第35話 光と影のトンネル、秋色の旅路
早朝……。
二人は馬車でヴルカリスへと旅立った。やや遠方であることに加え、せっかくなのでゆっくり過ごそうということで、三泊する予定だ。本当に、遊んでばっかりだな……と思う。
……でも、その時間がいつまで続くのかはわからない。
馬車を南へ走らせる。ここは大きな街道で、レルナへ向かう道よりも街と街の間がいくぶん近い。
それでも、その隙間を埋めるように、田園の景色がゆったりと続いていた。
「ルーキスは人口のわりに田園が多いですよね。食糧が余りませんか?」
「余った分は輸出しているな。北方の国は作物があまり穫れないから」
「食糧自給率が高いのはいいですね。外国からはどんなものを輸入しているんですか?」
「鉱石とかかな」
「それじゃ、やっぱり宝石は高価なのでは?」
「そうでもない。サーヤは気にしすぎだぞ」
「だって、庶民ですから……」
やはり貴族の感覚にはついていけない。
「戦争とかは起きないんですか?」
「ここ三百年は起きてないな」
「平和でいいですね」
「サーヤの世界はどうなんだ?」
「日本が戦争をしていたのは、もう八十年も前のことですけど、今でも世界のどこかでは紛争や戦争が起きてますよ。国が二百ほどもあるので、どうしてもどこかで火種が残ってしまうんだと思います」
「国がそんなにあると世界は複雑そうだな」
「そのとおりです」
大きな街道が終わり、並木道に入った。天に向かってまっすぐに伸びる円錐形の針葉樹だ。メタセコイアに似ている。
「これは何ていう木ですか?」
「メタセコイアだな」
「やっぱり! 日本にもあります。美しい木ですよね」
メタセコイアの葉は、鮮やかなレンガ色や深いオレンジ色、そして黄金色に染まり、光を受けて柔らかく輝いている。
馬車の行く先には、この光と影のトンネルが、どこまでも、どこまでも続いているように見えた。
耳に届くのは、心地よいリズムを刻む蹄の音。風がメタセコイアの細い葉を揺らすサワサワというかすかな音。そして、馬車の車輪がきしむ音。
それ以外は、ただ静寂が広がっている。
澄んだ空気が馬車の窓から心地よく流れ込んでくる。その空気には、少し冷やりとした湿り気と、土の匂いが混じっている。
馬車が小さなくぼみを乗り越えるたび、二人は緩やかに揺られる。その心地よい揺れと、並木道の美しい景色に、いつしか深い安らぎに包まれていくのを感じた。
並木道沿いにある小さな村で昼食をとることにした。
馬車を降りた二人は、色褪せたレンガの壁に赤く色づいた蔦が絡まる、一軒の小さな食事処に入る。
扉を押すと、古びた鈴がちりんと鳴った。
昼時の店内は村人でほどよく賑わっていたが、その音に何人かが顔を上げる。
そして赤いマントの騎士が入ってきたのを見ると、会話がほんの一瞬だけ途切れた。
次の瞬間にはまた笑い声や皿の音が戻る。だが客たちの視線は、ちらちらと二人へ向けられている。
カウンターの奥で鍋をかき回していた店主が顔を上げた。
「いらっしゃい」
それからレオンの姿を見て、少しだけ目を丸くした。
「……騎士様とは珍しい。こんな田舎までどうされました」
「この人の護衛だ。食事を二人分頼めるか」
店主はすぐに頷いた。
「うちは田舎料理しか出せませんが、よろしいですか?」
「ああ、構わない」
そのやり取りを、窓際の卓にいた客たちが横目で見ていた。
「おい……見たか。騎士だぞ」
「見りゃわかる。こんな村に何の用だ」
もう一人の男が顎をしゃくった。
「隣の娘の護衛だとよ」
「平民の娘には見えないが、貴族ともちょっと違う感じだな」
「それにしても、二人ともすごい美形だな」
店主が窓際の席を指した。先客たちの隣の卓だ。
「それでは。あちらへどうぞ」
案内された席の窓の外には、先ほど通り抜けてきたレンガ色のメタセコイア並木が、絵画のように切り取られて見えている。
ほどなくして、店主が料理を運んできた。
「地元の農家が今朝収穫したばかりの根菜と塩漬けにしたアペルネの煮物ですよ」
「ああ、美味そうだ」
店主が好奇心を抑えられずに質問をする。
「失礼ですが、お嬢様は、お貴族様ですか?」
「いや、今、勇者が魔獣王の討伐に行っているのを知っているか?」
「もちろんですとも」
「この人は勇者の姉だ」
「それはそれは、こんな田舎町へようこそ」
聞き耳を立てていた客たちがざわめく。
「聞いたか、勇者の姉がこんな田舎に来るなんてな」
「そういえば、こないだ王都に行ったやつから聞いたぞ」
「何をだ?」
噂を聞いたという客がおそるおそるレオンに話しかける。
「失礼かもしれませんが……騎士様はレオン様ですか?」
「そうだが、王都で噂でも聞いたか?」
「はい……」
「レオンさん、どこまで有名なんですか?」
沙弥が笑いをこらえながら言う。
「俺じゃなくてサーヤだろ!?」
レオンが不満げに答える。
「なんだよ、噂って」
「王都じゃ有名らしいぞ」
「何がだ」
「『勇者の姉を連れ歩く、やたら過保護な騎士』」
「……それが、あの騎士?」
「おそらく」
客たちがひそひそ話している。二人はまた話のタネを提供してしまったようだ。
席を立つとき、レオンがさりげなく沙弥の肩に手を置いた。
「離れるなよ」
「そんなに警戒しなくても……」
「見られてるときほど、そばにいろ」
温かい食事でお腹も心も満たされた二人は、再び馬車へと乗り込む。午後の光はさらに深みを増し、涼やかな風が二人の頬を撫でていく。
「……過保護、だそうですよ」
「悪いか?」
「いえ……」
二時間ほど経った頃、馬車はゆるやかな丘を下り、オレンジ色の屋根瓦が美しい街へと辿り着いた。そこは先ほどの静かな村とは少し趣が異なり、どこか開放的で、テラコッタの壁が温かく光を反射している。
街の小さな広場に面したカフェのテラスで、鉄細工の華奢な椅子に腰を下ろし、ティータイムを楽しんだ。
運ばれてきたのは、摘みたてハーブをたっぷり使った温かなハーブティー。
カップから立ち上る湯気が澄んだ空気に白く溶けていく。添えられたのは、ハチミツをたっぷりかけた素朴な焼き菓子。ハチミツはこの街の名物だそうだ
「南へ来ると、空気の匂いが少し変わりますね」
「ああ、さっきまでは森と土の匂いだったが、ここは乾いた香りがするな」
「ハーブが自生しているんでしょうか。馬車の中にいても爽やかな香りがしていました」
「そのようだな」
「こういうところ、好きです」
「そうか」
「はい。レオンさんと来るなら、なおさら」
レオンは一瞬だけ視線を逸らした。
カップの中で揺れるお茶の表面には、移ろいゆく空の色が映り込んでいた。
南の街の喧騒を離れ、馬車がさらに二時間ほど進むと、ヴルカリスに到着した。
山あいの町から、白い湯気がゆらりと立ちのぼっている。
(ああ、温泉だ)
胸の奥が、少しだけ弾んだ。隣にいるレオンの気配が、いつもより近く感じられた。




