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ルーキスの太陽 ~異世界の境界線、その手を離さない~  作者: 如月菫
第二部 目を背けつつ、恋に溺れた
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第54話 静寂の地底湖、闇に沈む紺碧の鏡

 翌朝……。


 沙弥が目を覚ますと、レオンはすでに起きていた。

 枕元に肘をつき、静かにこちらを見下ろしている。


「寝顔を見ていたんですか?」

「ああ」


 ためらいのない返答だった。


「恥ずかしいから、あまり見ないでください」

「恥ずかしがる必要はない。可愛いなと思って見ていた」


 そう言われると、余計に困る。

 視線を逸らしながら身体を起こすと、レオンはまだ名残惜しそうにこちらを見ていた。


「私はいつも先に寝てしまいますし……レオンさんには見られてばかりですね」

「ああ。だが、触れると起きてしまうだろう? だから我慢している」

「……お気遣いありがとうございます」


 二人でバルコニーに出てみた。

 すでに太陽は昇りきっており、海は朝の光を受けて柔らかな青に変わっていた。


「今日は船が出ているな」

「漁船でしょうか?」

「そうかもしれない」


 水平線の近く、小さな影がいくつか揺れている。

 人が営みを続けている気配が、どこか現実へ引き戻す。


「それじゃ、今夜もおいしいお魚料理が食べられますね」

「サーヤは魚料理が好きなのか?」

「はい。日本は島国で新鮮な魚が穫れますから、魚料理が多いんです。生で食べることも多いですよ」

「魚を生で?」


 レオンが眉をひそめる。


「今では他の国でも食べられていますけど、慣れていないと危ないですよ。毒があったり、寄生虫がいたりしますから」

「……なかなか恐ろしいな」


 素直な反応に、思わず笑みがこぼれる。


(ルーキスでお寿司は、さすがに無理そうだな……)


 少しだけ、日本が恋しくなる。


「今日は洞窟に行くんだったな」

「はい。昼前に出て、途中で昼食にしましょう」

「ああ」


 短い会話。だが、その落ち着きが心地よい。

 昨日までの出来事が、すでに遠い記憶のようにも、逆に濃く残っているようにも感じられた。


                 +++++


 昼前に馬車で出発した。内陸に入るのではなく、海沿いを行くようだ。

 潮風が窓の隙間から入り込み、髪をかすかに揺らす。


 途中の町で馬車を止め、小さな食堂に入る。

 暖簾が風に揺れ、木の扉が軽く軋んだ。窓ガラスは潮で曇り、外の光を柔らかく散らしている。どこか懐かしいような、静かな空間だった。


 最初に出てきたのは、貝をたっぷり使ったクラムチャウダー。

 白いスープから立ちのぼる湯気に、潮の香りが混ざる。

 一口すすると、優しい温かさが身体の奥に染み込んだ。


「貝は初めてですか?」

「たぶんな」

「初体験が多いですね」

「ああ。サーヤのおかげだ」


 その言い方が、妙に素直で、少しだけ胸の奥が温かくなる。


 続いて、小魚のフリット。衣が軽やかに音を立て、レモンの香りが弾ける。


「サクサクでおいしいです!」

「ああ、美味いな」


 最後に、魚介のパスタ。皿の上で、エビや貝が光を受けて淡く輝く。


「ルーキスでパスタは初めてです」

「俺もだ」

「パンとは違う小麦ですよ」

「『日本』にはあるのか?」

「あります。主食はお米ですけど」

「コメか……」


 レオンが小さく呟く。この世界にはないもの。

 それを当たり前のように語っている自分。


(……やっぱり、私は「外の人間」なんだな)


 一瞬だけ、意識が現実に引き戻される。


                 +++++


 町を少し歩くと、小さな漁港があった。

 水揚げされた魚が、朝の光の中で鈍く光っている。


「見たことのない魚ばかりです」

「俺もだ」


 王都では見られない光景。だが、どこか懐かしい。

 小さな土産物屋で、貝殻の形をした菓子を買う。魔法陣課へのささやかな土産。

 こういう日常の延長のような行為が、妙に愛おしく感じられた。


                 +++++


 さらに三十分ほど進むと、洞窟の入口が見えてきた。自然のままの岩肌が、口を開けている。


「……勝手に入っていいんでしょうか」

「問題ないらしい」

「ちょっと怖いですね」

「俺がいる」


 短い一言。それだけで、足が前に出た。

 中に一歩踏み入れた瞬間、空気が変わる。冷気が肌を撫で、音がすべて反響する。

 水滴の落ちる音。足元を流れる水。すべてが、外の世界とは切り離されていた。


「鍾乳洞ですね」

「そういうものか」

「石が長い時間をかけて削られてできた洞窟です」

「気が遠くなるな」


 灯りはところどころに設置されているが、それでも暗い。


「足元に気をつけろ」

「はい」


 手を取られる。その温もりだけが、ここが現実だと教えてくれる。


                 +++++


 歩いているうちに、水音が大きくなってきた。


「川が流れているみたいですね」

「ああ」

「海に流れ込んでいるんでしょうか?」

「どうだろう? 泳いでみるか?」

「私は嫌ですよ」

「俺もだ」


 さらに歩くと、道は二手に分かれていた。どちらも奥が見えない。


「どちらに行きます?」

「川の方に行こう」


 進むと、確かに水の流れが強くなる。だが、やがて行き止まりに突き当たった。


「歩いて行けるのはここまでですね」

「川は続いているけどな」

「ボートがあれば楽しそうですけど」

「滝に落ちるかもしれないぞ」

「やめておきましょう」

「ボートもないしな」


 小さく笑い合う。


                 +++++


 分かれ道まで戻り、今度はもうひとつの道を行く。

 こちらの道は長い。そして……。


「……湖だ」


 視界が開ける。そこには、静まり返った水面があった。


「地底湖ですね」


 薄暗い洞窟の奥に、その湖は沈んでいた。

 黒に近い青が静かに揺れ、まるで底そのものが闇に溶けているようだった。

 灯りをかざすと、水面だけが切り取られたように光を返す。


(……深い)


 どこまでも。吸い込まれそうなほどに。美しく、そして……怖い。


「……何か、いそうですね」

「やめてくれ」


 レオンが即座に否定する。その反応が少し可笑しくて、ふっと笑みがこぼれた。

 だが同時に思う。


(この水の奥には、何も見えない)


 底も。先も。まるで……


(未来みたいだ)


 また、そんな考えが浮かんだ。


                 +++++


 しばらく湖を眺めたあと、二人は踵を返した。

 来た道を戻る二人の背後で、あの神秘的な地底湖が再び沈黙へと沈んでいく。

 響くのは足音と水音だけ。

 やがて、外の光が暗闇の終焉を告げる。


 洞窟を抜けた瞬間、空気が一変した。


「……少し、ほっとしますね」

「ああ」


 短い同意。だが、その声は陽光に触れて緩やかに解けていくような響きを帯びていた。

 外の世界は明るい。そして現実だ。

 洞窟の中にあった静寂はすでに遠い。


 それでも……、あの地底湖の深い青は、しばらく心の奥に残り続けていた。


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