第38話 湯けむりの中、隠した切なさ
翌日……。
朝食のあと、二人は再び川へと下りた。
白い湯気の向こうで、川はかすかに流れている。
沙弥は、迷うことなくレオンの腕の中に収まる。背中に触れる体温が当たり前のものになっている。
「今日は、ずいぶん素直だな」
「だって……」
少しだけ顔を上げる。
「レオンさんが、大好きですから」
ためらいなく言うと、レオンがわずかに目を細めた。
「そういうことを、さらっと言うな」
「だめですか?」
「いや……困る」
言いながらも、腕の力は緩まない。むしろ、わずかに強くなる。
そのまま頬を寄せる。触れているだけで落ち着く。それが少し怖いと思うくらいに。
ふと、思い立って軽く口づけ、その横顔を見た。
午前の陽を受けたレオンの瞳が、金の粒子を散らすように明るく輝いている。
まぶしさに目を伏せた横顔は、光に磨かれた彫刻のように美しい。
「……今日は本当に、どうした」
「今日は一日、のんびりするって決めたんです」
(……何も考えなくていいように)
それ以上は言わない。言ってしまえば、きっと軽くなる。
この時間がどれだけ大切なのか、自分だけがわかっていればいい。
レオンの肩がわずかに揺れる。
「……サーヤ」
「はい?」
呼ばれて顔を上げる。その視線が少しだけ真剣で、思わず息を止めた。
「……いや」
何かを言いかけて、飲み込む。
代わりに額が触れた。それだけで十分だった。
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御影石の浴槽で、温泉に浸かりながら昼食を楽しんだ。
「こんな贅沢、いいんでしょうか?」
「いいだろ。サーヤは働きすぎだ」
「レオンさんもですよ」
「俺は……どうだろうな」
少しだけ考えるような間。
「サーヤといる時間は、仕事の気がしない」
「それ、護衛として大丈夫ですか?」
「問題ない」
迷いのない答えに思わず笑ってしまう。
湯に肩まで浸かりながら、ぼんやりと天井を見上げる。
「もし……」
ふと、言葉がこぼれた。
「恋仲じゃなかったら、どうなっていたと思います?」
レオンは少しだけ考える。
「もっと距離はあっただろうな」
「ですよね」
静かに頷く。
「……後悔はしていないか?」
その問いは、思っていたよりもまっすぐだった。
だからこそ、迷わず答える。
「微塵も」
レオンのほうを見る。
「今、とても幸せですから」
その言葉に、ほんのわずかに安堵が滲んだ。
「それならいい」
短い言葉。でも、それで十分だった。
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昼下がり……。
隣で眠るレオンを、沙弥は静かに見つめていた。
(こんなにゆっくり寝顔を見るのは初めてかも)
規則正しい呼吸。わずかに上下する胸。
閉じられた瞼の下に落ちる長いまつ毛。
いつもはきゅっと結ばれている唇が、今はわずかに弛緩している。
その唇に触れてみたいが、起こしてしまいそうなのでやめておく。
(本当に、綺麗な人だ……)
だが、レオンを好きになったのはそれが理由ではない。
最初は無愛想で冷たい人だと思った。でも違った。不器用なだけで、まっすぐで、優しくて。
気づけば、当たり前のように隣にいた。
そして今は、どこまでもまっすぐに愛情を向けてくれる。
(この人が、好き)
その気持ちは、もう「好き」という言葉では足りない。
大切で、大切で……。だからこそ、ふと胸の奥が冷たくなる。
(いつか、終わる)
そう思うたびに、胸の奥が冷たく、引きちぎられるような寂しさに支配されていく。
つないだ手の温もり。胸に抱かれたときに感じる鼓動。
時折見せる独占欲や、少し拗ねたようなヤキモチ。
そんな可愛い仕草さえ、手の届かない記憶の底に沈んでゆくのだろう。
今はただ、ひどく切なくて、レオンに触れていたい。彼を確かに感じていたかった。
気づけば、唇に触れていた。
「ん?」
やっぱり起こしてしまった。
「起こしちゃってごめんなさい。寝顔を見ていたら、我慢できなくなっちゃって」
「いや……ちょうどよかった」
目を細めて、こちらを見る。
「起きているときにもしてくれ」
「……はい」
もう一度、軽く触れる。それだけで胸の奥の不安が少しだけ和らぐ。
完全には消えないけれど、今はそれでいい。
夕方近くまで、二人は温泉と部屋を行き来して過ごした。
「さすがに、ふやけましたね。指先がシワシワ」
「出し殻になったかもな」
「ひどい」
「ははは」
「そろそろ街に出るか」
「はい。お土産も見たいです」
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ヴルカリスの街は、まさしく温泉街だった。
もちろん、浴衣で歩いている人はいないし、温泉まんじゅうも売っていない。硫黄の匂いもしない。
だが、石畳の通りには土産物屋や小さな店が並び、ほのかに湯けむりが立ち上っている。
どこからともなく、ハーブの香りが漂ってくる。
「ダニエラさんにはハーブティーがいいかな? スキンケア用品のほうがいいと思います?」
「なんでもいいだろう」
「そう、投げやりにならないで、少しは考えてください」
「それなら、この美肌効果って書いてあるハーブティーがいいんじゃないか?」
「そうですね。じゃ、これにします」
次に視線を巡らせる。
「またヘンリクにも買うのか?」
「今回はやめておきます」
「……そうか」
わかりやすく、機嫌がよくなる。
「あとは賢斗とオーブリーさんですよね……。男の人向けのものって少ないですね」
「この入浴剤でよくないか?」
「でも、二人ともシャワー派な気がします」
「確かにそうだな」
あれこれ話しながら土産物を選ぶ。
……そのとき。
「レオン」
背後からかけられた声に、レオンの足が止まった。
振り向いたその先にいたのは、護衛を従えた二人の貴族女性。
そして……
「母上!」




