森と井戸と 3
本作はえきちー(@EkitaiT)の名前で、カクヨムにも掲載しております。
山で“井戸”を見た日から2日が経った。
眠ればまた“井戸”が、夢の中に現れる。
あのときは運良く逃れることができた。
だが、次はない。そんな予感があった。
記憶に刻まれた“井戸”への恐怖で眠ることを拒否している芽衣は、目の下に隈を作り、精神を摩耗させながら、それでも気を紛らわさせるために、こうして学校へと来ていた。今はなるべく一人にはなりたくない。他の誰かが近くに居る状況に身を置いていたかった。
昼休み、そのような状況の彼女が机に突っ伏しているのは“井戸”を視界に収めないためだった。
昼食に誘ってきた2人に、いつもより愛想悪く、突っ伏しながら対応したのは寝不足や精神的疲労があったため。
だが、その理由だけではない。
芽衣に話しかけた2人の横に、あの“井戸”があったからだ。
だから2人を見なかった。見れなかった。
あの井戸の蓋が、今、どこまで開いてしまっているのか。
それを知りたくなかった。
芽衣は机に突っ伏したまま、昼休みだけでも目を閉じる。
でも眠りはしない。眠れば夢に“井戸”が現れるから。
芽衣は昨日から何度か、今は私用で遠方にいる黒亜に連絡を試みていた。
“怪異”退治のプロ、夕川黒亜。
彼女がいないときに勝手な行動をおこない、結果、こんな状況になってしまったのは情けない限りであり、おそらく叱責されるだろう。
しかしこうなってしまった以上、もうなりふり構ってはいられなかった。
『おかけになった電話は電源が入っていないか、 電波の届かない場所にあるため、かかりません』
だが、いつもの彼女の番号にかけても、ガイダンスが流れるだけで繋がることはなかった。
LINEでメッセージも送ったが、既読もつかない。
もう、黒亜が戻ってくるのを待つしかない。それが明日なのか、3日後なのか、いつ戻ってくるのかはわからない。
打てる手がない。最悪な相手に対する、最強のカードが切れない。
手詰まりとなっている現状の閉塞感と焦燥感が胸の内で渦巻く。
タイムリミットまでは決して長くはない。
あの“井戸”の蓋が半分以上開いてしまったら、今度こそ芽衣はあの夢で見た無数の“死人の腕”に掴まれて“井戸”の中に取り込まれてしまう。
『井戸の中を覗いたら死ぬ』などという、ホラー映画やゲームでありがちな、わかりやすく、あっさりとした“死”ではない。
あの無数の“腕”に捕まり“井戸”の中に引きずり込まれ、生きたまま五体を引きちぎられ、死ぬ直前まで、恐怖と苦痛と無念の叫び声を上げることになるかもしれない。
あの“腕”はそうやって犠牲になった人間の魂。
死後、その魂は“井戸”に囚われ、あの“腕”の一本に姿を変えて、次の獲物を狙う。
芽衣も、最期はあんな風になってしまう。
昼休みの終了を告げるチャイムが鳴る。
重く、暗く、冷たい思考の波に呑まれかけていた芽衣は、その鐘の音に意識を引き上げられ、我に返った。
上体を起こす。しかし視線は机に向け続ける。
芽衣のところへ、昼食に行っていた2人が戻って来た。
「芽衣? ほんと大丈夫? やっぱ顔色だいぶ悪くない?」
「マジで体調悪いなら帰った方がいいって」
普段から芽衣と軽口を言い合っているこの2人が、本気で心配する様子を見せる。
だが、
「へーきへーき。あのメイちゃんだよ? すぐ治るってば。ほら、席に戻った戻った」
目線は変えないまま、精一杯の強がりで、いつものおどけた調子と笑みを作る。
説得を諦めたのか、2人はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていった。
数学ⅡBを担当する男性教師が教室に入り、5限目が始まる。
ちらり、と教卓の足元に目を向けると、そこには当たり前のようにそれが見えた。芽衣は陰鬱な表情を見せ、再び視線を机上に戻す。
あとどれくらい耐えることができるのか。耐えられる時間があるのか。
芽衣は一人、無言で“怪異”への抵抗を続けた。
◆◆◆◆◆
放課後、一日の授業を終えてにわかに騒がしくなった教室の片隅で、芽衣はノートや筆記具をしまい込んだ鞄を肩にかけると、席から立ち上がった。
「おつかれー」「じゃあね」「無理すんなよー」「ちゃんと寝ろよな」
芽衣のクラス内での人気を示すように、クラスメイトたちから口々に声をかけられる。
「はいはーい……キミたちもなー……」
歩きながら片手を上げて返答した芽衣だが、その声にはいつも軽快な調子はない。
教室を出て昇降口へ向かう移動中にも、ふと視線を上げてしまうと、その先には当たり前のようにあの“井戸”がある。
初めの頃はすぐに姿を消していたそれは、今では消えることはほとんどない。
様子見から対象の捕獲へと段階が移行したかのように、芽衣にあの“腕”を伸ばすタイミングでも見計らっているかのように。
学校を出た芽衣は自宅へ帰らず、煙羅亭へ足を進めた。
黒亜は来ないし、おそらく他に客も来ないだろう。
だが、あそこには金村がいる。
何も喋らず、こちらから話しかけても何も反応しない店長。
それでも構わない。この時間からまだ一人にはなりたくなかった。
北区から神無駅の南北連絡通路を通り、南区へ入る。
この間にも芽衣は何回か黒亜へ電話発信していたが、やはり彼女が出ることはなかった。
睡眠不足に加え、現実でもいつ“井戸の腕”に襲われるかわからない恐怖感と黒亜に頼ることができないという絶望的な状況が、芽衣の精神を摩耗させ、感情を削り、生きる気力さえも奪いつつある。
今の芽衣に起こっている現象は、端的に言えば『彼女にしか見えない“井戸”が常に視界に現れ、徐々に閉じられた蓋を開けていく』という、ただそれだけのこと。
蓋が開かなければ何もしてこない。蓋が開くまでは実害がない。無視すればいい。
しかし、その行為は健常な精神状態であればこそできることだ。
その終点に“死”が待つ、ということがわかっている現象を執拗に繰り返され、まともな精神状態でいられる人間などほぼいない。
ふらつく足取りで重い身体を引きずるように歩く芽衣は、自分が思っている以上に限界が近付いていた。
あの日から2日しか経っていないが、もう3日目は持ちそうにない。
まさかここまでの“怪異”だったとは……と、後悔しても遅きに失する。
黒亜と【奇々怪々】の仕事をこなすことで“怪異”の恐ろしさ、容赦のなさ、理不尽さというものを十分に理解していた。
そんなつもりだった。
だが実際には、黒亜という“怪異”退治のプロが様々な不可解な現象を解決し、『悪霊』や『悪鬼』といったものを当たり前のように退けてしまうのを近くで見ていたせいで、“怪異”とは『日常の延長線上にある少し面倒なこと』ぐらいの、本来とは真逆の認識を持つようになっていた。
芽衣は後方支援の事務処理担当で、基本的に実際の現場の中に入ることはない。現実に“怪異”と対峙するのは現場担当の黒亜であり、芽衣は彼女が苦手とする案件の後処理、事件の隠蔽などをサポートしているだけだ。
なのに芽衣は、規格外の“魔女”である黒亜と活動を共にするうちに、無意識に、自身まで『“怪異”のスペシャリスト』になった、そんな気になってしまっていた。
そんなわけがないのに。
黒亜と出会ったあの日、“怪異”が生み出した『縄張り』に、芽衣は何もできなかったではないか。先日、黒亜が作った“儀式の場”の中で、その異質な雰囲気に怯えていたではないか。
そして今。
軽い気持ちで首を突っ込んで遭遇した“井戸の怪異”に、成す術なくその命を奪われようとしているではないか。
どんなにオカルトに、“怪異”に絡んだ活動をしていても、これらに対する芽衣はどこまでも無力な人間でしかない。
そんな当たり前な現実を。
“怪異”に殺されそうになっている今になって、芽衣は思い出した。
もっと早く思い出すべきだった。
いつものように確認するだけ。今回だって上手くやれる。何かあっても乗り切れる。最後は黒亜がなんとかしてくれる。
自信、過信、慢心、他信。
これらが芽衣の目から見える、彼女の生活に日常化した“怪異”の本質を歪め、曇らせてしまった。
今の芽衣の状況は、成るべくして成った結果であった。
あまりに浅はかな過去の自分に対すると怒りと、どうしようもできない今の状況に対する鬱屈とした感情を胸の内に抱えた芽衣は、あと10分も歩けば煙羅亭に着くというところで大通りの信号に捕まった。
乗用車だけでなく、トラックなどの大型車も多く通るこの幅の広い道の信号は長い。
横断歩道の前に立ち止まり、その視界の大部分に自身の足元を映す芽衣。
不意に、目の前を通る車の流れが途切れた。
信号が青に変わったのかと思い、無意識に顔を上げた芽衣だが、数メートル先の横断歩道上にある“井戸”を見て、すぐに顔を俯かせる。
周囲に他の人はおらず、自転車も車も通らない。
一時の静寂。
……がり
微かに、しかしはっきりと聞こえた音。
それは夢の中で見た、木板の蓋がずれて、石の“井戸”と擦れて鳴る音。
その不吉な音を聞き、目を、はっ、と見開いた芽衣は顔を上げた。
「あ……」
横断歩道に鎮座する石積みの古井戸。
精神的な苦痛から見ることを拒んでいたその“井戸”を直視した芽衣は、状況の進行具合を把握した。
蓋が、半分以上開いていた。
それはあの暗い空間で見た、あのときの“井戸”と同じ状態。
ならば。
次に起こるのは。
――にゅぅ
“井戸”の中から、指の様なものが現れた。
最初は5本、腕1本分の数だった指は、10本、15本、20本と次第に数を増やしていく。
開いた穴を埋め尽くすように生えた指のようなものは、そのままゆっくりと上に向かって伸び始め、無数の手のひらとなった。
血の通っていない青白い手のひらは、さらに上へ伸び続ける。
“井戸”からみっちりと生える、不自然に長く、しかし関節は見当たらない無数の青白い腕。そのうちの何本かは、折れたように途中で曲がっている。
まるで“井戸”を鉢に見立てたかのようなそれは、夢で見たのと全く同じ“死人の腕の生け花”
そんな奇怪で醜悪なオブジェが、芽衣の目の前の再び現れた。
「う……あ……」
忘れることができないあの夢に一致する光景に、芽衣の表情が恐怖で歪み、身体を大きく震わせる。
全身から冷や汗が噴き出し、鳥肌が止まらない。
“怪異”が活発化するのは夜だから、昼間なら、日が昇っているなら大丈夫だろう。おそらく今日一杯は持つだろう。
あの“井戸”から目を背け、確認を怠っていた芽衣は、そんな風に勝手に思っていた。いや、思い込もうとしていた。
だが。
残された時間は、もうすでになくなっていた。
“死人の腕”が、芽衣に向かってゆっくりと伸び始めた。
その“腕”に掴まれないために逃げようとしたが、やはり身体が金縛りにあったかのように動かない。
そしてあの時は、途中で夢から覚めたために、最悪の状況になる前に逃れることができた。
しかし、今は。
「……やっ!! 痛っ…!!」
1本の“腕”が芽衣の右手首を掴んだ。
人間に掴まれたときのような芯のある硬い骨の感触はなく、僅かに柔らかく、弾力のある素材――まるでゴムで作られたかのような腕。
死人の肌のような見た目通りにひんやりと冷たいその“腕”は、かなり強い力で芽衣を掴む。
その見た目と感触の生理的な嫌悪感と恐怖感、そして痛みで芽衣から悲鳴が漏れた。
次々と迫る“死人の腕”
それらは芽衣の反対の手首を、腕を、足を、脚を、胴を、肩を、首を、頭を、顔を、掴めそうなあらゆる部位に喰らい付く。
そして、立ったままの芽衣を、そのまま“井戸”の下へ引き摺りだした。
「……っ!!」
抵抗しようにも身体は動かせず、首と顔を掴まれ、悲鳴をあげることはおろか、呼吸することすらままならない。
ざり、ざり、とスニーカーの靴底が、アスファルトを擦り“井戸”へと引っ張られる。
芽衣は諦めた。
抵抗することを。生きることを。
ここが自分の人生の終着点。そう悟った。その運命を受け入れた。
このままあの“井戸”に引きずり込まれ、激痛に喘ぎながら身体をバラバラに引き千切られるのだろう。
そして死後、芽衣の魂はあの“井戸”に囚われ続ける。
死ぬのは嫌だ。
ただ同時に『ようやく今の状況から脱することができる』という安堵の思いも生まれていた。
あの“井戸の怪異”に魂を囚われ続けることで、別の苦しみがあるかもしれない。
それでも今は楽になりたかった。
全身を激痛に襲われながら、芽衣は目の前に迫った“井戸”を見る。
悔しいなぁ
全てを諦め、それでも胸の内で悔恨を呟いたとき。
「メイ!!」
すぐ傍で聞き覚えのあるような声が、彼女の名を叫んだ。
同時に身体を後ろに引っ張られる感覚。
気付くと、芽衣は横断歩道の手前、歩道側に仰向けに倒れていた。
大型トラックが、あの“井戸”のあった道路上を、大音量でクラクションを鳴らして走り去っていった。そこにはもう“死人の腕の生け花”の姿はない。
そして芽衣の隣に、彼女と同じ様に倒れている女性もいた。
「あたた……」
白いワンピースを身に着けた、腰まで届く長い金髪と、美しい碧眼。
その首には、女性には不釣り合いな大きさの十字架が掛かっている。
彼女は、手をぱんぱんと払って立ち上がった。
「ちょっとメイ! 一体何をしてるの!?」
腰に手を当てながら、倒れたままの芽衣に怒りの声をあげる女性。
少し幼さの残る可愛らしい声を聞いた芽衣は、目をしばたたかせながら呟いた。
「アリア…?」
金髪碧眼の女性――アリア・エルフィンドは、怒りながら倒れたままの芽衣に手を差し出したのであった。
<続>




