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ルーキスの太陽 ~異世界の境界線、その手を離さない~  作者: 如月菫
第一部 終わると知りつつ、恋をした
32/50

第31話 旅路の果て、寄り添う鼓動

 旅の終わりを告げる朝が来た。

 雲ひとつない空は澄みきり、湖畔の空気は冷たい。それでも、陽射しだけは柔らかく降りてくる。


 まだ人の少ない早朝、二人は馬に乗ってリゼリア湖へ向かった。


 レオンの前に跨ると、背中に彼の体温が伝わってくる。馬の歩調に合わせて体が揺れるたび、腕が自然に回り、包み込まれるような安定感に満たされる。耳元では、静かな呼吸が規則正しく続いていた。


 魔の山以来の二人乗り。あのときと距離は同じなのに、今はまるで違う。背中に感じる体温も、腕の重さも、もう、それが当たり前になっていた。


 道の両側には、紅葉した木々が朝の光を受けて燃えるように色づいている。

 蹄が落ち葉を踏むたび、乾いた柔らかな音が響く。木々の隙間からこぼれる光が、馬のたてがみや沙弥の髪に淡い模様を落としていた。

 少しでも、この時間が長く続けばいい。そう思うほどに、朝は静かに進んでいく。


 やがて森の匂いに水の気配が混じり、視界がひらけた。

 リゼリア湖は思っていたよりも小さかった。けれど水面は静まり返り、紅葉した森をそのまま映している。音もなく、もうひとつの世界が沈んでいた。


 レオンが馬を止める。


 風が湖面をかすめると、映っていた景色が揺れ、また何事もなかったかのように戻る。落ち葉が一枚、水に触れて小さな波紋を広げた。


「……綺麗ですね」

「ああ」


 短い返事。それ以上の言葉は要らなかった。


「レオンさんと見た景色、忘れません……きっと、ずっと」


 後ろから抱きしめられる。強くも弱くもない、ただ確かめるような力だった。


 朝の光が湖を照らす。馬の吐息が白くほどけ、静かな空気に溶けていく。

 沙弥は前を見たまま動かなかった。レオンも、手綱を握ったまま何も言わない。言葉にすれば崩れてしまいそうだった。


 しばらくして光が少しだけ高くなる。湖の色がほんのわずかに明るく変わった。


「……そろそろ、帰りますか?」


 ぽつりと落とした言葉にレオンが小さく頷く。


「そうだな」


 手綱を引くと、馬がゆっくりと歩き出す。湖は背中の向こうへ遠ざかっていく。

 沙弥は振り返らなかった。振り返れば、もっと名残惜しくなる気がしたからだ。

 その代わり、目の前の道を見つめる。紅葉の中を抜ける細い道。斜めに差し込む光が落ち葉の上に淡い影を落としている。

 後ろでレオンがわずかに姿勢を直す。その動きに合わせて二人の体が同じリズムで揺れた。


「静かだったな」

「そうですね」


 それだけの会話。


(このまま、終わらなければいいのに)


 言葉にはならない想いが、胸の奥に沈む。

 頬を撫でる風に、かすかに混じるレオンの香り。かつては「タイプではない」と思っていたはずの男。無愛想で、ぶっきらぼうで、扱いづらい騎士。それなのに今は、そのすべてが愛おしい。


 木漏れ日が視界にやさしく降り注ぐ。背後のどこかに、紅葉に染まった小さなリゼリア湖が残っている。

 もう二度と同じ形では辿れない道を、馬はゆっくりと進んでいく。


                 +++++


 宿に戻り、遅めの朝食を済ませると、静かに帰り支度を始めた。


「なんだか、元気がないな」

「……旅の終わりって、いつもこうなんです」


 手を止めたまま、少しだけ笑う。


「帰りたくないなって。子どもの頃は、よく泣いていました」

「そうか……」

「楽しいほど、寂しくなるんです」


 ふっと息を吐く。


「本当に、素敵な三日間でした」

「帰りたくないなら」


 レオンの声が少しだけ低くなる。


「このまま二人で、どこか遠くへ行くか……全部、捨てて」


 冗談のようで、冗談ではない響き。


「……そうできたら、いいですね」


 沙弥は微笑む。叶わないと、わかっているからこそ。


「レオンさん」

「なんだ?」


 言葉の代わりに腕を差し出す。レオンがそれを受け止める。そのまま自然に抱き寄せられる。

 胸に耳を当てると、規則正しい鼓動が伝わってくる。自分のものと重なるような、安心する音。


(ここが一番落ち着く。だから、離れるのが怖い)


 いつの間にか、そう思うようになっていた。


(……でも)


 いつか、この腕から離れる日がくる。そのときを思えば、今の寂しさはまだ優しい。


「……もう大丈夫です」


 そっと離れる。


「元気、出ました」

「……そうか。それじゃ、行こうか」


 頷き、二人は部屋に背を向けた。もう戻ることのない場所を、振り返ることなく。


                 +++++


「土産は買うか?」


 馬車に乗り込むと、レオンが尋ねる。


「買いたいです」


 短く答えると御者に指示が飛んだ。

 店はすぐ近くにあった。並んだ雑貨や食品は、日本の土産物屋とどこか似ている。

 賢斗とオーブリーにはもみじ模様のポーチと地酒。ダニエラとヘンリクには菓子。そして……


「おそろいですよ」


 もみじ型のキーホルダーと色違いのマグカップをレオンに渡すと、わずかに表情が緩む。その顔を見るのが好きだった。

 馬車は、来たときと同じ道を引き返す。だが、流れる景色はどこか違って見えた。

 会話は少ない。それでも、不思議と沈黙は苦しくない。ただ、少しだけ……名残惜しい。


 王都に着く頃には、すっかり日が落ちていた。

 そのまま、三日間が閉じ込められたように。


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