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ルーキスの太陽 ~異世界の境界線、その手を離さない~  作者: 如月菫
第一部 終わると知りつつ、恋をした
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第29話 光の湖、一閃の守護

 翌朝……。


 空は澄みわたり、世界はまだ目覚めきらぬ静けさに包まれていた。

 湖畔へ足を運ぶと、紅葉は燃えるように色づきながらも、不思議なほどに静かだった。

 湖面は鏡のように凪ぎ、周囲の景色をひとつもこぼさず映し返している。昇り始めた朝日がその水面に触れるたび、世界はゆっくりと輪郭を変えていった。


 水際には白い霧がうっすらと漂い、光を含んで淡く揺れている。空と水の境界は曖昧になり、ただ静寂だけが満ちていた。

 ふいに、一羽の水鳥が羽ばたく。その瞬間、鏡のように凪いでいた水面が乱れ、幾重にも広がる波紋が秋色に染まる世界を柔らかく歪ませた。


「……綺麗。なんだか、現実じゃないみたいです」


 沙弥の呟きに、レオンは視線を湖へ向けたまま答えた。


「神々しいな。だが……俺には、君のほうがよほど現実離れして見える」


 その言葉に、沙弥は小さく瞬きをした。


 部屋に戻り、朝の支度を整えながら今日の予定を話し合った。


「もう少ししたら朝食を頼もう。ここで作ってもらえるそうだ」

「その後はどうします?」

「湖の西に低い山があっただろう。あそこに登ろう。二時間もかからない」

「ぜひ行ってみたいです」


 朝食の際、宿のスタッフに尋ねると、山頂用の軽食も用意してくれるという。

 小さな楽しみが旅にひとつ増えた。


                 +++++


「レオンさん、今日も騎士服なんですね」

「ああ。護衛だからな」

「恋人同士じゃなくて?」


 不意の言葉に、レオンはわずかに目を細める。


「恋人兼護衛だ。それに、この服でなければ剣を持てない決まりになっている」

「そうなんですね」


 沙弥の素直な反応に、レオンはわずかに息を吐く。


「いざという時に、君を守れないと困るからな」


 山道はよく整備され、歩きやすかった。道の脇には見慣れない白い花が咲き、青い羽を持つ鳥が軽やかな声で空を横切っていく。


「あれは何ていう鳥ですか?」

「ルフィルスだ。この辺りにしかいない」

「綺麗……幸せの青い鳥みたいです」


 沙弥にとって、すべてが新鮮だった。世界そのものが、まだ知らない物語のように見える。


 一時間ほど歩いた頃だった。前方から、空気を裂くような咆哮と人間の悲鳴が同時に響いた。


「サーヤ、下がれ」


 レオンの声が低くなる。


「絶対に離れるな」


 その瞬間、彼の空気が変わった。


 道の先では、中年の男性と若い女性が座り込み、その護衛が獣と対峙していた。

 熊に似た巨大な魔獣。その動きは重く、しかし凶暴だった。護衛は既に傷を負い、押し込まれている。


 レオンが一歩踏み出す。剣が抜かれた瞬間、空気が凍るように張りつめた。


「……下がっていろ」


 赤い光が剣から(ほとばし)る。魔獣が一瞬怯む。次の瞬間には、もう距離がなかった。巨体が踏み込む……その前に、白い閃光が走る。何が起きたのか理解するより先に……


 一閃。


 重い断裂音とともに世界が静寂へと戻る。巨大な影が崩れ落ち、風だけが残った。


(……見えなかった)


 沙弥は息を呑む。


(これが、騎士……)


 恐怖はなかった。ただ圧倒されるような強さがそこにあった。それは、人が人を守るために研ぎ澄まされた力だった。


 三人に近づいてみると、ヴィスカルディ侯爵とアデリーナ、その護衛だった。


「侯爵でしたか」

「助かった……」

「お怪我は?」


 レオンが短く問う。


「護衛がやられている。私は治癒が使えない」

「わかりました」


 レオンは即座に判断した。


「宿へ連絡を。警備隊を呼んでください」


 そう言ってテルソラを手渡す。

 そして負傷した護衛に手をかざすと、呼吸が安定した。


「……これで大丈夫だ」

「すぐに連絡してくれるそうだ」


 侯爵がそう言ってテルソラを返す。


「それでは、俺たちはこれで」

「もう行ってしまうのか? 警備隊が来るまで一緒にいてくれないか?」

「侯爵は令嬢をサーヤに近づけないと勇者に約束していたのでは?」

「私なら大丈夫ですから。非常事態ですし」

「サーヤがそう言うならいいが……」


 アデリーナが不満げに口を開く。


「勇者様が命を懸けていらっしゃるのに……こんなふうに、のんびりしていていいのですか?」


 もっともな問いかけだが、空気が一瞬だけ凍る。レオンの視線がわずかに鋭くなった。侯爵が慌てて制する。


「やめなさい。彼がいなければ我々は死んでいた」


 アデリーナは唇を噛み、視線を逸らした。


 警備隊を待つ間、沙弥がレオンに尋ねる。


「このへんには魔獣がよく出るんですか?」

「聞いたことがないな」

「魔獣王のせいでしょうか?」

「そうかもしれない」


 やがて警備隊が到着し、現場は引き継がれた。


「それじゃ、行こうか」


 レオンは先に進むつもりらしい。


「大丈夫ですか? 魔力も使ったし、お疲れでは?」


 沙弥が気遣うが……


「魔獣一頭倒したくらいで疲れていたら、騎士は務まらない」


 魔獣の死骸を一瞥し、淡々と言う。


「では、我々はこれで」


 侯爵にそう言って山頂に向かう。


「まさか侯爵に会うとはな」

「大変な目に遭われましたね」

「だいぶ時間を使ったな」

「でも、急ぐ旅ではありませんから」


 沙弥の言葉に、レオンはわずかに微笑んだ。


 山頂に着いたのは、予定より遅い昼過ぎだった。そこには世界がひらけていた。

 視界のすべてに紅葉が広がり、山そのものが燃えるような色彩で満たされている。その中に湖がひっそりと光を抱え、水面は深く澄んだ輝きを放っていた。

 風が吹くたび、乾いた葉がかさりと音を立てる。それは、世界が呼吸しているような音だった。


 山頂のベンチに座り、軽食を広げた。冷えたジュースが喉を潤し、心まで落ち着かせる。


「足りましたか?」

「ああ。君が少し残した分も食べたからな」


 レオンは淡々と言い、わずかに口元を緩めた。

 しばらく景色を眺めたあと、二人は山を下り始めた。


「今日のレオンさん、かっこよかったです」

「そうか」


 その声は、どこか柔らかい。


「護衛の必要性、今日初めてわかりました」

「今までわかっていなかったほうが問題だ」

「でも、全然怖くなかったです。レオンさんがいたから」


 その言葉に、レオンは少しだけ視線を逸らした。


「それならいい」


 二人は自然に手をつないで歩く。言葉は少なく、しかし不思議と静かではなかった。そこには確かな温もりがあった。


「この景色、ずっと変わらないといいですね」

「……ああ」


 レオンは短く答えた。だがその視線は、景色ではなく隣にいる沙弥に向いていた。


(変わらないものなど、ない)


 そう知っているからこそ、目を離せなかった。

 麓に戻る頃には、空はゆっくりと傾き始めていた。


「宿に戻ろう」

「夕食は?」

「少し遠いが、いい店を予約してある」


 歩き出す二人の影は、静かに並んでいた。


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