第24話 ふたりの旅路、ひとつの噂
レルナへ出発する朝……。
いつもより少し早い時間に食堂で朝食をとり、そのまま馬車へ向かった。
乗り込んでほどなく、車輪が静かに回り始める。
王都を離れるにつれて、景色はゆっくりと色を変えていった。
石造りの建物は途切れ、広がるのはどこまでも続く田園。
穏やかで、静かで……。まるで、何も起こらない世界のようだった。
けれど……
(同じ空の下で、賢斗はあの山を登っている)
その事実だけが、胸の奥に小さな棘のように残る。抜けないまま、ずっと。
レオンは何も言わなかった。だが、わずかに指先が触れる。
……気づいているのだろう。それだけで、少しだけ呼吸が楽になった。
二時間ほど走ったところで、小さな街に立ち寄った。
レンガ造りの家々が立ち並び、窓辺には花箱が置かれている。長い年月を経た壁は、しっとりと深い色をしている。
観光地らしさはない。だが、その分だけ生活の温もりがある。
村の中心には小さなパブがある。木の看板が風に揺れ、乾いた音を立てていた。
中からは低い笑い声と、食器の触れ合う音が漏れてくる。地元の客が相手の店だろう。時間がゆったりと流れているように感じる。
パブの前を通り過ぎ、ティーハウスに入った。
ガラスのカップに注がれた青い茶。そこへレモンを落とすと、ゆっくりと色が変わる。
……青から、淡い紫へ。
「綺麗ですね」
「初めて見たのか?」
「はい。こういう変化、ちょっと感動します」
レオンはわずかに頷いた。
「……俺も昔、同じことを言った」
「え?」
「十歳のときだ。家族でここに来た」
意外な話に、少しだけ目を見開く。
「楽しかったですか?」
「楽しいかどうかは……考えたことがないな」
あっさりとした答えだが、その奥に、ほんのわずかな余白がある。
「だが、レルナの景色は気に入った」
カップの縁に指をかけたまま続ける。
「兄に言われたよ。『好きな人ができたら連れてくるといい』と」
そこで、こちらを見る。
「……やっと、そんな日が来た」
視線がまっすぐだった。
「一緒に来るのが私でよかったんですか?」
「サーヤ以外は、考えられない」
迷いがない。だからこそ……軽く受け流せなかった。
馬車に戻り、再び走り出す。窓の外には、同じような田園風景が続いていた。
「同じ景色ばかりで、退屈ではないか?」
「全然。こういう景色、好きなんです」
「……癒やされるからか」
少しだけ含みのある声音。
「ヘンリクにも癒やされていたな」
(出た)
自分から名前を出しておいて、この流れ。完全に不機嫌の前兆だ。
沙弥はそっと隣に移動した。手を取り、肩に寄りかかる。距離が意図的に近づく。
「レオンさんにも、ちゃんと癒やされてますよ」
次の瞬間……指が、強く絡められた。逃がさない、と言わんばかりに。
「……そうか」
短い言葉。だが、それ以上は何も言わなかった。
機嫌は……辛うじて持ち直したらしい。
昼は少し大きな街でとった。食堂に入り、いつものようにレオンに任せて注文する。
醤油のようなあっさりした味でおいしい。
「今日はよく食べるな」
「味付けが口に合うんです」
「この辺りの調味料だな。帰りに買っていこう」
そんなやり取りの最中、店の女将が声をかけてきた。
「騎士様がこんなところに来るのは珍しいですね。お仕事ですか?」
「この人の護衛で、レルナへ向かう」
女将の視線が沙弥に向く。値踏みするような、それでいて不思議そうな視線。
レオンは淡々と続けた。
「勇者の姉だ」
「ああ……それはそれは」
空気が変わる。
「この国のためにありがとうございます」
「いえ、私は何も……」
本当に何もしていない。その言葉が少しだけ重くなる。
「それでは、騎士様は……レオン様でいらっしゃる?」
「そうだが……」
「やっぱり」
女将は楽しげに笑った。
「噂になっておりますよ」
(嫌な予感しかしない)
「どのような女性にも心を開かなかった、レオン様という美貌の騎士様が……」
わざと間を置く。
「勇者様のお姉さまと、恋に落ちたと」
(ぶっ)
危うく吹き出しかけて、慌てて飲み込む。
(なにそれ……完全に物語じゃない……?)
そっと隣を見る。レオンは……無表情だった。
だが……次の瞬間、手を引かれる。強く、逃がさないように。
「噂は誇張されるものですから……」
「そうかもしれませんねえ。でも……」
女将は意味深に微笑む。
「火のないところに煙は立ちませんから」
そう言い残して去っていった。
残された沈黙の中で、レオンの手だけが離れない。むしろ、少しだけ強くなる。
胸の奥で、小さく何かが揺れた。
その後、街で食材を買い込み、再び馬車へ。レルナは、もうすぐだ。




