第29話 光の湖、一閃の守護
翌朝……。
空は澄みわたり、世界はまだ目覚めきらぬ静けさに包まれていた。
湖畔へ足を運ぶと、紅葉は燃えるように色づきながらも、不思議なほどに静かだった。
湖面は鏡のように凪ぎ、周囲の景色をひとつもこぼさず映し返している。昇り始めた朝日がその水面に触れるたび、世界はゆっくりと輪郭を変えていった。
水際には白い霧がうっすらと漂い、光を含んで淡く揺れている。空と水の境界は曖昧になり、ただ静寂だけが満ちていた。
ふいに、一羽の水鳥が羽ばたく。その瞬間、鏡のように凪いでいた水面が乱れ、幾重にも広がる波紋が秋色に染まる世界を柔らかく歪ませた。
「……綺麗。なんだか、現実じゃないみたいです」
沙弥の呟きに、レオンは視線を湖へ向けたまま答えた。
「神々しいな。だが……俺には、君のほうがよほど現実離れして見える」
その言葉に、沙弥は小さく瞬きをした。
部屋に戻り、朝の支度を整えながら今日の予定を話し合った。
「もう少ししたら朝食を頼もう。ここで作ってもらえるそうだ」
「その後はどうします?」
「湖の西に低い山があっただろう。あそこに登ろう。二時間もかからない」
「ぜひ行ってみたいです」
朝食の際、宿のスタッフに尋ねると、山頂用の軽食も用意してくれるという。
小さな楽しみが旅にひとつ増えた。
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「レオンさん、今日も騎士服なんですね」
「ああ。護衛だからな」
「恋人同士じゃなくて?」
不意の言葉に、レオンはわずかに目を細める。
「恋人兼護衛だ。それに、この服でなければ剣を持てない決まりになっている」
「そうなんですね」
沙弥の素直な反応に、レオンはわずかに息を吐く。
「いざという時に、君を守れないと困るからな」
山道はよく整備され、歩きやすかった。道の脇には見慣れない白い花が咲き、青い羽を持つ鳥が軽やかな声で空を横切っていく。
「あれは何ていう鳥ですか?」
「ルフィルスだ。この辺りにしかいない」
「綺麗……幸せの青い鳥みたいです」
沙弥にとって、すべてが新鮮だった。世界そのものが、まだ知らない物語のように見える。
一時間ほど歩いた頃だった。前方から、空気を裂くような咆哮と人間の悲鳴が同時に響いた。
「サーヤ、下がれ」
レオンの声が低くなる。
「絶対に離れるな」
その瞬間、彼の空気が変わった。
道の先では、中年の男性と若い女性が座り込み、その護衛が獣と対峙していた。
熊に似た巨大な魔獣。その動きは重く、しかし凶暴だった。護衛は既に傷を負い、押し込まれている。
レオンが一歩踏み出す。剣が抜かれた瞬間、空気が凍るように張りつめた。
「……下がっていろ」
赤い光が剣から迸る。魔獣が一瞬怯む。次の瞬間には、もう距離がなかった。巨体が踏み込む……その前に、白い閃光が走る。何が起きたのか理解するより先に……
一閃。
重い断裂音とともに世界が静寂へと戻る。巨大な影が崩れ落ち、風だけが残った。
(……見えなかった)
沙弥は息を呑む。
(これが、騎士……)
恐怖はなかった。ただ圧倒されるような強さがそこにあった。それは、人が人を守るために研ぎ澄まされた力だった。
三人に近づいてみると、ヴィスカルディ侯爵とアデリーナ、その護衛だった。
「侯爵でしたか」
「助かった……」
「お怪我は?」
レオンが短く問う。
「護衛がやられている。私は治癒が使えない」
「わかりました」
レオンは即座に判断した。
「宿へ連絡を。警備隊を呼んでください」
そう言ってテルソラを手渡す。
そして負傷した護衛に手をかざすと、呼吸が安定した。
「……これで大丈夫だ」
「すぐに連絡してくれるそうだ」
侯爵がそう言ってテルソラを返す。
「それでは、俺たちはこれで」
「もう行ってしまうのか? 警備隊が来るまで一緒にいてくれないか?」
「侯爵は令嬢をサーヤに近づけないと勇者に約束していたのでは?」
「私なら大丈夫ですから。非常事態ですし」
「サーヤがそう言うならいいが……」
アデリーナが不満げに口を開く。
「勇者様が命を懸けていらっしゃるのに……こんなふうに、のんびりしていていいのですか?」
もっともな問いかけだが、空気が一瞬だけ凍る。レオンの視線がわずかに鋭くなった。侯爵が慌てて制する。
「やめなさい。彼がいなければ我々は死んでいた」
アデリーナは唇を噛み、視線を逸らした。
警備隊を待つ間、沙弥がレオンに尋ねる。
「このへんには魔獣がよく出るんですか?」
「聞いたことがないな」
「魔獣王のせいでしょうか?」
「そうかもしれない」
やがて警備隊が到着し、現場は引き継がれた。
「それじゃ、行こうか」
レオンは先に進むつもりらしい。
「大丈夫ですか? 魔力も使ったし、お疲れでは?」
沙弥が気遣うが……
「魔獣一頭倒したくらいで疲れていたら、騎士は務まらない」
魔獣の死骸を一瞥し、淡々と言う。
「では、我々はこれで」
侯爵にそう言って山頂に向かう。
「まさか侯爵に会うとはな」
「大変な目に遭われましたね」
「だいぶ時間を使ったな」
「でも、急ぐ旅ではありませんから」
沙弥の言葉に、レオンはわずかに微笑んだ。
山頂に着いたのは、予定より遅い昼過ぎだった。そこには世界がひらけていた。
視界のすべてに紅葉が広がり、山そのものが燃えるような色彩で満たされている。その中に湖がひっそりと光を抱え、水面は深く澄んだ輝きを放っていた。
風が吹くたび、乾いた葉がかさりと音を立てる。それは、世界が呼吸しているような音だった。
山頂のベンチに座り、軽食を広げた。冷えたジュースが喉を潤し、心まで落ち着かせる。
「足りましたか?」
「ああ。君が少し残した分も食べたからな」
レオンは淡々と言い、わずかに口元を緩めた。
しばらく景色を眺めたあと、二人は山を下り始めた。
「今日のレオンさん、かっこよかったです」
「そうか」
その声は、どこか柔らかい。
「護衛の必要性、今日初めてわかりました」
「今までわかっていなかったほうが問題だ」
「でも、全然怖くなかったです。レオンさんがいたから」
その言葉に、レオンは少しだけ視線を逸らした。
「それならいい」
二人は自然に手をつないで歩く。言葉は少なく、しかし不思議と静かではなかった。そこには確かな温もりがあった。
「この景色、ずっと変わらないといいですね」
「……ああ」
レオンは短く答えた。だがその視線は、景色ではなく隣にいる沙弥に向いていた。
(変わらないものなど、ない)
そう知っているからこそ、目を離せなかった。
麓に戻る頃には、空はゆっくりと傾き始めていた。
「宿に戻ろう」
「夕食は?」
「少し遠いが、いい店を予約してある」
歩き出す二人の影は、静かに並んでいた。




