第31話 旅路の果て、寄り添う鼓動
旅の終わりを告げる朝が来た。
雲ひとつない空は澄みきり、湖畔の空気は冷たい。それでも、陽射しだけは柔らかく降りてくる。
まだ人の少ない早朝、二人は馬に乗ってリゼリア湖へ向かった。
レオンの前に跨ると、背中に彼の体温が伝わってくる。馬の歩調に合わせて体が揺れるたび、腕が自然に回り、包み込まれるような安定感に満たされる。耳元では、静かな呼吸が規則正しく続いていた。
魔の山以来の二人乗り。あのときと距離は同じなのに、今はまるで違う。背中に感じる体温も、腕の重さも、もう、それが当たり前になっていた。
道の両側には、紅葉した木々が朝の光を受けて燃えるように色づいている。
蹄が落ち葉を踏むたび、乾いた柔らかな音が響く。木々の隙間からこぼれる光が、馬のたてがみや沙弥の髪に淡い模様を落としていた。
少しでも、この時間が長く続けばいい。そう思うほどに、朝は静かに進んでいく。
やがて森の匂いに水の気配が混じり、視界がひらけた。
リゼリア湖は思っていたよりも小さかった。けれど水面は静まり返り、紅葉した森をそのまま映している。音もなく、もうひとつの世界が沈んでいた。
レオンが馬を止める。
風が湖面をかすめると、映っていた景色が揺れ、また何事もなかったかのように戻る。落ち葉が一枚、水に触れて小さな波紋を広げた。
「……綺麗ですね」
「ああ」
短い返事。それ以上の言葉は要らなかった。
「レオンさんと見た景色、忘れません……きっと、ずっと」
後ろから抱きしめられる。強くも弱くもない、ただ確かめるような力だった。
朝の光が湖を照らす。馬の吐息が白くほどけ、静かな空気に溶けていく。
沙弥は前を見たまま動かなかった。レオンも、手綱を握ったまま何も言わない。言葉にすれば崩れてしまいそうだった。
しばらくして光が少しだけ高くなる。湖の色がほんのわずかに明るく変わった。
「……そろそろ、帰りますか?」
ぽつりと落とした言葉にレオンが小さく頷く。
「そうだな」
手綱を引くと、馬がゆっくりと歩き出す。湖は背中の向こうへ遠ざかっていく。
沙弥は振り返らなかった。振り返れば、もっと名残惜しくなる気がしたからだ。
その代わり、目の前の道を見つめる。紅葉の中を抜ける細い道。斜めに差し込む光が落ち葉の上に淡い影を落としている。
後ろでレオンがわずかに姿勢を直す。その動きに合わせて二人の体が同じリズムで揺れた。
「静かだったな」
「そうですね」
それだけの会話。
(このまま、終わらなければいいのに)
言葉にはならない想いが、胸の奥に沈む。
頬を撫でる風に、かすかに混じるレオンの香り。かつては「タイプではない」と思っていたはずの男。無愛想で、ぶっきらぼうで、扱いづらい騎士。それなのに今は、そのすべてが愛おしい。
木漏れ日が視界にやさしく降り注ぐ。背後のどこかに、紅葉に染まった小さなリゼリア湖が残っている。
もう二度と同じ形では辿れない道を、馬はゆっくりと進んでいく。
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宿に戻り、遅めの朝食を済ませると、静かに帰り支度を始めた。
「なんだか、元気がないな」
「……旅の終わりって、いつもこうなんです」
手を止めたまま、少しだけ笑う。
「帰りたくないなって。子どもの頃は、よく泣いていました」
「そうか……」
「楽しいほど、寂しくなるんです」
ふっと息を吐く。
「本当に、素敵な三日間でした」
「帰りたくないなら」
レオンの声が少しだけ低くなる。
「このまま二人で、どこか遠くへ行くか……全部、捨てて」
冗談のようで、冗談ではない響き。
「……そうできたら、いいですね」
沙弥は微笑む。叶わないと、わかっているからこそ。
「レオンさん」
「なんだ?」
言葉の代わりに腕を差し出す。レオンがそれを受け止める。そのまま自然に抱き寄せられる。
胸に耳を当てると、規則正しい鼓動が伝わってくる。自分のものと重なるような、安心する音。
(ここが一番落ち着く。だから、離れるのが怖い)
いつの間にか、そう思うようになっていた。
(……でも)
いつか、この腕から離れる日がくる。そのときを思えば、今の寂しさはまだ優しい。
「……もう大丈夫です」
そっと離れる。
「元気、出ました」
「……そうか。それじゃ、行こうか」
頷き、二人は部屋に背を向けた。もう戻ることのない場所を、振り返ることなく。
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「土産は買うか?」
馬車に乗り込むと、レオンが尋ねる。
「買いたいです」
短く答えると御者に指示が飛んだ。
店はすぐ近くにあった。並んだ雑貨や食品は、日本の土産物屋とどこか似ている。
賢斗とオーブリーにはもみじ模様のポーチと地酒。ダニエラとヘンリクには菓子。そして……
「おそろいですよ」
もみじ型のキーホルダーと色違いのマグカップをレオンに渡すと、わずかに表情が緩む。その顔を見るのが好きだった。
馬車は、来たときと同じ道を引き返す。だが、流れる景色はどこか違って見えた。
会話は少ない。それでも、不思議と沈黙は苦しくない。ただ、少しだけ……名残惜しい。
王都に着く頃には、すっかり日が落ちていた。
そのまま、三日間が閉じ込められたように。




