第25話 鏡の湖面、静寂への違和感
さらに二時間ほど揺られたのち、ようやくレルナに辿り着いた。
長旅の疲れが、湖から吹いてくる柔らかな風に溶けていくようだった。
宿泊先は湖の東側に建つ「シレンツィオ・マルジュ」。
コテージだと聞いていた。だが、目の前に現れたそれは、コテージという言葉では収まらなかった。静謐で、贅沢な……隠れ家的ヴィラと呼ぶべき佇まいだった。
一棟ごとに高い壁で囲われ、外界から切り離されている。鍵のかかる門扉を押し開けて中へ入った瞬間、空気が変わった。
庭の中央には噴水。水音が一定のリズムで響いている。周囲には色とりどりの花。蝶が舞い、鳥が餌をついばむ。
(ここだけ、世界の速度が違う)
ダイニングとキッチンは庭との間に壁を持たないセミオープンの造り。
キッチンには見慣れない魔導具が整然と並び、大型の冷蔵庫も備え付けられている。持ってきた食材をそこへしまう。
室内は広く、温かみのある木の空間だった。広々としたリビング、そして奥にはベッドルーム。壁際には暖炉。火が灯れば、夜にはやさしい橙色の光がこの部屋を満たすのだろう。
さらに奥のバスルームに足を踏み入れると、大きな浴槽が目に飛び込む。その傍らには大きな籠がひとつ。中には色とりどりの花がたっぷりと詰められている。
「とっても素敵ですね」
思わず、息を漏らす。
「ここまでとは思っていませんでした」
「……気に入ったか」
「はい、とても」
それだけで十分だったらしい。レオンの肩の力が、ほんのわずかに抜けた。
「これからどうします?」
「しばらく休んだら湖畔を散歩しよう」
外へ出ると、すぐに湖が広がっていた。オルミナント湖という名前らしい。
湖面は驚くほど静かだった。
まるで巨大な鏡のように、空も、森も、すべてを映し込んでいる。どこまでが現実で、どこからが水面なのか、境界が曖昧になる。冷え始めた空気の中で、紅葉だけが、かすかに熱を帯びていた。
ようやく十一月に入ったところだが、東京の十一月よりは暖かい。この国の木々は、日本よりも高い気温で紅葉するらしい。
紅葉もどこか濃密で、葉の色も深く、光を受けるたびにゆっくりと揺らめいて見えた。
紅葉の季節だというのに人影はまばらだ。騒がしさはなく、聞こえるのは水鳥の羽ばたきや、落ち葉を踏む乾いた音ばかり。
湖畔には細い遊歩道が整備されていて、レオンと手をつないでそこを歩いた。指が離れそうになると……ほんのわずかに、強く握られる。意識しなければ気づかない程度の力。でも、確実に。
落ち葉が道の上に柔らかく積もり、踏むたびにかさりとかすかな音がする。時おり立ち止まって湖を眺めたり、水面を泳ぐ鳥を指差したりしながら、ゆっくり歩いた。特別なことを話すわけでもないのに、その時間が妙に心地よかった。
湖を一周して宿の近くまで戻ってきた頃には、空の色がすっかり変わっていた。西の空は茜色に燃え、山の稜線に太陽がゆっくりと吸い込まれていく。湖面には空の色がそのまま映り込み、まるで湖そのものが夕焼けで満たされたかのようだ。
隣を見ると、レオンの金色の瞳が、夕日を飲み込んだように深く光っていた。
昼間よりもさらに深い赤が湖に広がり、静かな水面はゆっくりと暗さを帯びていく。しばらく立ち止まり、言葉もなくその景色を眺めていた。レオンの手の温もりだけが、冷え始めた夕方の空気の中で確かに感じられた。湖は最後まで静かに、ただ赤く染まり続けていた。
(同じ空の下で……)
思いかけて、止める。言葉にした瞬間、壊れてしまいそうで。代わりに、指先に少しだけ力を込めた。それをレオンが逃さなかった。何も聞かず、ただ……握り返す。
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宿に戻り、夕食の準備を始める。買ってきた食材を取り出して並べる。
キッチンには塩や砂糖、酢といった基本的な調味料がそろっていた。
「レオンさんって、料理できるんですか?」
「できるぞ。騎士は野営があるからな」
なるほど、と納得する。
「今日は何を作るんです?」
「アペルネの肉をサリスで味付けして焼こう。君が口に合うと言っていた調味料だ。あとはパンを温めて、サラダとスープだな」
「……普通にちゃんとした献立ですね」
アペルネは豚肉のような味がする動物で美味しい。
あの醤油に似た調味料はサリスというらしい。
「私は何をすれば?」
「サラダを頼めるか」
背後から覗き込まれて、思わず肩が揺れる。
「……了解です」
振り向かないまま答えると、小さく笑う気配がした。
ブロッコリーに似た野菜を茹で、ほかの野菜を切る。ゆで卵も作って、エッグサラダにすることにした。
「サラダにかけるドレッシングってありましたっけ?」
「……忘れてたな」
少し考えてから、卵を手に取る。
(マヨネーズを作るか……)
卵黄に酢と塩、油を混ぜる。分量はうろ覚えだけど、まあ何とかなるだろう。
スープは缶詰なので温めるだけだ。やがて、肉の焼けるいい匂いがキッチンに広がってきた。
出来上がった料理をダイニングテーブルに並べ、二人で食べ始める。
「お肉の焼き加減も味付けも完璧です! さすが野営仕込みですね。私の国だと、料理ができる男性ってかなりポイント高いんですよ」
「そうか? 君が食べるなら、いくらでも作る」
レオンはサラダを一口食べて、少し首をかしげた。
「このサラダにかかっているのは何だ? 食べたことのない味だが……美味いな」
「マヨネーズっていうんです」
「マヨネーズ?」
もう一口食べて、頷く。
「うん、美味い」
「作り方、うろ覚えだったんですけど……大丈夫ですか?」
「ああ、うろ覚えで作ったとは思えない」
「よかった」
二人は作った料理をすべて平らげた。
「あー、もう、お腹いっぱい!」
「サーヤ、今日はよく食べたな」
「レオンさんの焼いたお肉がおいしいし、味付けも最高でしたから」
「よほどサリスが口に合うんだな」
「そうですね。貴族様たちは王都の味付けのほうが好きなんですか?」
「どうなんだろうな。俺はどっちも好きだぞ」
「好き嫌いがないのはいいことですね」
好き嫌いがあったら騎士は務まらないのだろう。
賢斗は好き嫌いがないので、その点はよかったと思う。
外は、すでに深い夜。
……この静けさが、どこか落ち着かない。




