第71話 絶望する騎士へ、掟破りの招待状
……その日が、来た。
今夜、沙弥と賢斗は日本へ帰る。
時刻は午後十時。人目を避けるための配慮だった。
沙弥は、朝から荷造りをしていた。来たときよりも、ずいぶん荷物が増えている。
バッグも、ひとつでは足りなかった。それでも……
(思い出は、入りきらない)
どれだけ詰め込んでも、足りない。
レオンと過ごした日々は、どこにも収まらない。
別れの挨拶は、昨日のうちに済ませた。
ダニエラも、ヘンリクも、課の人たちも……
皆、惜しんでくれた。その優しさが、かえって胸に重かった。
手を止め、ふと口を開く。
「レオンさん」
「どうした」
「そのシャツ……いただいてもいいですか?」
彼が部屋に来るたびに着ていた、あの部屋着。
一緒に選んだもの。高価ではないけれど、大切なもの。
レオンはわずかに視線を落とす。
「なら、洗浄魔法を……」
「かけないでください」
遮る。
「そのままがいいんです……」
一瞬、言葉に詰まる。
「……あなたの香りが、残っているほうが」
言った瞬間、胸が軋んだ。
「できるだけ、ぎりぎりまで着ていてください」
香りは、記憶を呼び覚ます。甘くウッディなレオンの香り。シャツに残った彼の名残が記憶を鮮明に蘇らせるだろう。
その香りが消え去るまでは……。
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「サーヤ……そろそろ行くか」
「……はい」
その一言が、やけに重かった。
部屋を出る前。何も言わずに唇を重ねる。長く、深く。
何度触れたかわからない、レオンの唇。でも……
(これで最後かもしれない)
そう思った瞬間、離れがたくなる。
+++++
大広間に着くと、賢斗は既に来ていた。
見送りの人たちも……。
ダニエラ、ヘンリク、魔導具課の人たち、そして、魔法陣を起動する魔法陣課の課員たち。
一人ひとりと言葉を交わす。
賢斗もまた、騎士たちと別れを惜しんでいた。
最後に、レオンの前に立ち、その手を取る。
「レオンさん」
「ああ」
それだけで、言葉が詰まる。
「本当に、お世話になりました」
震えないように、必死に言葉を繋ぐ。
「あなたが護衛だったから、私は今、生きています」
彼が救ってくれた命……。
「……そんなこともあったな」
かすかに笑う。
けれど、その目は……。
「あなたと過ごした日々、絶対に忘れません」
「……俺もだ」
視界が滲む。
「あなたと出会えて、本当によかった」
声が、もう持たない。
「ありがとう……」
最後まで言い切る前に、抱き寄せられた。周囲など、もう見えていない。
長い口づけ。離れて、ようやく絞り出す。
「……さようなら」
背を向け、一歩踏み出す。賢斗が待っている魔法陣の中へ。
そのとき……手首を強く掴まれた。
振り返ると、レオンだった。
「サーヤ……」
声が震えている。
「見送れると思っていた」
一語一語、噛みしめるように。
「思い出だけで……生きていけると」
握る力が強くなる。
「でも、無理だ」
その一言で、すべてが崩れた。
「離れられない」
痛いくらいに、力が込められる。
「離れたくない……!」
叫びが、大広間に響いた。
涙に濡れた金の瞳。
そこにあるのは、取り繕いようのない……絶望。
「私だって……」
言葉がこぼれる。
本当は、同じだ。離れたくない。
でも……
帰る場所がある。置いていけないものがある。
この先ずっとルーキスで暮らす覚悟はできていない。
それでも……
この手を振りほどくことなど…………。
(できるわけがない)
答えが出ない。ただ、手を離せない。
「レオンさん」
そのとき、賢斗が口を開いた。
「姉さんは、俺にとっても大事な人なんです」
「……知っている」
「だから、置いていくことはできません」
「……ああ」
レオンは、理解している。
「でも、だからこそ……」
賢斗は続ける。
「レオンさんの気持ちもわかるんです」
レオンが、顔を上げる。
「離れたくないなら……日本に来ませんか?」
空気が止まった。
「……俺が?」
「はい」
迷いのない声。
「騎士の仕事はありません。でも……それでもいいなら」
常識で考えれば、あり得ない提案だった。
だが……。
「『日本』に……俺の居場所はあるか?」
一瞬の静寂。
「作ります」
言い切った。
「俺が。……何を使ってでも」
レオンの瞳が揺れる。ほんの一瞬。そして……
決断する。
「ならば」
手を、強く握る。
「行く」
はっきりと言う。
「俺も……『日本』へ」
沈黙が流れる。誰も、言葉を発しない。
ただ……その選択の重さだけが、その場に深く落ちていった。




