第20話 振り返らぬ背中、零れた涙
朝は容赦なく訪れた。
王宮前の広場にはすでに人が集まっていた。討伐に行く騎士の家族や恋人。職員たちも庁舎の窓から見送っている。
誰もが同じ方向を見つめていた。
……出発する者たちを。
黒と赤のマントを羽織った騎士たちの中、銀色のマントがひときわ目を引く。
賢斗だった。
あの子があそこに立っている。たったそれだけのことが、どうしようもなく現実味を帯びない。
騎士たちは皆、愛馬の手綱を握っている。賢斗も自分の馬を連れていた。いつの間にか馬に乗る練習もしていたんだな、と感心する。
沙弥の隣にはレオンがいた。
「泣かずに見送ってやれ」
「泣きませんよ」
自分でも驚くほど、声は安定していた。
「絶対に帰ってくるって、信じてますから」
その一言に、レオンの視線が揺れる。
「……そうだな」
賢斗がこちらに気づき、歩いてくる。愛馬と一緒に、軽い足取りで。いつもどおりの笑顔。
けれど……目だけが静かだった。
「姉さん、来てくれてありがと」
「当たり前でしょ」
笑って返す。ちゃんと、笑えているはずだ。
相棒も紹介してくれた。「レオ」という名前らしい。
「レオ、賢斗をよろしくね」
首筋を撫でて、賢斗のことを頼んだ。
「なんかさ、もっとこう……しんみりする感じかと思ってた」
「十分してると思うけど」
「そう?」
賢斗は肩をすくめて笑う。いつもの調子。……いつもの、弟。
「それじゃぁ、行ってくるね」
あまりにも軽い一言。だが、その一言で、世界が動き出す。
「なるべく、早く帰ってきてね」
「わかった。……姉さん」
「なに?」
「ちゃんと、飯食えよ」
思わず、笑いそうになる。
「子どもじゃないんだから」
「いや、そういうとこあるから」
いつもどおりの軽口。それで終わるはずだった。
……なのに。
「……無理すんなよ」
その一言だけが、少しだけ低かった。胸の奥がきゅっと縮む。
「……そっちこそ」
それしか言えない。言葉にしたら全部崩れそうで。
「任せとけって。俺、勇者だぜ?」
胸を軽く叩く。その仕草に昨日と同じ笑顔を重ねる。
だから……信じるしかない。
「レオンさん」
賢斗が視線を移す。
「ああ」
二人の間で、短い会話。それだけで、すべてが通じているようだった。
余計な言葉は要らない。
「じゃあ、手紙書くよ。心配しないで」
「行ってらっしゃい」
そのまま隊列へ戻っていく。見慣れたはずのその背中が、やけに遠く感じた。
(……行かないで)
一瞬だけ、喉まで出かかった言葉を……飲み込む。
隊列が動き出す。賢斗の背中が少しずつ遠ざかっていく。
振り返らないのは、きっと優しさだ。振り返ったら離れられなくなると知っているから。
沙弥は手を振り続けた。見えなくなるその瞬間まで。最後の一人が視界から消えるまで。それでも……そこに、まだいる気がして、手を下ろせなかった。
隊列が完全に見えなくなったとき、ふっと力が抜けた。必死に押し込めていたものが一気に溢れ出す。
視界が滲む。呼吸がうまくできない。胸の奥が空洞になったみたいに軽くて……重い。
「よく、こらえたな」
すぐそばで低い声がした。その瞬間、涙が溢れた。抱き寄せられて温もりに触れた途端、ようやく理解する。
……怖かったのだと。
レオンの胸に顔を埋めると、ほんの少しだけ世界が元に戻る気がした。
……ああ。この人がいなかったら、たぶん無理だった。そこまで考えて、ほんの少しだけ驚く。自分がどれほど頼っているのかに。
◇◇◇◇◇
その後、第二騎士団の詰所に顔を出した。賢斗がいないだけで、空気の密度が変わった気がする。同じ場所のはずなのに、どこか別の世界のようだった。
ポツンと所在なげに座っているダニエラに声をかける。
「ここも寂しくなっちゃいましたね」
「ほんとですよー」
ダニエラは椅子にもたれたまま、ぐったりしている。
「今日はなんだか仕事する気が起きなくて…………」
「いつもだろ」
「ひどいです!」
いつもどおりのやり取り。だが、どこか隙間がある。
沙弥は、自分がここを離れることを伝えた。
「ますます寂しくなっちゃいます~。でもサーヤさんのおかげでだいぶ楽に仕事ができるようになりました」
ここ一ヶ月で仕事のやり方をだいぶ改善した。今後はダニエラ一人でなんとかなるだろう。
討伐隊からの手紙はこの部屋に届くというので、賢斗から手紙が来たら届けてくれるようお願いして、詰所を後にした。
その足で人事課に行く。
「次はどこに行くことになるんでしょうね」
「そりゃ第一騎士団だろ。担当はダニエラよりできるやつだから第二ほどは滞ってないが、書類仕事が多いのは同じだ」
「レオンさんの職場、行ったことないから楽しみです」
人事課ではやはり第一騎士団に行ってほしいと言われた。明日から十一月末までは第一騎士団勤務になる。
◇◇◇◇◇
その夜……。
「今夜は一緒にいてくれませんか」
「ああ、いいぞ」
沙弥は初めて自分からレオンを誘った。一人になったら不安に耐えきれなくなりそうで、レオンの温もりに触れていたかった。
レオンがシャワーを浴びて着替えるというので、沙弥はその間に昨日賢斗からもらった差し入れの果物を用意することにした。
皮を剥くためにフロアの共同キッチンに行く。
「勇者様、出発されましたね」
柔らかな声。振り向くと、同じフロアの女性が立っていた。ときどきすれ違うが話をしたことはなかった。
「お寂しいでしょう?」
「……ええ。でも、本人は張り切っていましたから」
女性の名前はエミリア・シルヴェン。ダニエラの友人だと言う。
「ダニエラからお噂はかねがね。ダニエラはサーヤさんのことが大好きみたいですよ」
「それは嬉しいです」
初めて、同じフロアの人と言葉を交わした。少しだけ安心する。
だが同時に……どこか、居心地が悪い。ここにいるのは自分なのに、自分の居場所ではないような、妙な感覚。
エミリアはレオンの大ファンだった。遠くから見つめながら、「いつか自分を見初めてくれるかも……」などと妄想をすることもあった。
そのレオンが突然このフロアに現れるようになった。聞けば勇者の姉の護衛に選ばれたと言う。間近で見られる機会が増えたのはいいが、いつも一緒にいられる勇者の姉が妬ましかった。許しがたいことに、レオンが勇者の姉の部屋でときどき過ごしていくようになった。嫉妬でおかしくなりそうだった。
そのうち、勇者の姉は第二騎士団で働き始め、友人のダニエラと一緒に仕事をするようになった。
「サーヤさん、とってもいい人だよ~。仕事もできるし、優しいし。レオン様は、私には冷たいけどサーヤさんには優しいんだ。きっと好きなんだと思う」
(サーヤさんていう名前なんだ。ダニエラがそう言うならホントにいい人なんだろう。サーヤさんはいずれ自分の国に帰るんだから、それまでの間だけレオン様と親しくしていても我慢しよう)
そう思って納得したはずなのに、胸の奥に残ったざらつきは、どうしても消えなかった。




