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ルーキスの太陽 ~異世界の境界線、その手を離さない~  作者: 如月菫
第一部 終わると知りつつ、恋をした
26/49

第25話 鏡の湖面、静寂への違和感

 さらに二時間ほど揺られたのち、ようやくレルナに辿り着いた。

 長旅の疲れが、湖から吹いてくる柔らかな風に溶けていくようだった。


 宿泊先は湖の東側に建つ「シレンツィオ・マルジュ」。

 コテージだと聞いていた。だが、目の前に現れたそれは、コテージという言葉では収まらなかった。静謐で、贅沢な……隠れ家的ヴィラと呼ぶべき佇まいだった。


 一棟ごとに高い壁で囲われ、外界から切り離されている。鍵のかかる門扉を押し開けて中へ入った瞬間、空気が変わった。

 庭の中央には噴水。水音が一定のリズムで響いている。周囲には色とりどりの花。蝶が舞い、鳥が餌をついばむ。


(ここだけ、世界の速度が違う)


 ダイニングとキッチンは庭との間に壁を持たないセミオープンの造り。

 キッチンには見慣れない魔導具が整然と並び、大型の冷蔵庫も備え付けられている。持ってきた食材をそこへしまう。


 室内は広く、温かみのある木の空間だった。広々としたリビング、そして奥にはベッドルーム。壁際には暖炉。火が灯れば、夜にはやさしい橙色の光がこの部屋を満たすのだろう。


 さらに奥のバスルームに足を踏み入れると、大きな浴槽が目に飛び込む。その傍らには大きな籠がひとつ。中には色とりどりの花がたっぷりと詰められている。


「とっても素敵ですね」


 思わず、息を漏らす。


「ここまでとは思っていませんでした」

「……気に入ったか」

「はい、とても」


 それだけで十分だったらしい。レオンの肩の力が、ほんのわずかに抜けた。


「これからどうします?」

「しばらく休んだら湖畔を散歩しよう」


 外へ出ると、すぐに湖が広がっていた。オルミナント湖という名前らしい。


 湖面は驚くほど静かだった。

 まるで巨大な鏡のように、空も、森も、すべてを映し込んでいる。どこまでが現実で、どこからが水面なのか、境界が曖昧になる。冷え始めた空気の中で、紅葉だけが、かすかに熱を帯びていた。


 ようやく十一月に入ったところだが、東京の十一月よりは暖かい。この国の木々は、日本よりも高い気温で紅葉するらしい。

 紅葉もどこか濃密で、葉の色も深く、光を受けるたびにゆっくりと揺らめいて見えた。


 紅葉の季節だというのに人影はまばらだ。騒がしさはなく、聞こえるのは水鳥の羽ばたきや、落ち葉を踏む乾いた音ばかり。


 湖畔には細い遊歩道が整備されていて、レオンと手をつないでそこを歩いた。指が離れそうになると……ほんのわずかに、強く握られる。意識しなければ気づかない程度の力。でも、確実に。


 落ち葉が道の上に柔らかく積もり、踏むたびにかさりとかすかな音がする。時おり立ち止まって湖を眺めたり、水面を泳ぐ鳥を指差したりしながら、ゆっくり歩いた。特別なことを話すわけでもないのに、その時間が妙に心地よかった。


 湖を一周して宿の近くまで戻ってきた頃には、空の色がすっかり変わっていた。西の空は茜色に燃え、山の稜線に太陽がゆっくりと吸い込まれていく。湖面には空の色がそのまま映り込み、まるで湖そのものが夕焼けで満たされたかのようだ。

 隣を見ると、レオンの金色の瞳が、夕日を飲み込んだように深く光っていた。


 昼間よりもさらに深い赤が湖に広がり、静かな水面はゆっくりと暗さを帯びていく。しばらく立ち止まり、言葉もなくその景色を眺めていた。レオンの手の温もりだけが、冷え始めた夕方の空気の中で確かに感じられた。湖は最後まで静かに、ただ赤く染まり続けていた。


(同じ空の下で……)


 思いかけて、止める。言葉にした瞬間、壊れてしまいそうで。代わりに、指先に少しだけ力を込めた。それをレオンが逃さなかった。何も聞かず、ただ……握り返す。


                 +++++


 宿に戻り、夕食の準備を始める。買ってきた食材を取り出して並べる。

 キッチンには塩や砂糖、酢といった基本的な調味料がそろっていた。


「レオンさんって、料理できるんですか?」

「できるぞ。騎士は野営があるからな」


 なるほど、と納得する。


「今日は何を作るんです?」

「アペルネの肉をサリスで味付けして焼こう。君が口に合うと言っていた調味料だ。あとはパンを温めて、サラダとスープだな」

「……普通にちゃんとした献立ですね」


 アペルネは豚肉のような味がする動物で美味しい。

 あの醤油に似た調味料はサリスというらしい。


「私は何をすれば?」

「サラダを頼めるか」


 背後から覗き込まれて、思わず肩が揺れる。


「……了解です」


 振り向かないまま答えると、小さく笑う気配がした。


 ブロッコリーに似た野菜を茹で、ほかの野菜を切る。ゆで卵も作って、エッグサラダにすることにした。


「サラダにかけるドレッシングってありましたっけ?」

「……忘れてたな」


 少し考えてから、卵を手に取る。


(マヨネーズを作るか……)


 卵黄に酢と塩、油を混ぜる。分量はうろ覚えだけど、まあ何とかなるだろう。


 スープは缶詰なので温めるだけだ。やがて、肉の焼けるいい匂いがキッチンに広がってきた。

 出来上がった料理をダイニングテーブルに並べ、二人で食べ始める。


「お肉の焼き加減も味付けも完璧です! さすが野営仕込みですね。私の国だと、料理ができる男性ってかなりポイント高いんですよ」

「そうか? 君が食べるなら、いくらでも作る」


 レオンはサラダを一口食べて、少し首をかしげた。


「このサラダにかかっているのは何だ? 食べたことのない味だが……美味いな」

「マヨネーズっていうんです」

「マヨネーズ?」


 もう一口食べて、頷く。


「うん、美味い」

「作り方、うろ覚えだったんですけど……大丈夫ですか?」

「ああ、うろ覚えで作ったとは思えない」

「よかった」


 二人は作った料理をすべて平らげた。


「あー、もう、お腹いっぱい!」

「サーヤ、今日はよく食べたな」

「レオンさんの焼いたお肉がおいしいし、味付けも最高でしたから」

「よほどサリスが口に合うんだな」

「そうですね。貴族様たちは王都の味付けのほうが好きなんですか?」

「どうなんだろうな。俺はどっちも好きだぞ」

「好き嫌いがないのはいいことですね」


 好き嫌いがあったら騎士は務まらないのだろう。

 賢斗は好き嫌いがないので、その点はよかったと思う。


 外は、すでに深い夜。


……この静けさが、どこか落ち着かない。


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