第37話 ふたりだけの景色、秘密の小径
翌朝……。
テラスに出た瞬間、思わず足を止めた。エルダルラウグ川が、白い霧に包まれている。冷えた朝の空気に触れた源泉がゆらゆらと湯気を立ちのぼらせ、川そのものが呼吸しているようだった。
……まるで、生きているみたいに。
「湖の霧も神秘的でしたけど、川霧も素敵ですね」
「ああ、幻想的だ」
隣に立つレオンの気配が、やけに近く感じた。
◇◇◇◇◇
朝食会場には、焼き立てのパンと色とりどりのジャム、果汁の濃いジュースが並んでいた。
沙弥はパンをいくつか選び、オムレツを頼む。
「今日は歩くんだ。しっかり食べておけ」
「はい。食べられそうならお代わりします」
言ったそばから、本当にお代わりしてしまった。
「珍しいな」
「だって、おいしいんですもん」
部屋に戻ると、テラスのソファーに腰を下ろす。自然とレオンの隣に寄り、気づけばその胸にもたれていた。それが当たり前になっていることに、今さらながら気づく。
「霧が晴れてきましたね」
「ああ、今日もいい天気だな」
ゆっくりと霧がほどけていき、川の輪郭が現れていく。
「いい季節ですね」
「そうだな」
短い返事のあと、ふと肩にかかる手の重みが増した。それだけで、少しだけ落ち着く自分がいる。
◇◇◇◇◇
宿で用意してもらったランチを手に、二人は渓谷へ向かった。
街を少し離れただけで空気が変わる。
天を突くような古木の下、かすかな湿り気を帯びた土の香りが鼻腔をくすぐった。足元の腐葉土は柔らかく、踏みしめるたびにわずかに沈む。木々の隙間から見える川は、深いエメラルドグリーンに輝いて見える。
キツツキの乾いた音と、渓流のせせらぎ、自分の呼吸さえ、この静けさに溶けていくようだった。
「気持ちいいですね」
「ああ」
歩くごとに体温が上がり、ひんやりした風が頬を撫でる。
「……あ、レオンさん」
ふと足を止める。
「ここ、けもの道がありますよ」
「この先に何かあるのか?」
「わからないけど……行ってみませんか?」
少し迷ったあと、レオンは頷いた。
「行こう。離れるなよ」
「はい」
枝を払い、シダをかき分けて進む。整備された道とは違う、不確かな足場。
だが、その分だけ、踏み入れてはいけない場所に入っていくような高揚があった。……戻れなくなるような気がして。
やがて、視界が開ける。
「……わあ」
そこにあったのは、小さな滝だった。
岩肌を白い糸のように水が伝い落ち、苔むした岩に反射する光が小さな虹をいくつも作っている。
「貸し切りですね!」
「サーヤが見つけたんだ」
「偶然ですよ」
「いや、こういうのは運じゃない」
そう言って、軽く頭を撫でられる。それだけで少し嬉しくなる。
さらに少し登った先にある、見晴らしの良い岩棚でランチを広げた。
特製のバスケットには、厚切りのハムとチーズを挟んだサンドイッチ、シトラスジュース、そして色鮮やかなフルーツが入っていた。
「綺麗な景色を見ながらのランチって、とても贅沢ですね」
「ああ。どんな高級店よりいい」
「レオンさんと一緒だから、ですよ」
「……そうか」
それ以上は何も言わない。でも、ほんの少しだけ表情が和らいだ気がした。
ランチを終え、けもの道を戻ると、二人はさらなる高みを目指した。ついに辿り着いた山頂。そこには言葉を飲み込むほどに雄大なパノラマが広がっていた。その絶景を、こぼさぬよう瞼の裏に焼き付ける。
心地よい疲労を連れて、ひっそりと佇む茶屋に入る。
古い木の扉を押すと、カウベルが「カラン」と素朴な音を立てた。
薪ストーブの温もりが冷えた身体に心地いい。二人はエールとつまみを頼んだ。
「昼からお酒なんて……」
「これくらいなら問題ない」
「私、すぐ赤くなりますよ」
「知ってる。赤くなったサーヤは可愛いからな」
「それ、褒めてないですよね」
「褒めてるぞ」
結局、半分も飲めずにグラスを差し出すと、レオンは当然のように受け取った。
茶屋の主人が古い地図を指さす。
「この店の裏から続く細い道があるんだ。ちょっと荒れていて歩きにくいが、騎士様たちなら大丈夫だろう。あそこからの景色は格別だよ」
「行ってみるか?」
「もちろん!」
茶屋の主人が続ける。
「ただ、日が落ちると迷う人もいる。気をつけなさい」
その道は、まるで別世界だった。
大樹が頭上を覆い、木漏れ日がゆらゆらとシダの葉を照らしている。道端には野生のハーブが群生し、踏みしめるたびに清涼感のある香りが立ち上る。
「ハーブのいい香りがしますね」
「ああ、これは傷に効くハーブだな。治癒魔法を使えない者はよく使うらしい。あそこに生えているのは腹痛に効く薬草だ」
「レオンさん、薬草やハーブにも詳しいんですね」
風の音さえも遠のき、自分たちの足音と、パキッという小枝の折れる音だけが響く。
(こういう場所を、一緒に歩いている)
それが、少しだけ特別に思えた。
しばらく進むと、突如として視界が開けた。
「……すごい」
思わず息を呑んだ。言葉が出てこない。
エルダルラウグ川が大きく弧を描き、白銀に輝いている。対岸には畑がパッチワークのように広がり、遠くの街が小さくきらめいていた。
「この世のものとは思えないな」
レオンの言葉に、ゆっくり頷く。
「でも……」
「なんだ?」
「一人で見てたら、ここまでじゃなかった気がします」
少しだけ、視線を向ける。
「レオンさんとだから、こんなに綺麗に見えるのかも」
時が止まったような沈黙が流れ、やがて肩に温もりが触れる。
「冷えるな」
「少しだけ」
「無理するな」
抗えない力に引かれるようにして、その温もりに身を委ねた。
風は少し冷たいはずなのに、不思議と寒くない。
沈みゆく夕日がすべてを柔らかく染めていく。
この時間が、ずっと続けばいい。
……そう思ってしまうこと自体が少し怖かった。
「そろそろ行くか」
「……はい」
今の季節は日暮れが早い。名残惜しいが、二人は絶景に別れを告げた。
やがてたどり着いたのは、宿の石壁だった。蔦に隠れた小さな扉を開けると、そこは手入れされた庭園へとつながっていた。
「こんなところに繋がってたんですね」
「面白いな」
ランタンの灯りが、芝生を柔らかく照らしている。
自然の匂いから、花の香りへ。その変化が、どこか現実に引き戻す。
つないだ手の指先に残る温もりが、やけに鮮明だった。
「今日はよく歩いたな。脚は痛くないか?」
「少しだるいです。レオンさんは?」
「騎士がこれくらいで疲れるものか」
「ですよね~」
「明日は休むか?」
「いいですね。温泉、たくさん入りたいです」
「ふやけるぞ」
「それでもいいです」
小さく笑い合う。
部屋へ戻る道は、思ったよりも短かった。けれど……
今日見た景色よりも、隣にいる温もりのほうが、なぜか強く心に残っていた。
……失くしたくないと思うほどに。
明日の予定が決まった頃、二人は自分たちの部屋に着いた。
次回の更新は6/13(土)ごろになります。
すみません……。




