第66話 大理石の迷宮、揺るぎなき騎士の保証
翌日……。
約束どおり、オーブリーの実家である侯爵家を訪れることになった。
少し緊張している。
貴族の邸宅とは、どんな場所なのだろうか。
昼食に招かれているため、出発は昼前。馬車で三十分ほどの距離だという。
「これは賢斗から渡すといいわ」
出発前、沙弥は花束を差し出した。
「お花、用意してくれてたんだ」
「手ぶらはさすがにね」
「そんな、気を遣わなくてよかったのに」
オーブリーは苦笑するが、日本人としてはそういうわけにもいかない。むしろこれで足りているのかすら不安だ。
やがて馬車は屋敷に到着した。
……いや、屋敷ではない。
延々と続く並木道の先に現れたそれは、どう見ても「城」だった。
「……ねえ」
「うん」
二人同時に口を開き、そして黙る。
門から玄関までの距離がおかしい。
そもそもスケールが違う。
ようやく辿り着いた玄関で、沙弥は小さく息を呑んだ。
一歩踏み入れた瞬間、思わず足が止まる。
視界いっぱいに広がるのは、見上げても果ての見えない天井。
磨き上げられた大理石の床。
そして壁一面に並ぶ、歴代当主たちの肖像画。
静かで、重い。
(……ここ、入ってよいところ?)
……間違えた場所に来た気がする。ここは、私が踏み込んでいい世界じゃない。
隣を見れば、賢斗も完全に固まっていた。
沙弥は着てきたワンピースをそっとつまんだ。ディナー用のそれでも、この空間の前では頼りない。
隣を見れば、賢斗は完全に普段着だ。
騎士二人だけが、この場に自然に溶け込んでいる。
案内するオーブリーの背中が、いつにも増して大きく見えた。
小声で囁く。
「ねえ、私たち……帰ったほうがよくない?」
「俺も、ちょっと思った」
その会話を拾ったレオンが穏やかに言った。
「問題ない。顔を上げろ。ここにいることは、誰にも咎めさせない」
落ち着いた声音だった。それでも、緊張は消えない。
執事に案内され、応接間へと通される。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
暖炉の火が静かにはぜ、柔らかな熱が肌を包む。
壁には精緻なモールディング。
頭上には巨大なシャンデリアが光を放っている。
その中央に立つ二人……。
オーブリーと同じ髪色の青年と、気品を纏った夫人。
ただそこに立っているだけで、この屋敷の主であるとわかる。
「ケント、サーヤ、兄のジョスランとその妻のヴァランティーヌだ」
「はじめまして。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
二人で挨拶をし、賢斗が花束を差し出す。
夫人はそれを受け取り、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。とても素敵だわ」
花と同じくらい、いやそれ以上に美しい笑みだった。
(だめだ、緊張する)
これまで貴族と顔を合わせても、緊張などしなかった。
だが「この城の主」だと意識した瞬間、まるで別物になる。
作法もわからない。
何が正解かもわからない。
(こんな場所に、自分がいていいのだろうか)
ふと、レオンのことが頭をよぎる。
彼は公爵家の子息だ。つまり、これ以上の世界の人間。そんな彼と恋仲になっていたとは、なんて無謀だったのだろう。
令嬢たちに詰め寄られた理由を、今さらのように理解する。
そんな内心など知る由もなく、ジョスランが穏やかに口を開いた。
「本日はお越しいただきありがとうございます。オーブリーから話を聞いて、一度お会いしたいと思っていたのです。勇者様、この国を救っていただき、感謝いたします。そしてお姉様まで巻き込んでしまったこと、この国に属する者としてお詫び申し上げます」
「いえ、俺はほとんど何もしていません。オーブリーさんをはじめとする騎士たちのおかげです」
「私も、弟と一緒に来られてよかったと思っていますので」
言葉を返すと、ジョスランはわずかに表情を緩めた。
「そう言っていただけると気が楽になります。本日は食事をご用意しておりますので、ぜひご一緒に」
その後、ダイニングへと案内された。
そして……
「えっ」
思わず声が漏れる。
並べられていたのは、想像していた「コース料理」ではなかった。
広いサイドボードいっぱいに、色とりどりの料理が並んでいる。
肉料理、魚料理、色鮮やかな野菜。
整えられたテリーヌや、見たこともない品々。
そして何より……量が多い。
(六人分じゃない……)
どれから取るべきか。
どれくらい盛ればいいのか。
(間違えたら、失礼になる? 笑われる? それとも、無言で距離を置かれる?)
何ひとつわからない。
賢斗と視線が合う。……同じ顔をしていた。
そのとき……横から、皿が差し出される。
「サーヤはこれが好きだろう?」
レオンが、迷いのない動きで料理を選び、皿に整えていく。
その様子に、少しだけ肩の力が抜けた。
(……いつもどおり)
そういえば、いつもそうだった。選ぶのも、頼むのも。
彼は当然のように覚えている。
護衛の仕事ではないはずなのに。
気づけば、賢斗もそれを真似て料理を取り始めていた。
(助かった……)
やがて全員が席につき、食事が始まる。
「ヴルカリスはいかがですか?」
「とても素晴らしいところですね。私は二回も来てしまいました。温泉には何度入ったかわかりません」
「昨日と一昨日は四人で温泉に入ったんですよ」
オーブリーの一言で、空気がわずかに止まる。
「……サーヤさんもですか?」
夫婦の視線がこちらに向く。
「ええ、布を巻いて入りましたので」
なるべく自然に答える。
「サーヤの国は、ルーキスとはだいぶ基準が違うようです」
レオンが補足した。
「でも最初、レオンさんは嫌がってましたよね」
賢斗が笑う。
「俺だけ外されそうだったよな」
「オーブリーは事故を起こしただろう」
「事故は仕方ない」
「大丈夫ですよ。私には見えませんでしたから」
ほんの一瞬。だが、確かに空気が止まる。
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
食器の触れる音だけが、不自然に響く。
(やってしまったかもしれない)
視線が集まる。
ジョスランとヴァランティーヌは、顔を見合わせた。
呆れ半分、諦め半分、といった表情だ。
(……やっぱり、この国では非常識なんだ)
胸の奥が、少しだけ冷える。
視線を落としかけた、そのとき、
「問題ない」
隣からの低い声。
「この場にいる以上、彼女の振る舞いはすべて俺が保証する」
はっきりとした、迷いのない声音。
「彼女に非があるとするなら、それは俺の責任だ」
沙弥は思わず顔を上げる。
レオンはただ、前を見据えていた。
……揺るがない。
その姿に、胸の奥の冷えが、ゆっくりと溶けていく。
場違いかもしれない。
それでも……ここにいていいと、そう思えた。
ここにいていいと、初めて思えた。




