森と井戸と 5
本作はえきちー(@EkitaiT)の名前で、カクヨムにも掲載しております。
午後5時過ぎ。
黒亜との通話を切り、煙羅亭を出た襟崎芽衣とアリア・エルフィンドは、芽衣の住むマンションの一室に居た。
ダイニングキッチンとリビング、その隣に寝室という構成の部屋は、掃除が行き届いており、ちゃんと整頓もされている。
アリアは自身の持っていた大きなスーツケースと、途中のスーパーで購入したあるものを、リビングに置く。
芽衣はここに来るまでの道中、足元をふらつかせながら、怯えるように周囲を警戒していた。先ほどアリアが訊くと”井戸”は現れなかったようだが、精神的な困憊が酷いようで、断片的な生返事しか返ってこないような状態だった。
「さて、と……メイ、身体を清めるためにお風呂を借りたいのだけど、いいかしら?」
「うん……」
力なく頷く芽衣の返事を聞き、アリアは脱衣所で手早く服を脱いで浴室へ入った。
シャワーによる簡易的な“禊”だが、穢れを洗い流すには十分である。
この禊をおこなうか否かで、この後の魔祓いの儀式の効果は大きく変わってくる。
それからしばらくして。
アリアが浴室から出ると、僅かに開いた脱衣所の扉の影に、両膝を抱えて体育座りをしている芽衣の姿があった。誰かが傍にいないと不安なのだろう。
身体を拭き、服を着たアリアは、扉を大きく開き、座り込む芽衣に声をかけた。
「メイ、あなたもシャワーを浴びて」
その声にのろのろと顔を上げた芽衣が感情の薄い目でアリアを見上げる。
「大丈夫、あなたが出てくるまでここにいてあげるから」
ね? と微笑むアリア。
その言葉に後押しされたのか、芽衣は立ち上がると脱衣所に入っていった。
扉は開けたまま、芽衣が座っていたところに立ち、腕を組みながら壁に背中を預ける。
浴室からシャワーの水が床や壁に跳ねる音を聞きながら、アリアは目を閉じた。
呪い。
その言葉を聞いて真っ先に思い浮かべるのは、アリアの幼馴染である夕川黒亜のことだった。
3歳のときに強大な“呪い”が込められた銀の腕輪を嵌めてしまい、それから10年の間、呪いの腕輪の“毒”に身体を蝕まれ続けた少女。
アリアが初めて黒亜と出会ったのは、彼女が小学校に入学した6歳のときだった。
登校初日、アリアが自分の名札が置かれた壁際の席に座っていると、しばらくして、左隣の席に女の子が座った。
左腕の袖口から鈍色の銀の腕輪を覗かせた少女は、体調が悪いのか、赤らんだ顔でぼんやりと前を向いていた。
初めての学校生活。まずは隣の子と友達になろうと思っていたアリアは、持ち前の明るい性格で、隣の席の少女にハキハキと話しかけた。
「こんにちは! 私はアリア! あなた、お名前は?」
アリアの大きな声に驚いたのか、少女の身体が、びくっ、と震え、その顔がアリアの方へ向いた。まさか自分が話しかけられるとは思っていなかったかのような表情だった。
「わ、私はここあ……」
おどおどしながら、か細い声で答えた少女に、アリアは身を乗り出す。
「ここあ? あの飲み物の!? かわいい! じゃあココちゃんって呼んでいい?」
「え、う、うん……」
見るからに日本人ではないとわかる、しかし日本人と変わらない発音で日本語を話す見知らぬ金髪碧眼の外国人に話かけられた少女は、その勢いに押されるように小さく頷いた。
こうして2人の少女の交流が始まったが、アリアはまだこのとき、黒亜がただの虚弱な少女だとしか思っていなかった。
いや、アリアに限らず、ほとんどの人間が黒亜のことをそう思っていただろう。
休むことも多かったが、それでもアリアと共に遊び、勉強し、笑い、学校生活を楽しんでいた黒亜。
まさか誰も、このとき彼女が常人なら数日で死に至る“呪い”を受けていたなどと思わないはずだ。
アリアもそのことを知ったのは、彼女が中学に上がったときだった。
アリアが覚えている限り、黒亜がその“呪い”について、辛いとか、嫌だとか、苦しいだとか、そんな後ろ向きなことを漏らして泣くようなことはなかった。
ぞっとした。
そんな“呪い”を身に受けながら、何故笑うことができるのか、何故不満の一つも零さないのか。
メンタルが強いとか、そういう次元の話ではない。
調子が良いという日は微熱を出しながら学校へ来て授業を受け、調子の悪い日には40度以上の熱を出して学校を休む。一晩で治まるときもあれば、三日間熱が下がらないときもあった。そして幾らか体調が落ち着いたのを見計らって学校に来た黒亜は、申し訳なさそうな顔でアリアに言うのだ。
遊ぶ約束を守れなくてごめん、と。
いつ死んでしまってもおかしくない様な生活を送りながら。
日々生きるのに精一杯で、余裕などないはずなのに。
常に自分よりも他人を優先しようとする姿勢に。
アリアは異常なものを見る目で、黒亜を見てしまった。
黒亜のことが理解できず、恐怖してしまった。
同時に、黒亜を恐れてしまった自分自身に驚愕した。
アリアは彼女のことを大親友だと公言していたのに。
6年間の小学校生活を共にしておきながら、お前は彼女の何を見ていたんだと、自分を恥じ、嫌悪した。
黒亜は毎日、その身体を蝕む“呪い”と対峙し、そんな辛い生活の中でアリアと一緒に笑ってくれていたではないか。
黒亜とは、ただそういう性格なだけの少女だったのだ。
そこに“呪い”の有無は関係ない。
アリアは、そんな優しい黒亜を本気で助けたいと思った。
これが、アリアが“祓魔師”を目指したきっかけだった。
中学に進級してしばらく後、黒亜はある出来事により腕輪が外れたため、結果的にアリアが彼女を助ける出番はなかった。だが、黒亜と同じように呪いだの悪魔だの、理不尽なオカルト現象で苦しむ人を助けたいという想いも生まれていたアリアは、祓魔師への道を歩み続けた。
最終的にそれは、別の災難に見舞われていた黒亜を助けることにも、そして【奇々怪々】で活動する黒亜の手助けすることにも繋がっている。
そして今は。
襟崎芽衣という、大切な仲間を助けるときだ。
煙羅亭で“神無山の井戸”について、芽衣は言っていた。
“井戸”の中から何本もの死人の様な肌をした腕が伸びて自分を捕まえようとする、と。そして、その腕に掴まれて“井戸”の中に引きずり込まれたら、自分もその腕になるのではないかと思った、と。
たぶん、それは合っている。
大昔の“神無山の井戸”も、始めは生活用水に使われるような普通の井戸だったのだろう。
しかしある時、その井戸で事故、あるいは事件が起こり、人死にが出てしまった。
その人間は『まだ死にたくない』『何故自分だけが死ななければならないのか』『他の人間も道連れにしたい』といったような強い感情をたまたま持っていたのかもしれない。
死後、その強い感情は“穢れ”として井戸にこびりつき、やがて井戸から伸びる一本の腕となった。腕は、その人間が死に際に放った“願い”とも呼べる最期の強い感情を叶えるべく、その井戸に近付いた他の人間を捕らえ、道連れにする“呪い”という“仕組み”となった。
そして捕らえられた人間もまた、より多くの“願い”を叶えるための道具として、その魂を新たな腕という形へと変えられ、神の御許に還ることもできずに囚われてしまう。
そうして長い年月を経て、あの“井戸の怪異”が出来上がった。
もちろん、これは全てアリアの空想だが、ありえる話だ。
がちゃ、と扉の開く音。
いつの間にか水音は止んでおり、芽衣が出てきたようだ。
アリアは閉じていた目を開けた。脱衣所を覗くと、一糸纏わぬ姿で身体を濡らした芽衣が立っていた。
アリアは棚に置かれていたバスタオルを取り、芽衣の頭に被せた。
「立ってるのも辛いでしょ? もう少しだから、ね」
髪を拭きながら、憔悴した様子の芽衣に語りかける。
そして寝間着に着替え、首から大きな十字架を掛けた芽衣を連れ、アリアは大きなスーツケースと共に寝室に入る。
扉を閉め、ざっと中を見回したアリアは、
「このミニテーブル、ちょっと借りるわね」
と言い、入り口の傍に置いてあったテーブルを、ベッドの横に移動させる。
そのとき、アリアはテーブルの上に置かれた、千切れた黒いヘアゴムに気付く。
アンティーク調のボタン飾りが付いたヘアゴムに、彼女は目を細めた。
元々は白色だったこのヘアゴムは、以前アリアが芽衣に渡したものだった。
もしものときのために、と魔除けの効果を込めたヘアゴムだったが、どうやら今回の件でその効果を発揮したらしい。おそらく、彼女が最初に見た夢から救ってくれたのだろう。
役目を終えたヘアゴムをそっと回収したアリアは、続いてスーツケースを開き、様々な道具を取り出した。
まずは5つの金属製のランタン、そして蝋燭。
アリアはそれらのランタンの中で、同じ縦長の四角い形状をした4つのランタンの上部の蓋を回して開ける。そのランタンの長さに合ったやや長めの蝋燭をそれぞれにセットすると、火を点けることなく蓋を閉めた。
これでは照明器具としての役割を果たせなさそうだが、アリアは気にすることなく、その4つのランタンを1つずつ寝室の四隅に置く。残る1つの一際大きい、四面に十字架とアラベスクの模様が入った四角いランタンに、直径、高さ共に10センチメートルはある極太の蝋燭がセットされる。アリアはこれにも火を点けずに蓋を閉めると、ミニテーブルの上に置いた。
その作業の様子をぼんやりと見ている芽衣の視線に気付いたアリアは、笑みをこぼしながら芽衣に話しかけた。
「魔祓いって、結構準備が大変なのよ。かさばる道具も多いから大きいスーツケースも持ち歩かないといけないしね。それにもう夕方で、これから日も落ちるでしょ? 夜は魔物たちの有利な時間。逆に私たち祓魔師にとっては不利な時間なの。だから入念に準備しないとね」
そう言いながら、アリアは続けてスーツケースから、水の入った8つの透明な瓶を取り出した。
そのうちの4本を、1本ずつベッドの四隅に配置し、残りの4本はミニテーブルの隣に置く。
さらに、革張りの表紙の聖書、アンティークのクラシックな雰囲気の金の置時計、青銅のハンドベル、純白の石の玉を繋げて作られたロザリオを順にテーブルへ並べていく。
「よし! それじゃあメイ、お待ちかねの就寝時間よ! さ、布団に入りなさい」
掛け布団代わりの薄いタオルケットを捲ったアリアに促され、芽衣がベッドの上に仰向けになった。タオルケットを被せたアリアに『本当に眠って大丈夫なのか?』というような芽衣の視線が向けられる。
「ふふっ、言ったでしょ、任せてって。それに絶対起きてられないから。嫌でも寝ちゃうわよ」
そう言うアリアは銀色の香炉を取り出して蓋を開け、その中に木片や乾燥した植物の花、樹皮など混ぜた香を入れた。チャッカマンで火を点けると、それらは一瞬、大きく赤く燃え上がったが、すぐに火が消え、白い煙が立ち上る。
蓋を閉めた香炉もミニテーブルの上に置かれる。
扉も閉められた寝室に、空気の流れはない。
それにも関わらず、香炉から立ち上った煙は部屋中に拡散することなく、芽衣が横になるベッドの方へ不自然に流れ出し、彼女の体の周囲に漂い始めた。
僅かにスパイシーさの混じる、ウッディな甘い香り。
「あ、れ……」
その香りが芽衣の鼻孔をくすぐると、不安そうにアリアを見つめていた芽衣の瞼が急に重さを増したかのように閉じ始める。
それはアリアが魔祓いの際によく用いる白檀、聖木、シナモン、ラベンダーを混ぜ合わせて作った、魔除けと安眠の効果を持った特製の香であった。
「ゆっくりお休みなさい。そして明日の朝、少し元気になった姿を見せて頂戴――」
果たしてアリアのその呟きは聞こえたのか。優しい香りに包まれた芽衣はすでに安らかな寝息を立てて意識を落としていた。
その様子を確認したアリアは、部屋の電気を消す。
本当なら人工的とはいえ、電灯を点けていた方が魔祓いには有利になるが、熟睡するには光の刺激はない方が良い。これはアリアの気遣いだった。
午後6時前。赤い西日の光が閉められたカーテンの隙間から漏れ差す。
甘い香りと薄闇、そして静寂に満たされた寝室。
その中で芽衣の方を向く形でミニテーブルの前に座ったアリアは、左の手のひらにロザリオを巻いて握り、目を閉じて祈りを捧げた。
「天地の創造主、全能の父よ、畏れ多くも願います。御身が纏う威光、その一部を、私に貸し与えください」
目を開けたアリアは右手を伸ばすと、その指先でテーブル上のランタンの蓋を、こつん、と叩いた。
――ぼぅ
その瞬間、ランタンの中の蝋燭に白い火が灯った。
アリアがもう一度、ランタンを指先で叩く。
――ぼぅ、ぼぅ、ぼぅ、ぼぅ
今度は部屋の四隅に置かれたランタンの蝋燭に、同じ様な白い火が灯る。
あたかも静止画を見ているかのように、その火はいずれも一切揺らぐことがなく、また不思議なことに、全く蝋燭を溶かしていない。
ランタンに火を灯したアリアの右手が、聖書を開く。
紙の表面にびっしりと書かれたギリシャ文字の文面を、ランタンの淡く白い光が照らし出した。
呼吸を整え、アリアはその文面――新約聖書を粛々と読み始めた。
アリアの紡ぐ言葉と、テーブルに置かれた時計が正確に時を刻む音だけが聞こえる室内。ただ厳粛に、そして不思議なほど穏やかに時間が流れていったが。
どん
不意に、音が鳴った。
どん……どん……
ラップ音、と言うにはあまりに低く、重い音。
例えるなら、丈夫で分厚いガラス板に、思い切り拳を叩き下ろしているかのような打擲音。
その音が部屋の空気を震わせる度、微動だにしていなかったランタンの白い火が、僅かに揺らめく。
異常が起き始めた中、アリアは一切動じることなく、聖書に書かれたイエスのもたらした数々の奇蹟を読み上げ続ける。
アリアがこの寝室に仕掛けたもの――それは結界だった。
世界中に約14億人以上いると言われるカトリックの信徒が崇め、敬い、そして畏れる創造主が全世界に放つ偉大な威光。
そのほんの一部を“白い灯”として借り受けることができる典礼聖具『聖霊の白火』を用いて作り上げた、紛れもない“聖域”である。
どこにでもあるマンションの一室が、今この時だけはカトリックの大本山、サン・ピエトロ大聖堂に匹敵する神聖な場へと変貌していた。
並みの悪霊程度なら近付くことすら憚られる“聖域”
生まれたときから他のカトリックの信徒が嫉妬する程に“神の寵愛”を受けるアリアだからこそ作り出せる、特別な場。
しかし、芽衣を狙う“井戸の呪い”は、不躾にも力技でその中へ侵入しようとしている。
ある程度の意志や自我を持つ『悪霊』や『悪鬼』とは違い、意志のない自動的なシステムである“呪い”に対しては、偉大な主の威光など意味を成さない。
この場で秤にかけられるのは“結界”と“呪い”の純粋な強度――すなわち、どちらの力が上か、という一点だけとなる。
ピシッ
何度も叩かれていたガラスに亀裂が入ったかのような、不穏な音が鳴った。
やはり、と聖書を朗読しているアリアは、内心で舌打ちする。
この“聖域”は結界としての強度も非常に高い。
だが、それでも純粋な力の強さは“呪い”の方が上だった。
どん……どん……
ピシッ……ピシッ……
“呪い”が執拗に叩き続ける見えない壁に入る亀裂が、徐々に成長していく。
そして。
ばりん
一際大きい音が鳴り響き、部屋の四隅に置かれた1つのランタンの火が大きく揺らめき、まるで息を吹きかけられたかの様に、ふっ、と消える。
アリアの作り出した“聖域”の壁に穴が空いた。
置時計に目をやると、芽衣が眠ってから1時間が経っていた。
予想より早い。
結界が突破されるのは織り込み済みだった。
2時間は持つだろうと想定していたが、1時間で突破された。
創造主の力の象徴である陽の光が届かず、魔物の力が強くなる夜。
祓魔師にとって不利になる状況とはいえ“威光の聖域”を、こうも短時間で突破してくるとは。
苦々しい表情を浮かべるアリアの右隣りを、見えない“何か”が通過する気配。
アリアがハンドベルを手に取り、りん、と一振り鳴らすと、その気配は霧消した。
――ぼぅ
指先で『聖霊の白火』を叩き、消えていたランタンの蝋燭に、再び白い火を灯す。一度火が消えた蝋燭は、ほんの僅かに溶けていた。
親機と4つの子機から成る『聖霊の白火』によって作られるこの“聖域”は、子機の火が1つ消えたとしても、残りが灯り続ければ“聖域”としての効果は持続する。
仮に4つの火が消えたとしても、親機の白い火が灯り続ける限り、結界はいくらでも容易に張り直すことが可能である。
いかに強力な“井戸の呪い”であっても、神の威光に照らされることでその力を大きく削られれば、『祓魔の鐘』を鳴らすことで祓うことができる。
加えて、芽衣の眠るベッドの周囲には七日の間、アリアが祝福を授けて作った聖水と、同じく祝福を授けた白檀と聖木の香という2種の結界も張っている。
たとえ魔物の力が増大する夜と言えど、今の時間帯ならこの三重の結界が突破されることは、まずない。
ただ、1つ目の結界――白火の“聖域”が突破される時間は、アリアの思っていた以上に早かった。
これから深夜に近付くに連れて“呪い”の攻勢は強まっていく。
そして、その攻撃性が最も激しくなる午前0時半から3時半、すなわち“魔の黄金時間”と言われる3時間を耐え切れば、アリアの実質的な勝利と言えるだろう。
芽衣が朝6時に目覚めるとしても、あと10時間以上。
長丁場の攻防戦は祓魔師の腕の見せ所となる。
隙を見せず、一歩も引かず、三日三晩寝ずに『悪魔』と対峙し続けるなど、魔祓いではよくある話だ。
一定のペースを保ちながら、主への深い祈りを込めて聖書を読み上げ続けるアリアは、胸の内で気合を入れ、長い夜に備えた。
<続>




