第72話 離さない腕、光の中に消えた弟
ざわめきが波のように広がっていく。
公爵家の子息が……この国を捨てると、言った。
未知の異国へ。帰れる保証もない場所へ。
すべてを捨てて、ただ一人の女のために
それは、常識では測れない選択だった。
だが……
「それは認められぬ!」
場を一刀のもとに断ち切ったのは、重く、鋭い声。
レオンの父……国務大臣だ。
「お前には、公爵家の者としての義務がある」
冷徹なまでに正しい言葉。
だが、レオンは一歩も引かない。
「俺は跡継ぎではありません」
一歩も引かず、言い返す。
「兄上にはすでにご子息もいる。俺が残る理由はない」
「お前は『理由』で残る存在ではない!」
怒りが声に滲む。
「それに、お前は騎士だ。国に忠誠を誓った身だろう」
「ならばなおさらです。俺はサーヤの護衛。守ると誓った」
「その任は、今をもって解く」
「無意味です」
間を置かず返す。
「俺はサーヤ本人に誓った。意思で結ばれた誓約です。オーブリーが証人だ」
空気が張り詰める。
どちらも、退かない。
「……レオン」
父の声が、わずかに低くなる。
「異国で生きられる保証はない。戻る術もない」
「ケントとサーヤが生きる場所です」
迷いはなかった。
「俺だけが生きられないはずがない」
「母が悲しむぞ」
ほんの一瞬、沈黙。だが……
「……きっと、理解してくださる」
断言した。
「頭を冷やせ」
「冷やしている時間など、ないでしょう!」
その叫びに、静寂が落ちた。
……そのとき。
「……レオンさん」
沙弥が静かに口を開く。不思議なほど、声は落ち着いていた。
「お父様の言うとおりです」
「サーヤ……?」
「私が瘴気に侵されたとき、助けてくれましたよね」
「ああ」
「でも」
わずかに、息を吸う。
「レオンさんにとって日本の何かが『毒』だったら? 私には……何もできません」
「そうなるとは限らない!」
「でも、その可能性がある以上……選べません」
レオンの顔が歪む。
理解したくない現実を、無理やり突きつけられたように。
「……お別れしましょう」
一瞬、空気が止まった。
「嫌だ」
低く呟くような声。
「絶対に嫌だ!」
今度ははっきりと。取り繕いは、もうなかった。
「レオンさん……駄々をこねないで」
「駄々でも何でもこねる。見苦しくてもいい。君と離れるくらいなら、全部捨てる」
子どものような言葉。
けれど、それは本音そのものだった。
沙弥は、そっと彼を引き寄せ、耳元で、囁いた。
「……そんな顔、ここで見せないでください」
可愛い、甘えん坊のレオン……。そんなところも好きだった。
でも、今ここでは……強く、誇り高い騎士でいてほしい。
「笑われますよ」
「構わない」
震える声。
「サーヤは、俺と離れても平気なのか……?」
「平気なわけ、ないでしょう?」
「それなら、なぜ?」
「レオンさんに不幸になってほしくないんです」
レオンの瞳が激しく揺れる。
「あなたは、『ルーキスの太陽』でしょう? ここにいるときが、一番輝く人です」
「……サーヤのいない場所で輝いて、何になる!?」
叫びは、ほとんど悲鳴だった。
「君を失うこと以上の不幸など、ない!」
(……だめだ)
沙弥は悟った。自分では、この人を止められない。
「でも、お父様が……」
大臣に視線を向ける。
「ああ」
冷たい声が返る。
「お前が魔法陣に入っている限り、起動はさせぬ」
「そんな!」
絶対的な権力。この場で、それに抗える者はいない。
レオンが、父を睨み据える。
だが、そのとき……
「あの……二年だけ、いただけませんか?」
静かな声が、その対立を断ち切った。
アロイスだった。
「サーヤさんに清書したもらった新型転送陣の理論を往復可能転移陣に応用できそうです」
誰もが息を呑む。
「二年で、形にします」
彼の性格を知る者ほど、それが「異常な宣言」であると理解していた。
確証がなければ、決して口にしない男だ。
それでも、言った。
……この場を救うために。
「……本当なんですね?」
賢斗が問う。
「はい。少なくとも『帰還』は可能にします」
「……わかりました」
短く、頷いた。そして……レオンを見る。
「二年後、必ず姉さんを帰してくれますか?」
まっすぐな視線。
「たとえ、二度とこちらに戻れなくても」
「……ああ」
迷いなく、答える。
「約束する」
その瞬間、すべてが、決まった。
「姉さん」
賢斗が振り向く。
「今帰っても、泣くんだろ?」
「……」
「そんな姉さん、見たくない」
言葉が、刺さる。
「二度と帰れないなら絶対に置いていかない。でも……」
まっすぐに沙弥を見つめる。
「二年なら、待てる」
その一言で、決まった。何か言おうと思うが、声が詰まる……。
「……オーブリーさん」
「ああ」
荷物が魔法陣の外へ運び出される。残ることが急に現実味を帯びる。
「ちょっと、待って……」
(私は残るの? 今日帰るんじゃなくて?)
沙弥の体が、ふわりと浮く。
レオンに抱き上げられていた。
「離して……」
「離さない」
低く、決定的な声。
「姉さん」
賢斗の声。
「二年後、ちゃんと帰ってきて」
(賢斗は私を置いていくつもり? 一緒に帰ると約束したのに?)
「レオンさん、ちゃんと姉さんを守ってくださいね」
「ああ、何があっても守ると誓う」
「……起動してください」
「待って、賢斗……」
魔法陣が光を帯びる。
「姉さん、元気で!」
(嫌だ。あと二年も帰れないなんて)
「行かないで!」
叫んで、手を伸ばす。だが……届かない。
「離して!」
「嫌だ。離さない」
「私は帰りたいの! 離して!!」
力の限り叫んだ。
それでもレオンは離してくれない。
「賢斗!!」
光が、すべてを飲み込む。
そして……静寂。
そこに残ったのは……
……取り残された姉と、
……それを手放さなかった騎士。
勇者は、帰った。
たった一人で……。




