第51話 海を知らぬ騎士と、島国から来た娘
魔法陣研究課に勤めて一週間が経った頃、沙弥とレオンは休暇を取り、海辺の町アズラークへ向かった。
早朝の王都はまだ眠っていた。石畳は夜露に濡れ、街灯の灯りが淡く反射している。
吐く息が白い。
「寒いな」
「でも、空気が澄んでいて気持ちいいです」
馬車に乗り込み、ゆっくりと動き出す。王都の門を抜ける頃には、空がわずかに白み始めていた。
長い旅路だ。途中で立ち寄る町はどこも小さく、見慣れた王都とは違う素朴さがあった。
干された洗濯物、軒先に並ぶ野菜、子どもたちの笑い声。
そして……視線。騎士の装いをしたレオンと、その隣に座る沙弥。
珍しさと警戒と好奇心が入り混じった視線が、どこへ行っても向けられた。
(もう慣れたと思っていたけど……)
完全に慣れたわけではない。それでも、隣にレオンがいるだけで少しだけ平気になる。
昼を過ぎ、陽が傾き始める頃には、空気にわずかな変化が混じり始めた。風が違う。
「……なんだ、この匂いは」
レオンが眉をひそめる。
「潮の匂いだと思います」
沙弥は少しだけ嬉しそうに答えた。
「海が近い証拠です」
その言葉に促されるように、レオンは視線を外へと投げた。
これまで触れたことのない未知の感覚。不快ではないが、どこかざらついた湿った空気。それが胸の奥に引っかかる。
夕食をとった町は、これまでよりもさらに海の気配が濃かった。料理も違う。
さっぱりとした魚介のマリネ、変わった食感の海藻サラダ、そして、ふっくらと焼き上げられた白身魚のグリル。どれも、素材そのものの味を活かした料理だった。
「……妙だな」
「何がですか?」
「味付けが薄いのに、物足りなくない」
「新鮮だからですよ」
沙弥は笑う。
「素材がいいと、余計なことをしなくても美味しいんです」
レオンはしばらく黙って食べていたが、小さく頷いた。
「……なるほどな」
納得したようだ。
夜になり、馬車はさらに進む。やがて完全な闇に包まれた。
王都とは違い、光の破片すら存在しない。御者台の魔導具の灯りだけが、頼りなく前を照らしている。
「暗いですね……」
「これが普通だ」
レオンは淡々と答えるが、視線は前方を見据えたままだ。
警戒している。それがかすかな緊張となって伝わってくる。
「怖いか?」
「少しだけ。でも……」
沙弥は小さく微笑む。
「レオンさんがいるから、大丈夫です」
レオンは何も言わなかった。ただ、わずかに肩の力が抜けた。
やがて、遠くに灯りが見えた。アズラークの宿「ラシェルナ」は、町の外れ、断崖の上にあった。
部屋に入った瞬間、空気が変わる。
開け放たれた窓。その向こうに広がっていたのは……闇。
ただの暗闇ではない。深淵なる闇だった。
「……これが、海か」
レオンが低く呟いた。
沙弥は頷く。
「はい」
バルコニーに出る。月はまだ出ていない。水平線は見えず、空と海との境界は深い闇に包まれている。
空にはこぼれ落ちそうなほどの星の群れ。その光が波の動きに合わせて細かく砕け、水面に銀色の淡い光を宿している。
時折、寄せては返す波頭が白い筋となってぼんやりと浮かび上がる。潮騒の音だけが暗闇の奥行きを伝えてくる。
「浜に行ってみますか?」
「……ああ」
浜へと続く階段を一歩ずつ降りてゆく。足元は不安定で、視界を奪う漆黒が境界を曖昧にしている。やがて、足裏に砂の感触が伝わってきた。
そして……耳を打つ音が迫ってくる。
地鳴りにも似た、「ゴウ……」という低い響き。押し寄せ、引いていく、その繰り返し。規則的なようでいて、時折不規則なうねりが混じる。
「……怖いですね」
沙弥がぽつりと言う。
「吸い込まれそうで」
レオンは応えなかった。ただ、射抜くような鋭い視線を海に向けていた。
ただ「見て」いるのではない。その身すべてで闇を「索敵」していた。
闇の向こうに何かが潜んでいる。圧倒的な異質の気配。それだけは確信できる。
だが、どれほど目を凝らしても、見えるのはひたすらに深い虚無だった。
「底なしの穴を覗いているみたいだ」
ようやく出た言葉は、それだった。
沙弥は何も言わなかった。その表現があまりにも的確だったから。
「この音は……波か?」
「はい」
「……獣だな」
レオンの声が低くなる。
「獣?」
「咆哮している」
沙弥は少しだけ目を見開いた。
「……確かに」
言われてみれば、そう聞こえる。
ただの自然音ではない。意思を持った何かのような……。
「ここに魔獣がいたら、違和感がない」
「……いそうですね」
二人は並んで立つ。手は繋いでいない。だが、距離は近い。
その距離だけが現実だった。
「……大きいな」
レオンが呟く。
「何がですか?」
「世界だ」
短い言葉だった。だが、重かった。
「……俺は、これを知らなかった」
「……」
「王都しか見ていなかった」
それは事実だった。規律に縛られ、剣を振るうことだけが世界のすべてだった。
外の世界を歩いていても、「見る」ことはしていなかった。網膜が捉えていたのは「任務」という名の記号のみ。
だが……。
「サーヤと一緒にいると、初めて見るものばかりだ」
「私も……レオンさんと来なかったら、こんな風に見ることはなかったと思います」
レオンは何も言わなかった。ただ、沙弥へと視線を滑らせる。
暗くて、よく見えない。それでも……そこにいる。それだけは、確かだった。
風が強くなり、砂がわずかに舞う。
「戻るか」
「はい」
重い砂を蹴って階段を上る。
振り返ると、海はまだそこにあった。変わらない、圧倒的なまま。
鋭い突風が不意に沙弥の肩を叩き、その身体を大きく揺らした。
(あ……)
よろめいた彼女がバランスを崩しそうになった、そのとき……。
隣を歩いていたレオンの大きな手が、風を遮るようにして差し出される。
冷え切った沙弥の指先が、レオンの硬い手の甲にかすかに触れた。
レオンはゆっくりと、沙弥の手のひらを包み込むようにして、その上に自分の手のひらを重ねた。
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部屋に戻り、バルコニーの浴槽に湯を張る。
湯気が立ち上り、冷えた身体がゆっくりとほどけていく。
「……静かですね」
「ああ」
だが、完全な静寂ではない。遠くに、まだ海がいる。
音が届いてくる。低く、一定に。
「さっきの海……」
沙弥が言う。
「昼間は、全然違うんですよ」
「そうなのか?」
「明るくて、綺麗で……優しい感じです」
レオンは少しだけ考える。
「同じものとは思えないな」
「思えないと思います」
寝る準備を整え、再びバルコニーに出た。今度は……光があった。月の光。
海の上に、細い光の道が伸びている。
それは、深淵の底へと続く誘いではなく、迷える者を導く銀の標のようだった。
「……綺麗ですね」
「ああ」
短く応じるレオンの声が穏やかに響く。
闇の本質……その底知れぬ深さは何ひとつ変わっていない。それなのに……。
ただ、光という形を与えられただけで、これほどまでに心は平穏を見出す。
「……さっきより、怖くないですね」
「見えるからだろう」
「はい」
見えないものは、怖い。
それは、海も、未来も。
(……同じだ)
沙弥は思う。この先のことは、見えない。だから怖い。
でも……今は、隣にいる。それだけで、いい。
「そろそろ寝ましょうか」
「ああ」
部屋に戻り、灯りを落としてベッドに入る。
波の音がかすかに聞こえる。規則的で、不規則な音。
心臓の鼓動のようでもあり、何か巨大なものの呼吸のようでもある。
「……明日は」
レオンが言う。
「島に行くか?」
「はい」
短い会話。それで十分だった。目を閉じる。波の音に溶けるように、意識が沈んでいく。
その夜、二人は……同じ音を聞きながら眠りについた。




