第75話 狂気と絶望の狭間で、再生の朝
ある夜……。
沙弥は仕事から戻り、くつろいでいた。
そこにドアを叩く音。
(誰だろう? オーブリーさんかな?)
ドアを開けると、レオンが立っていた。訓練場での光景を思い出し、一瞬ひるむ。
だが、笑顔で取り繕う。
「レオンさん、お久しぶりです」
レオンは、何かに迷っているように見えた。
「どうされました?」
「サーヤ」
「はい?」
そう答えた瞬間、レオンは苦しげな表情で沙弥に手をかざした。すると、沙弥はその場に崩れ落ちた。レオンがそれを受け止める。
「サーヤ、すまない……。こうするより他に、思いつかなかった」
レオンが沙弥にかけたのは睡眠魔法だった。眠った沙弥を抱きかかえ、レオンは戻ってゆく。
廊下で、同じフロアのエミリアとすれ違った。
「レオンさん、こんばんは」
「ああ」
「サーヤさん、どうされたんですか?」
「問題ない」
レオンはそう言って立ち去った。
エミリアは一旦部屋に戻ったが、どうにも気になって仕方がなかった。
レオンが抱いている沙弥は意識がなかった。沙弥の具合が悪いのなら、レオンがあんなに落ち着いているはずがない。
それに、レオンはもう護衛ではないし、二人の仲は終わったはず……。
嫌な予感がした。
(どうしよう……)
そうだ。騎士団の詰所なら、この時間でも誰かいるだろう。
そう思って詰所まで走る。そこにレオンはいなかった。
レオンが意識のない沙弥を抱いてどこかへ行った。そう告げると、詰所にいた騎士たちがざわめいた。
「そのへんを探してみろ」
「オーブリーを呼んでこい」
やがて、レオンが沙弥を抱えたまま、馬車でどこかへ行ったということだけわかった。
「どこへ行ったと思う?」
団長がオーブリーに問う。
「二人で行ったことがあるところでしょうか。レルナか、ヴルカリスか、アズラークか……」
「それじゃ、各地の警備隊に捜索を要請しよう」
「俺はアズラークに行ってみます。レオンは、初めて見た海にとても感銘を受けていたようなので」
海の広大さを、夕日の美しさを、普段は何かに関心を持つことの少ないレオンが熱心に語っていた。
◇◇◇◇◇
夜明け前、レオンは海岸に立っていた。沙弥を抱いたまま。
馬車はそのまま王都に帰した。もう自分は戻ることがない王都に……。
御者は異変に気づいていた。あの騎士は、意識のない娘を抱いて、ずっと話しかけていた。すまない、すまない、と謝っていたように思う。
明らかに、何かがおかしかった。
(何とかして王都に知らせなければ)
警備隊の基地に向かおうとしたところ、馬に乗った騎士に出会った。オーブリーだった。御者は自分が目にしたことを伝え、二人を降ろした場所を教えた。オーブリーは馬を走らせた。
◇◇◇◇◇
レオンは膝まで水に浸かっていた。時折、波しぶきが顔にかかる。
「サーヤ、そろそろ起きろ」
沙弥の瞼がわずかに揺れた。だが、目は覚さない。
「空が綺麗だぞ。君は綺麗なものが好きだろう?」
レオンはそうして、変わりゆく空の色を見つめていた。
やがて、沙弥が目を覚ます。
「レオンさん?」
「目が覚めたか」
「ここは……?」
「アズラークだ」
確かに、波の音が聞こえる。すぐそこに。
あたりを見回し、なぜかはわからないが、自分がレオンに抱かれて海の上にいることがわかった。
昨夜、レオンが部屋に来た。ドアを開けて……その後の記憶がない。
(何をされたの?)
不安になる。そして、レオンの顔を見る。
恋人だった頃の柔らかな表情はどこにもない。出会った頃の仏頂面とも違う。
完全に感情をなくした顔だ。
(怖い……)
初めて、レオンを本気で怖いと思った。そして……。
その瞳を見たとき……理解した。
(この人は、壊れているのかもしれない)
もう一度、レオンの顔を見る。その瞳に宿っているのは……狂気なのか絶望なのか……。
(きっと、私のせいだ……)
罪悪感がこみ上げた。
あんなに好きだった人を、急に拒絶して、遠ざけて、心を壊してしまった。
「どうしてここに?」
「また、君と一緒に海が見たかった」
そう言われた瞬間、レオンと一緒にアズラークに来たときのことを思い出した。
夜の海に魔獣が潜んでいそうだと言っていたレオン。島で拗ねていたレオン。夕日の美しさに感動していたレオン。海の青さと君の笑顔を忘れないと約束してくれたレオン。どれも、大切な思い出。
大好きだったこの人の手を、なぜ離してしまったのだろう。
そこで、ふと気づいた。
(ああ、そうか。私も……壊れていたんだ……)
帰れなかったショックで、すべてをレオンのせいにした。自分だって悪かったのに。
すべてを捨てても日本に来ると言ってくれたのに……。彼がどんなに私を必要としているか、わかっていたはずなのに……。
レオンとの思い出も、彼に守ってもらっていたことも、彼を大好きだったことも、すべてなかったことにして、彼を恨み、突き放した。
そうすることでしか、心を保てなかった。
そうして、彼を壊した……。
それが、私のしたかったこと?
(違う……)
こんなふうになったレオンを見たかったんじゃない。
この人が好きだ。今でも……。
(彼が、ここに連れてきてくれたから、思い出すことができた。大切なことを)
「これからどうするんですか?」
「帰らない」
レオンはそう言った。その声には迷いがなかった。
「どうして?」
「帰れば、君はいなくなるから」
そのとき……。
「レオン!」
オーブリーだ。
「戻ってこい!」
レオンは振り返らない。
「君は、帰りたいか?」
「……はい」
「……ならば、オーブリーと一緒に行け。俺はこのまま……」
「いいえ。レオンさんと一緒に帰ります。帰ってからも、レオンさんと一緒にいます」
「だが、君はもう俺を嫌いだろう?」
その言葉に、胸が締め付けられた。
言われなければわからず、言葉を欲しがるこの人に、「許さない」と言い放った。
どれだけ傷ついたのだろう。
「嫌いになんか、なれません。ただ、怖かっただけ」
「なぜ?」
「あなたが、日本に帰してくれそうになかったから」
「今度は、ちゃんと帰す」
「本当に? 片道の転移陣が完成したら帰りますよ?」
「そのときは俺も一緒に行く。今度こそ……」
「それはダメです。レオンさんは、往復転移陣が完成したら会いに来てください」
「それまでは離れるのか?」
「きっと、数ヶ月か、半年か、一年くらいです。それだけでも離れていられませんか? どうしても、帰りたくないですか?」
「……王都に戻る」
「……それがいいです」
そう言って、レオンの頬に唇を寄せた。
それでもレオンは何も言わない。微笑まない。海を見つめたままだ。
ただ、沙弥を抱く手に力が込められた。強すぎるほどに……。
「おろしてください」
「ダメだ。濡れてしまう」
オーブリーがいる砂浜に戻る。
「何やってるんだ! レオン! みんな心配してるぞ」
「すまない……」
「……正気に戻ったか」
「俺は正常だ……ただ、耐えられなかっただけだ」
「オーブリーさん、もう大丈夫です。王都に戻ります」
「そうか……」
(私が壊したなら、私が治す)
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夜通し駆けてきたオーブリーを休ませるため、騎士団に連絡を入れた後、その日はアズラークに泊まることにした。
二人きりになると、沙弥はレオンを抱きしめ、何度も「大好きです」と伝えた。
感情のなかったレオンの顔が、少しだけほどけた気がした。
夕方、三人であの浅瀬の海岸に行き、夕日を眺めた。オーブリーも、その美しさに驚いていた。
翌日、馬車を手配し、三人は王都に戻った。




