第52話 騎士の心に、「大好き」の処方箋
翌朝……。
沙弥は日の出前に目を覚ました。隣ではレオンが静かに眠っている。
規則的な呼吸。わずかに乱れた髪。無防備な横顔。
(……よく眠ってる)
起こすのは惜しい。そっとベッドを抜け出し、上着を羽織ってバルコニーに出た。
空気が冷たい。夜の名残が、まだ肌に刺さる。
だが……
(……綺麗)
水平線近くの空が淡いピンク色に染まり始める。その上に柔らかな水色が重なり、さらに上へ行くほど深い青へと変わっていく。
静かなグラデーション。誰も触れていない、世界の端の色。
海はまだ暗いが、光を受け始めている。ゆっくりと、本当にゆっくりと、色が変わっていく。時間の流れが目に見えるようだった。
(レオンさんにも見せたいな……)
そう思って、まだ眠っているはずの部屋を振り返る。だが……。
起こす理由は、ただ「綺麗だから」だけ。
(……もう少し寝かせておこう)
再び海を見ると、ピンク色の帯が濃さを増し、空が持ち上がるように、色が上へと広がっていく。
そのとき……
「風邪を引くぞ」
振り向くと、レオンが立っていた。
「起きたんですか?」
「ああ。いないから探した」
(探した、って……)
その言い方が少しだけ嬉しい。
「空が綺麗で、つい見とれてしまって」
レオンも外を見て、少しだけ目を細める。
「……確かに、綺麗だな」
それだけ言って沙弥の肩を抱き寄せる。自然に、迷いなく。体温が伝わり、冷えた身体がゆっくりとほどけていく。
「サーヤは、本当に綺麗なものが好きだな」
(それ、どこまで含まれてるんだろう……)
一瞬、考える。だが、聞かないことにした。
空が明るくなるにつれ、ピンク色の帯が色を失い、青空に溶け込んでいった。
海も変わる。昨夜の深い藍色は消え、どこまでも透き通った碧色に輝いている。
「朝の海はどうですか?」
レオンは少し考えてから答えた。
「……まったく別物だな」
「ですよね」
「昨夜は、底なしの深淵のように見えた。だが今は……」
言葉を探すように、少し間を置く。
「……ただ、美しい」
素直な言葉だった。
「波の音も違う。昨夜は地鳴りのようだったが、今は心地いい」
「水平線が見えるからかもしれませんね」
「ああ」
遠くを見つめる。水平線……境界があるだけで不安は和らぐ。
「でも……」
レオンが続ける。
「広大なものだということは、変わらないな」
「はい」
それは夜も朝も同じ。ただ、見え方が違うだけ。
「今日行くのは、あそこに見える島でしょうか?」
「ああ、多分な」
小さく浮かぶ影。あれが目的地。
+++++
ダイニングルームで朝食をとった後、島への船を手配した。島は「シエル島」という名前らしい。
夏場は小さな店などが開くようだが、今はどこも閉まっているという。
宿でランチを用意してもらうことにした。
十一時に船が出る。小型の船は予想以上に速く、水しぶきを上げながら進んだ。
「結構スピード出ますね」
「ああ」
レオンはやや身構えている。揺れに慣れていないのだろう。
だが、視線は海に向いている。興味はあるらしい。
二十分くらいで島に着いた。島の地図を渡され、三時頃迎えに来ると言って戻って行ってしまった。
「……島に、私たち二人きりになっちゃいましたね」
沙弥がふふ、と笑いながら、隣を歩くレオンを見上げた。
「このまま、誰も迎えに来てくれなかったらどうします?」
「ここに住んでしまうか?」
「食糧がないです……」
軽い会話。
だが、現実という重力からふわりと浮き上がったような感覚があった。
隔絶された場所。名前も、地位も、任務も。ここには自分たちを縛り付けるものは何ひとつ届かない。
だからこそ、少しだけ自由になる。
「あの距離なら泳いでも帰れるだろう?」
「レオンさん、泳げるんですか? 海に来るのも初めてだし、ルーキスにプールはないんでしょう?」
「子どもの頃に風呂で泳いだことならあるぞ」
(貴族の子息でもお風呂で泳いだりするんだ……)
お風呂で泳ぐ、子どものレオンを想像して笑ってしまう。
(可愛かっただろうな……)
迎えの船が来ることを信じて、島を散策する。二時間くらいで一周できるほどの大きさらしい。
「この先に、白砂のビーチがあるみたいです」
「行ってみよう」
入江になった美しいビーチ。砂浜はどこまでも白く、マリンブルーの水はどこまでも澄んでいた。
「……すごいですね」
思わず声が漏れる。言葉が追いつかない。
レオンも、しばらく何も言わなかった。ただ、見ていた。足元の砂、透明な水、光を……。
「……入るのか?」
「少しだけ」
「溺れるなよ」
「いくらなんでも、この水深では溺れませんよ」
靴を脱ぎ、スカートをたくし上げ、足首まで水に浸かった。
「冷たいです!」
「だから言っただろう」
少しだけ、乾いた声で笑う。
水から上がり、持ってきたシートを砂浜に敷いて腰を下ろした。
風はあるが、日差しは柔らかく、静かだ。
「こんな場所に、私たちだけなんて」
「ああ」
レオンの声が低くなる。
「……何をしても、誰にも見られないな」
(来たな……)
少し警戒する。
「結界を張れば寒くない」
「……何か、よからぬことを考えてますよね?」
「いや、ただ」
「ダメですよ」
「ダメか……」
本気で残念そうな顔をする。
(本当にわかりやすい……)
「鳥が見ています」
「鳥なら、いいだろう」
「太陽も見ています」
「太陽は……」
少し考えてから、
「……見せておけ」
「もう……駄々をこねないでください」
「サーヤは意地悪だ……」
完全に拗ねた。無言。わかりやすいほどに無言。
海を見ているふりをしているが、完全に機嫌が悪い。
(……本当に子どもみたい)
だが、それが愛しい。
「ほら、機嫌直して」
頭を撫でる。頬にキスし、手を取る。
「……サーヤは意地悪だ」
口ではそう言いながらも、手は離さない。
+++++
「この先は上り坂になっていて、断崖絶壁の岬があるようですよ」
「…………」
「まだ、ふてくされているんですか?」
「…………」
いつもは落ち着いていて頼りになるのに、こういうところは子どもみたいだ。騎士団のみんながこのレオンの様子を見たら驚くだろう。
話しかけるのは諦めて、握った手に力を込める。
しばらく歩くと、断崖絶壁に出た。遮るものがなく風が強い。
「風が強いですね」
「ああ」
「岬の先まで行ってみますか?」
「ああ」
まだ少し不機嫌だ。
「まだ怒っているんですか?」
「……サーヤが悪い」
(可愛いな……)
たまらなくなって抱きしめた。ぎゅっと、強く。
一瞬、レオンの身体が止まる。
「……そういうことをするから、我慢できなくなる」
「だって」
顔を上げて、まっすぐに見る。
「大好きだなって思ったら、抱きしめたくなるんです」
ちゃんと言葉にした。
「本当に?」
「はい」
迷いなく。
「言葉にできないくらい、大好きです」
一瞬の空白。それから……。
「……それならいい」
機嫌が直った。単純すぎる。
「じゃあ、岬の先端に行くぞ」
(処方箋、簡単すぎる……)
思わず笑いそうになるが、同時に気づく。
(この人……)
言葉を欲しがっている。確認したがっている。
どれだけ想われているのかを。
(……不安なんだ)
胸が少しだけ痛んだ。




