第30話 二つの表情、ひとつの想い
ヴィスカルディ侯爵は、妻と娘を伴い「ロンド・ドゥ・ソワ」で食事をとっていた。
「やはりレオン様は素敵でしたわ」
アデリーナの声には抑えきれない熱が滲んでいる。
「リックは頼りになりませんわね」
「申し訳ありません」
護衛の男が頭を下げた。
「やめなさい。あれは不意打ちだ。誰にでも防げるものではない」
侯爵は穏やかに言い聞かせる。だがアデリーナは視線を落とさない。
「それでも……レオン様なら防げたのでしょう?」
侯爵が小さく息をついた。幼い頃から変わらない。あの少年に向ける視線だけは。あれだけ拒絶されたというのに……。
そのとき、店の扉が開いた。何気なく視線を向け……侯爵はわずかに目を見張る。
レオンと、あの異世界の女性だった。二人は案内された席に並んで座り、ひとつのメニューを覗き込んでいる。肩が触れそうな距離。自然すぎるほど自然な近さ。
侯爵の視線に気づき、振り返ったアデリーナの指先が無意識にテーブルクロスを強く掴んだ。
「……あれでは護衛と護衛対象ではありませんわ」
冷ややかな声音。だが、その視線は離れない。
(あんな距離で)
息が詰まる。
(どうして、あの人には)
レオンは、あんな顔をしていただろうか。
記憶の中の彼はいつも無表情で、必要以上の言葉を発しない少年だった。まとわりつけば、鬱陶しそうに眉をひそめる。それでも構わなかった。それでも、傍にいられるだけでよかったのに。
(どうして)
あの女性には、あんなふうに笑うのか。
「レオン様があのような表情をなさることもあるのですね」
侯爵夫人の言葉に、アデリーナはわずかに唇を噛む。視線は離れない。
あの女性の胸元に、光るものがある。
「太陽石……かしら」
夫人が言い、侯爵が頷く。
「ああ。レオン君だろう」
その一言に、胸の奥がざわついた。
(どうして)
どうして、あの人に……。
(髪飾りだけでなく……)
レオンが誰かに何かを贈るなど、見たことがない。それが、あの女性だというのか。
(あの人は……)
静かに微笑み、言葉を選び、感情を荒げることもない。今日だって、自分の嫌味を受け流していた。落ち着いた大人の女性。自分とは違う。
(だからって)
認める理由にはならない。
「やはり……何かあるのではありませんこと?」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
「やめなさい」
侯爵の声がわずかに強くなる。
「今日の様子を見ただろう。あの人は我々に配慮してくれていた」
それは、否定しようのない事実だった。だが、それが余計に気に入らない。
(非の打ちどころがない)
だからこそ……どう足掻いても届かない気がして、苛立ちが募る。
「レオン君にお礼をしなくては」
侯爵がそう言ってウェイターを呼ぶ。
やがて、レオンが席を立ち、こちらへ歩いてくる。思わず背筋が伸びる。
視線が合ったその瞬間……わかった。
(違う)
そこにあるのは知っている顔だった。冷たく、整った、あの頃と同じ表情。
「お気遣いありがとうございます」
形式通りの礼。それ以上でも、それ以下でもない。
(どうして)
さっきまで、あんな顔をしていたのに。たったそれだけの距離で、まるで別人のようになるのか。
レオンは短く言葉を交わすと、すぐに席へ戻った。
そして……隣に座った瞬間……別人のように表情がほどける。柔らかく、穏やかな笑みに。
(……ずるい)
胸の奥が痛む。
(そんな顔、知らない)
知りたかった。ずっと。
「美味そうだな」
その声さえ優しい。あの女性に向けられるすべてが違う。自分には一度も向けられなかったもの。
食事の味は、ほとんど覚えていなかった。ただ、ひとつだけ。焼きついて離れない光景がある。あの距離。あの笑顔。あの人に向けるすべて。
(まだ……)
指先に力が入る。テーブルクロスに皺が寄る。
(まだ、終わっていない)
あの人は、いずれ自分の国に帰るのだから。
+++++
侯爵たちの視線に気づくことなく、レオンと沙弥は会話を楽しんでいた。
「サーヤ、あの大きな浴槽には花を浮かべて入るんだろう?」
「そうですね。きっと綺麗でしょうね」
「昨夜は使えなかったから、今夜は一緒に……」
「無理です」
断られるとは予想もしていなかったレオンは、被せ気味に拒否されて困惑した。
「……なぜ?」
「恥ずかしいからです」
(恥ずかしい? こんなに何度も触れ合っているのに……一緒に湯に浸かるのは恥ずかしいのか? なぜ?)
「わからん……」
思わず漏れた本音に、沙弥が小さく笑う。
「明るいのが嫌なんです」
(灯りか)
思い当たる節はある。寝室でも同じだった。
「なら、灯りを落とそう。ろうそく一本なら?」
「…………考えておきます」
頬をわずかに染める。
(本当に、この人は)
年上で、落ち着いていて、それでいて、こういうところで急に隙を見せる。そのたびに心を掴まれる。
「可愛いな、サーヤは」
自然と頬に手が伸びていた。
「あちらのお客様より、本日のお礼とのことです」
ウェイターがワインのボトルを運んできた。視線を辿ると侯爵たちの姿があった。
(……あの連中か)
一瞬で気持ちが切り替わる。
「挨拶に行ってくる」
短く言って席を立つ。用件だけを済ませて戻り、椅子に座った瞬間、ふっと力が抜けた。
注文していた料理が運ばれ、食欲をそそる香りが立ちのぼる。
「美味そうだな」
自然に笑みが浮かぶ。
(……本当に)
自分でも呆れるほど変わる。だが、構わない。見せたいのは、目の前のこの人だけだ。
◇◇◇◇◇
帰りの馬車から下り、湖畔へ向かうと、夜の湖は昼とは別の顔を見せていた。青く沈んだ水面に、満月が静かに浮かんでいる。
「月が綺麗だな」
思わず口をついて出た言葉に、沙弥が笑う。
「それ、日本では愛の告白の意味があるんですよ」
「……そうか」
一瞬考える。
「好きでもない相手と見ていて、出る言葉ではないだろうな」
レオンがそう呟いた瞬間、一枚の葉が湖面に落ちた。鏡のようだった月が静かに砕け、銀色の輪が広がっていく。
だがすぐに、何事もなかったように静けさを取り戻した。
+++++
その夜……。
二人は花を浮かべた湯に身を沈めていた。灯りは抑えられ、世界は柔らかな闇に包まれている。沙弥の輪郭だけが、かすかに浮かび上がっていた。
(見えない)
それが、もどかしい。
「ロマンティックですね」
「……ほとんど見えないが」
「じゃあ、これは?」
指を立てる気配。
「……三本」
「見えてるじゃないですか」
「見たいのはそこじゃない」
思わず声が低くなる。
「サーヤの顔だ」
「あとで見ればいいでしょう?」
「いつでも見ていたい」
自分でも驚くほど素直な言葉だった。
湯気に乗って濃厚な花の香りが漂う。身体を動かすたびに花がそっと肌を撫でる。
「はぁ~、いい香り。癒やされます」
「……ヘンリクに癒やされるよりは、いいな……」
「……」
「……ヘンリクに笑っている時よりは、いい」
自分でも呆れるほどしつこい。だが……あの時の光景が頭から離れない。
(あいつに向けた顔を……)
「……俺を見ている時の顔を……他の誰にも向けてほしくない」
答えは、ない。
すぐ隣にいるはずなのに、表情は見えない。だが次の瞬間、柔らかな気配が近づいた。頬に温もりが触れる。
「レオンさん、大好きですよ」
その一言で、すべてがほどける。
「見ています。レオンさんだけを」
(……敵わない)
抗う気すら失せる。
「明日はどうします?」
話題が変わる。穏やかな会話に。それでいい。
「別の湖に行くか? 森を抜けた先にリゼリア湖という場所がある」
「歩いて?」
「馬だな」
「また一緒に乗せてくれます?」
「ああ」
(残りは、あとわずか)
それでも、十分だと思いたかった。この時間を、手放すつもりはない。




