第2話 貴重な男子、今日も在宅
朝起きると、スマホに通知が来ていた。
『本日の在宅確認予定:10:00』
『外出予定がある場合は、行き先と帰宅予定時刻を登録してください』
俺はベッドの上でしばらく画面を見つめ、それから通知を横に払った。
「……はいはい」
声に出すほどのことではない。けれど、毎朝のように届くこの通知を見るたび、胸の奥に小さな重さが残る。
男子支援制度。
この世界で数少ない男子が、安全に生活するための仕組みだ。外出禁止ではない。ただ、遠出や大きなイベントでは、行き先や帰宅予定、緊急連絡先を登録する必要がある。
前世で見たことのある、登山届に近い仕組みだと思う。
それが必要な仕組みだということは、分かっている。この世界で男子は少ない。何かあってからでは遅い、という考え方も分かる。俺を困らせたくて作られた制度ではないことも、分かっている。
それでも、前世で普通の男女比の世界にいた俺には、まだ慣れない。
俺は布団から出て、カーテンを開けた。
窓の外は、普通の朝だった。通学中の女子高生が数人、楽しそうに話しながら歩いている。スーツ姿の女性が駅の方へ急ぎ、近所の犬が飼い主に引かれて角を曲がっていく。
何も特別なことはない。ただ、その普通の景色の中で、俺は少しだけ扱いが違う。
瀬川悠真。十八歳。
高校は卒業した。けれど、大学には進んでいない。就職もしていない。男子支援制度の補助を受けながら、在宅中心の生活をしている。
それだけ聞けば、かなり恵まれていると思う。実際、恵まれているのだと思う。生活に困っているわけではない。誰かに悪く言われるわけでもない。むしろ、どこへ行っても気を遣われる。
気を遣われすぎるくらいに。
顔を洗って、簡単に朝食を済ませたところで、インターホンが鳴った。注文していた日用品だろう。
俺は玄関へ行き、モニターを見る。配達員の女性が、箱を抱えて立っていた。
『瀬川様、お荷物です』
「はい。今開けます」
ドアを開けると、配達員は一瞬だけ姿勢を正した。
「あ、瀬川様ですね。お荷物、少し重いので、玄関の中までお入れしましょうか?」
「大丈夫です。そこに置いてもらえれば」
「本当に大丈夫ですか? 無理なさらなくても」
「はい。ありがとうございます」
配達員は丁寧に箱を置き、端末を操作した。
「では、こちらで配達完了になります。今日は少し暑くなるみたいなので、お気をつけください」
「ありがとうございます」
ドアを閉める。
玄関に置かれた箱を見下ろして、俺は小さく息を吐いた。
ありがたい。
たぶん、本当にありがたいことなのだと思う。配達員も、制度に関わっている人たちも、俺に嫌な思いをさせようとしているわけではない。
ただ、普通に荷物を受け取るだけで、毎回少しだけ気を遣われる。
それが、疲れる。
「前世だったら、普通に受け取って終わりだったんだけどな」
独り言は、玄関の壁に吸い込まれた。
前世では、男は珍しくなかった。朝に一人で外を歩いても、夜にゲームをしていても、荷物を受け取っても、誰かが特別に心配することはなかった。
もちろん、前世にも危ないことはあった。でも、それは俺が男だからではなく、人間なら誰にでもある危険だった。
この世界では違う。
男だから、大事にされる。男だから、心配される。男だから、少しだけ周囲の声が柔らかくなる。
それが嫌だ、とまでは言えない。けれど、俺が何をしても、最初に「男だから」が来る感じが苦手だった。
荷物を部屋の隅へ運び、机の前に座る。モニターの横には、昨日のままゲームパッドが置いてあった。
モンスターブレイズ。通称、モンブレ。
俺がDazeとして潜っているネット対戦ゲームだ。
起動する前に、Daze用のSNSアカウントを開いた。昨日の投稿には、まだ反応がついていた。
『対戦ありがとうございました。五ターン目、かなり危なかったです。』
ただそれだけの投稿だ。それなのに、通知欄はかなり伸びている。
[昨日のレイナ戦見た]
[五ターン目ほんと何?]
[危なかったって言えるのやばい]
[Daze大会出て]
[ルミナグリフの構築知りたい]
[声だけでも聞きたい]
[男説あるってマジ?]
[Daze姉さんなのかDaze兄さんなのかだけ教えて]
「……教えないよ」
小さく呟いて、俺は画面をスクロールした。
Dazeの正体を知りたがる声は、前からある。年齢。性別。職業。住んでいる場所。使っているデバイス。配信しない理由。大会に出ない理由。
みんな、知りたがる。でも、俺はほとんど答えない。
Dazeとして投稿する文章は短くていい。丁寧で、必要最低限でいい。それくらいの距離が、ちょうど楽だった。
コメントの中に、白峰レイナ本人の投稿が流れてきた。
『次は勝つ。あとDazeは大会出て。研究したいので』
俺はしばらくそれを見ていた。
レイナさんは、昨日の試合をもう確認しているのだろうか。
五ターン目の読みは、本当にきつかった。あそこで俺がルミナグリフを残していなければ、終盤まで行けなかった。あの補助技が間に合わなければ、俺はたぶん普通に負けていた。
勝ったからといって、楽だったわけではない。だからこそ、もう一度戦いたい気持ちも少しある。
ただ、それは画面の向こうでの話だ。
大会に出るとなると、まるで別の話になる。
俺はSNSを閉じ、モンブレを起動した。タイトル画面が表示される。BGMが流れ、ロビー画面に切り替わる。
そこには、いつもの名前があった。
Daze。
この名前でいる時だけ、少し呼吸がしやすい。
ランク戦を選ぶ。マッチング開始。
数秒後、対戦相手が見つかった。相手は最上位帯ではよく見る名前だった。配信者ではないが、ランク戦では何度か当たっている。堅実で、守りが固いタイプ。
俺はゲームパッドを握り直した。
男子支援アプリの通知も。宅配員の丁寧すぎる声も。外出予定の登録も。
全部、少し遠くなる。
画面の中にいるのは、俺ではない。
Dazeだ。
一ターン目。相手は守りから入った。こちらはルミナグリフを下げず、補助技を置く。
二ターン目。相手は交代で圧をかけてきた。俺はゲージを使わず、受ける。
三ターン目。相手が強めに攻めてくる。
ここで守ると後が苦しくなる。だから、あえて受けた。
体力は削れる。でも、相手のゲージも削れる。終盤に使える選択肢の数が、少しずつ変わっていく。
派手な一撃はない。大きな逆転もない。ただ、相手が攻めたい時に攻められないようにする。逃げたい時に逃げられないようにする。最後に残る手を、一つずつ減らしていく。
そして終盤。
相手は交代したかったはずだ。でも、ゲージが足りない。
ルミナグリフを残したまま、こちらの勝ち筋が間に合う。
勝利表示。
Daze、勝利。
「……よし」
声は小さかった。でも、さっきまで胸に残っていた重さは、少しだけ薄れていた。
試合後、対戦相手からゲーム内メッセージが届いた。
『対戦ありがとうございました。最後、交代できると思ってました』
俺は少し考えてから、返信した。
『対戦ありがとうございました。六ターン目の攻めが強かったので、交代コストを残せないようにしました』
すぐに返事が来る。
『なるほど。ルミナグリフ残すの、あそこで間に合うんですね』
『かなりぎりぎりでした』
『参考になります。またお願いします』
『こちらこそ、お願いします』
それだけのやり取りだった。
名前も知らない。顔も知らない。相手が俺を男だと思っているかどうかも分からない。
けれど、そこには余計な気遣いがなかった。
勝ち筋の話だけだった。ゲージの話だけだった。ルミナグリフの話だけだった。
「……こういうのでいいんだよな」
俺は背もたれに体を預けた。
現実の俺は、瀬川悠真だ。
貴重な男子。支援対象。安全確認の必要な存在。
でも、モンブレの画面の中では、Dazeだ。
勝てば勝ち。負ければ負け。
その単純さに、救われている。
昼前になって、スマホがまた震えた。男子支援アプリからの通知だった。
『今週末の外出予定はありますか?』
俺は何となく、通知を開いた。
外出予定の登録画面が表示される。近所の買い物なら、行き先と帰宅予定だけでいい。
けれど、画面を少し下へ送ると、別の項目が出てきた。
『遠出・宿泊・大規模イベントに参加する場合』
その項目を開くと、登録内容が一気に増えた。
目的地。主催者名。同行者の有無。帰宅予定時刻。緊急連絡先。現地での連絡可能時間。主催者への男子参加者通知の希望。
その下には、注意書きが並んでいた。
『参加者数の多いイベントでは、主催者側の導線確認が必要になる場合があります』
『男性参加者向け控室の有無を確認してください』
『帰宅予定時刻を過ぎた場合、自動確認通知が送信されます』
別に、行くなと言われているわけではない。むしろ、行くための仕組みだ。安全に参加できるように、先に確認しておくためのもの。
頭では分かっている。
分かっているけれど。
「……これ、ゲーム大会でもやるんだよな」
リアル大会。
ネット越しではなく、選手が実際に会場へ集まって戦う大会。
Dazeとしての名前は、そこでさらに広がるかもしれない。でも、会場へ行くのは瀬川悠真だ。
受付で本人確認をして。男子参加者として案内されて。周りから気を遣われて。たぶん、何人かは見てくる。
想像しただけで、指先が重くなった。
俺は登録フォームを閉じた。
画面には、またモンブレのロビーが映る。
こっちなら、誰にも帰宅予定を聞かれない。誰にも、男だからと声を落とされない。
ただ、相手のゲージを見て、次の一手を考えればいい。
俺はゲームパッドを握った。
もう一戦だけ。
そう思って、ランク戦のボタンを押す。
マッチング待機画面に、Dazeの名前が表示される。
その名前は、今日も少しずつ広がっていく。
正体不明のトップランカー。
大会に出ない理由も、顔を出さない理由も、声を出さない理由も、誰も知らないまま。
俺は画面の前で、次の相手を待った。
そのころ、俺の知らないところで、Dazeの名前は別の場所でも流れていた。
『Dazeって、なんで大会出ないの?』
そんなスレッドが、一つ立っていた。
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