第39話 母の眼差し、不憫な恋
レオンに「母上」と呼ばれた女性が扇で口元を隠しながら近づいてきた。
「奇遇ね。こんなところであなたに会うなんて、神のお導きかしら」
急に現れた母親にレオンが警戒する。
「奇遇なはずがないでしょう。誰に聞いたんです?」
「あら、失礼ね。私は温泉に入りに来ただけですよ」
声音は柔らかいのに、まったく引かない。
レオンが小さく舌打ちした。
「見え透いたことを……」
「そういうところ、昔から可愛くないわね」
軽くいなしてから、視線が沙弥へと向く。
その瞬間……空気が変わった。
「紹介してくださらない?」
有無を言わせぬ問いに、レオンが諦めたように息をつく。
「……こちらはサーヤ。勇者の姉だ」
そして沙弥の方を向く
「サーヤ、母のレティシアと、アドリエンヌ・トラントゥール侯爵夫人だ」
「はじめまして。サヤ・マツバヤシと申します」
頭を下げる。
視線を上げた瞬間、レティシアと目が合った。
(……見られている)
値踏みではない。所作、視線、間の取り方……。
何かを確かめるような、静かで鋭い視線だった。
「レオンがお世話になっているわね」
「いえ、私のほうこそ」
(なんでここにレオンさんのお母様が?)
わけもわからないまま、挨拶はすませた。
公爵夫人は、レオンの母親だけあって華やかで美しい。大輪の薔薇のような人だ。
侯爵夫人も美しいが、控えめで優しげな雰囲気を纏っている。花に例えるなら白百合だろう。
「それじゃ、俺たちはこれで」
レオンが早々に切り上げようとする。
だが当然、許されない。
「あら、つれないわね。一緒にお食事でもいかが?」
「俺は護衛ですから、勝手に決められません」
「サーヤさん?」
矛先がこちらに向く。そっとレオンを見上げるが、表情がない。
「……レオン様にお任せします」
その答えに、レティシアの視線がわずかに和らいだ。
「そう。それじゃ、決まりね」
(決まってないんだけど……)
レオンのため息が背後で聞こえた。
後ろを歩きながら、「どうしてお母様が?」と小声で尋ねると、「俺たちがここに来ることを嗅ぎつけたんだろう」と言う。貴族夫人の情報網もCIA並みらしい。
息子をたぶらかした異世界の女を見に来たのだろうか。怖い……。
◇◇◇◇◇
席につくなり、レティシアはさりげなく言った。
「あなたたち、ずいぶん部屋にこもっていたのね」
「やっぱり見張らせていたんですね」
「あら、誤解よ?」
否定しているのに、否定に聞こえない。
「それで……何が目的です?」
「ずいぶん警戒するのね」
楽しんでいる。完全に。
「安心なさい。嫌味を言いに来たわけではないわ」
そして、はっきりと言った。
「むしろ感謝しているのよ」
「……は?」
レオンが眉を寄せる。
「あなた、今まで女性に興味がなかったでしょう?」
「ろくな相手がいなかっただけです」
「レティシア様、あの侯爵令嬢のような方に付きまとわれていたら、女性嫌いにもなるでしょう」
「ああ、あの侯爵令嬢ね。確かに……」
「あれは特別ひどいですけどね」
(アデリーナさんのこと?)
「サーヤさんも、あの令嬢にはひどい目にあったらしいわね」
「そうですよ。誘惑しただの魅了の魔術を使っただの……。俺のことを婚約者だと言い張るし」
「あら、図々しい」
「あの……その侯爵令嬢様はレオン様のお父様がご結婚に賛成しているとおっしゃっていましたけど……」
「そんなはずないわ。あの令嬢が嫁になるなんて、とんでもないもの」
「それだけはないから、安心してください」
(どこまでも思い込みなのか……。それにしても評判が悪すぎる)
いったいアデリーナは、この夫人たちの前で何をやらかしたのだろう。
「あなたには感謝しているの」
レティシアが沙弥にまっすぐな言葉を向ける。だが、その奥には別の意図があるように見える。
「この子が、ようやく『人間らしく』なったもの」
「血が通っていなかったみたいな言い方はやめてください」
「事実でしょう?」
(容赦ない……)
「サーヤさん、この国は気に入って?」
「はい。とても好きです」
「帰りたくなくなるほど?」
「……いえ、帰ります」
迷いなく答えた。
「サーヤさんがお国に帰ってしまったら、レオン、あなた、どうするの?」
「そのことは言わないでください。……今は、考えたくありません」
「そうなの?」
レティシアの目が、わずかに細くなる。
「逃げているのではなく?」
「……そうかもしれません。それでも、……今、一緒にいられるときを大切にしたいんです」
「……そう、サーヤさんも?」
「同じです」
「そう」
それ以上は踏み込まなかった。
食事は穏やかに進んだ。だが、水面下ではずっと緊張が続いている。
レオンは終始、わずかに沙弥の側へ身体を寄せていた。
無意識なのか、意識的なのかはわからない。でも……。
(守ってくれている)
それがわかるだけで、少し安心する。
◇◇◇◇◇
食事を終え、レティシアたちは先に席を立った。
「あの子、サーヤさんと土産物を選んでいるときはあんなに楽しそうだったのに、私たちの前では相変わらず仏頂面だったわね」
「それは、レティシア様が急に現れて驚いたのでは?」
「まあ、それもあるでしょうね。見張られていたと思ったようですし」
実際、見張らせていたのだが。
「どう思われました?」
アドリエンヌが静かに問う。
「……いい子ね」
ぽつりと、レティシアは言った。
「飾らないのに無作法ではない。物怖じもしない」
それは、本音だった。
「でも」
視線が遠くを見つめる。
「この国には残らない」
「はい」
「それが問題ね」
小さく息を吐く。
「あの子、初めてなのよ」
声が少しだけ和らぐ。
「本気で誰かを好きになったの」
「……ええ」
「それなのに、最初から終わりが決まっているなんて」
苦笑する。
「あの子が不憫だわ……」
そう、母としては、面白くない。
◇◇◇◇◇
「すまなかったな」
「大丈夫ですよ。驚きはしましたけど」
少し笑う。
「素敵なお母様ですね」
「どこがだ?」
「とてもお綺麗ですし、レオンさんのことを本当に心配していました」
「あれでも母親だからな」
ポツリと言う。
「だからと言って、こんなところまで来るとは」
「すごい行動力ですね」
「ああ、そこは感心するよ」
それくらいでないと、上級貴族の夫人は務まらないのかもしれない。
二人はレストランを出ると再び土産物屋を覗き、宿へと戻った。
◇◇◇◇◇
翌朝……。
二人は最後の温泉に浸かっていた。もう何度目かわからない。
「本当に、いいところでしたね」
「ああ」
短い返事だが、その中に名残がある。
「また来たいですね」
「……そうだな」
ほんのわずかな沈黙。どちらも、その先を言わない。
言えば、壊れそうだから。
「行くか」
「はい」
湯から上がる。温もりが少しずつ離れていく。
その感覚が妙に現実的だった。
◇◇◇◇◇
ヴルカリスを後にし、馬車は王都へと向かう。
窓の外に広がる景色がゆっくりと流れていく。そのすべてが、どこか遠く感じられた。
……楽しい時間は終わる。その事実だけが静かに胸に残っていた。




