第36話 湯けむりの夜、川辺の月
馬車が止まったのは、エルダルラウグ川沿いに建つ白亜の宿……カリエンティラ。
夕日に照らされた壁面は、雪のような白を保ったまま、柔らかな橙に染まっている。
(本当に、お城みたい……)
思わず見上げると、レオンが肩越しに視線を送ってきた。
「気に入ったか?」
「はい、とても」
案内されたのは、川に面した広いテラス付きのスイートルーム。高い天井にシャンデリア、落ち着いた調度、貴族の隠れ家のようだ。確かに豪華だが、どこか静かな空気が漂っている。
「これまたすごい部屋ですね」
「少し貴族趣味だな。俺はレルナのほうが落ち着く」
「ご実家みたいな感じですか?」
「そうだな。代わり映えがしない」
(贅沢な感想……)
バスルームには源泉が引かれ、御影石の湯船に透明な湯がこんこんと注がれている。
さらにテラスからは川へ直接下りられる造りになっており、川そのものが温泉だという。隣室との間には目隠しがあり、プライベートは保たれている。
「レオンさん、これ……」
クローゼットの中から布を取り出す。
「パレオです。これがあれば一緒に入れます!」
「俺はなくてもいいが」
「男性は腰から下だけ巻けばいいと思いますよ」
「それも要らんな」
「…………それではお好きなように」
(本当に、この人は……)
羞恥心の基準が違いすぎる。貴族だからか? 騎士だから?
(ダビデ像か何かだと思うことにしよう)
そう結論づけて、深く考えるのはやめた。
◇◇◇◇◇
夕食を部屋で済ませたあと、湯に浸かる準備をしてテラスに出る。
ひやりとした空気に、思わず肩をすくめた。
「少し寒いですね」
「問題ない」
レオンが一歩前に出る。
「寒い思いはさせない」
そう言った声は、いつもより少しだけ低かった。
空間に手をかざす。……次の瞬間、空気が変わる。風の冷たさがすっと消えた。
「……すごい」
思わず声が漏れる。
「結界だ」
(賢斗が言っていた、魔の山でも寒くないやつだ!)
「レオンさん、これもできるんですね」
「ああ」
「本当に何でもできるんですね」
「見直したか?」
得意げな顔になる。わかりやすい。
「見直すも何も、最初からすごいと思ってますよ」
「そうか?」
嬉しそうな顔が可愛い。
石段を下り、川へ足を踏み入れた。ぬるめの湯が、足元からゆっくりと身体を包み込んでいく。とろりとした温もりが馬車旅の疲れを解きほぐしてくれる。
「気持ちいい……」
思わず息が漏れる。川の中に設えられた椅子に座るが、少し低い。
「ぷはっ!」
顎まで沈んでしまい、慌てて顔を上げた。
「ははは。サーヤには低いな。こっちに来い」
差し出された手に導かれ、気づけば……レオンの膝の上に座らされていた。
「ちょっと……」
「落ちるだろ」
当たり前のように言われる。背中に感じるのは、しっかりとした体温と、安定した鼓動。
川はせき止めてあるが、わずかに流れを感じる。確かに一人だと少し不安定だ。
でも……
「溺れそうです」
「この川でか?」
「…………レオンさんに」
一瞬だけ、腕の力が強くなる。
「ほう」
低く笑う気配。
「珍しく可愛いことを言う」
「離してくれないから」
「離す理由がないな」
あっさりと言われて、言葉に詰まる。
(強い……)
腕に軽く力がこもる。逃がさないと言わんばかりに。そのまま、指先が軽く触れる。
「ちょっと、くすぐったいです」
「そうか」
まったく止まる気配がない。沙弥はそっとその手を掴み……顔を寄せる。耳元で、ふっと息を吹きかけた。ぴくり、とレオンの肩が震える。
……ほんの一瞬、呼吸が止まった気がした。
「サーヤは意地が悪いな」
「お互い様です」
くすりと笑う。ふと、視線を上げると……
「レオンさん、月が綺麗ですよ」
夜空には、ほぼ満ちた月が浮かんでいた。川面に映る光が、ゆらゆらと揺れている。
(……こんな夜が、終わらなければいいのに)
「俺も、そう言おうと思ってた」
「ほんとですか?」
「ほんとは……サーヤを見てた」
迷いのない声だった。思わず、目を瞬く。
「正直ですね」
「そうか」
「そういうところ、好きですよ」
一瞬だけ、沈黙。それから、腕の力がわずかに強くなる。
しばらく、何も言わずにそのまま過ごした。水の流れる音と、かすかな風の気配。それだけで十分だった。
「気持ちいいが、そろそろ出ないとふやけるな」
「そうですね」
名残惜しさを感じながら、ゆっくりと立ち上がる。
◇◇◇◇◇
部屋へ戻ると、ふわりと温かさに包まれる。だが……胸の奥には、まだ別の熱が残っていた。湯のせいだけではない。たぶん……それだけではない。
……この時間が、いつか終わることを、どこかで知っているから。沙弥は、そっと目を逸らした。




