”よりも“怒り”の感情の方が上回った芽衣は、4つのランタンを持ち、ずいずいと歩いて“井戸”に向かった。
アリアに言われた通り“井戸”の周囲にランタンを置いていくが、その時にちらり、と横目で窺う。
やはりこの“井戸”は不気味だと思うが、つい先ほどまでの恐怖感はほとんどなく、むしろ早くこれをどうにかしてしまいたい、という気持ちの方が強くなっている。
設置を終えてアリアのところに戻ると、彼女は芽衣が抱えて持ってきた水のペットボトルに十字架を当てていた。
「あら、意外とすんなり置いてきたのね」
「なんかもう、怖いというかむかむかしてきちゃって、あの“井戸”に。なんでこんな目に合わないといけないんだ! ……って」
「ふふっ、良い表情になったわね。そう、その意気よ」
……がり……がり……
聖水の効果が切れたのか、再び“井戸”の蓋が動き出した。
その音を聞いたアリアは、ペットボトルの横に置いていた大きなランタンの上部の取手を掴み、静かに立ち上がった。
左手の人差し指が、ランタンの蓋をこつん、と1回叩き、中の蝋燭に“白い火”が灯る。続けて、さらにもう1回叩くと“井戸”の周囲に置かれたランタンにも白い火が灯った。
薄暗い中で光る5つの光源。そのうちの4つの火に囲われて“聖域”と化した空間内に置かれることとなった“井戸”だが、なおも蓋を開けようとしている。
その様子を見ながら、アリアは手に持ったランタンを前方に揺らした。
あたかも、ランタンの中の“白い火”を“井戸”に向かって放る様に。
もちろん、何も飛んではいない。ただランタンが揺れただけである。
しかし。
“井戸”が白く燃え上がった。
ランタンの蝋燭と同じ、太陽の光を“炎”というものに変えたらこうなるという様な眩い白の輝きが“呪いの井戸”を包み込んでいた。
爆ぜるような音も無く、焼け焦げるような臭いもない。元より、石の井戸が燃えるはずもない。
だが確かに、芽衣の目の前で“呪いの井戸”は静かに燃え上がっていた。
薄闇を激しく照らす白炎に、アリアが近付く。
僅かに開いた“井戸”の口から、青白い“死人の腕”が姿を見せる。だがその腕は、燃え盛る白い炎に触れると、溶けるように消えた。
続くように、無数の腕が伸びようとするが、そのいずれもが同じ様に焼かれ、消えていく。
「何年、何十年かけて溜め込んだのかは知らないけど、その悪しき念は全て綺麗にして、囚われた魂たちは皆まとめて神様の下へ送ってあげるわ」
昨晩、芽衣を“呪い”から守った結界。それは今、“呪い”を逃がさないための結界となり、古井戸にこびりついた穢れを徹底的に浄化していた。
「メイ、ペットボトルを持ってきて」
やや炎の勢いが落ち着いたところで、アリアが芽衣に指示を出す。
言われた通り、4本のペットボトルを持っていき、うち1本の蓋を開けてアリアに手渡す。
左手で受け取ったペットボトルを逆さにすると、彼女はその中身を目の前で燃える白い炎にかけ始める。火力が衰えたかに見えた炎が、再び激しく燃え出した。まるでガソリンでもくべられたかの様に。
無数の腕が出て来ては焼かれ、焼かれては虚空に溶ける。白炎の火力が落ちれば聖水をかける。その繰り返しで幾ばくの時間が経ったのか。
現実的にはありえないはずの、その幻想的な光景に見惚れていた芽衣は、“死人の腕”がもう“井戸”から出てきていないことに気付いた。
アリアは3本目のペットボトルを開けていたが、その水は半分以上残っている。
聖水という燃料を失ったからなのか、あるいは燃やす対象がいなくなったからなのか、やがて“白い炎”は勢いを失い、その残滓すらなく消えてしまった。
「ん、こんなところかしらね」
そう言うとアリアはランタンを地面に置き、さらに“井戸”に近付くと、その上に乗せられていた木板を完全に取り払う。
どきっ、とする芽衣をよそに、アリアはトドメと言わんばかりに、残りのペットボトルの聖水を井戸の中に注ぎ始めた。
「よし、おしまい! せっかくだし、メイも覗いてみる?」
中を覗き込んでいたアリアは、軽い調子で芽衣を手招きする。
掲示板でも『覗いてはいけない』というようなことが書いてあった“井戸”
その中には犠牲になった人間の死体、あるいは人骨などが、どれほど奥底に溜まっているのか……
アリアの横に立った芽衣は、無数の不気味な腕が出てきた“井戸”の中を恐々と覗いた。
だが、そこにあったのは水に濡れた落ち葉、そして枯れ枝や砂利だけだった。
死体だの人骨などは欠片も見当たらない、ただの枯れ井戸だった。
「拍子抜けした? ま、実際はこんなものよ」
あっけらかんとそんなことを言うアリアは続ける。
「それにメイ、何か気付かないかしら?」
芽衣が井戸から顔を上げると、アリアが両手を広げ、周囲を見るように促している。
周囲を見渡すが、そもそも井戸以外には何もない空間だ。それとも祓っている間に何か増えたり減ったりしたのだろうか。
「あら、本当に気付かない? 例えば……そことか」
きょろきょろする芽衣を見かねて、アリアがヒントを出した。
彼女が指をさした先、そこには何もない。ただ、落ち葉が日差しに照らされているだけだ。
「あっ! そういうこと!?」
ようやく気付いた芽衣が声を上げた。
2人が来たときには日が落ちた夕方かと思うぐらい薄暗かったこの空間が明るくなっていた。
登山道と同じ様に、木々の枝葉の隙間から木漏れ日が降り注ぎ、地面をまばらに照らしている。
「井戸だけでなく、この場所全体に良くない“何か”がたくさんいて、それが日差しを遮っていたのでしょうね。でもその“何か”も、さっきの炎でまとめて浄化されたから明るくなったってわけ」
あの白い炎は“井戸”を燃やして祓っていたが、同時にこの場に漂っていた“良くないもの”も清めていた。あるいは、さながら光に集まる虫たちの如く、その“良くないもの”が清められたいがために、自ら炎の中に入っていったのかもしれない。
「さて、と。じゃあ帰ろうかしらね。これでメイも安心してココのお説教を受けられるわね」
そんなこと言いながら明るく微笑むアリアに、芽衣は苦笑いしか返すことができなかった。
<森と井戸と、終>




