#42 バストアップ!?③
「……ねえ、シャリーさん」
私は床に転がったまま、藁にもすがる思いで顔を上げた。
運動がダメでも、ここは異世界。ファンタジーの理が通じる世界じゃないか。
「シャリーさんって、その……お薬とかにも詳しいですよね?」
「お薬?」
「そう! 毒薬とか、媚薬とか以外にも、飲めば一瞬で疲れが吹き飛んで、バキバキに体が動くようになる魔法の薬とか! ほら、ドーピングっていうか、バフっていうか!」
「……ああ、“努力のショートカット”ね」
「ぐっ……言い方が鋭い」
私の言葉に、シャリーの温度がスッと下がった。
彼女は私の隣に膝をつくと、冷たい手先で私の顎をくいと持ち上げた。
「ええ、鋭く言っているもの。で? 本気で欲しいの?」
「で、できるなら……」
「あるわよ」
「えっ、あるんだ!?」
「ええ。血管を広げて体内の循環を無理やり加速させて、新陳代謝を極限まで引き上げる薬。飲めば確かに、一時的に“動ける身体”にはなるわね」
「それそれそれ! それください!」
「現実の薬学は、あなたが夢想するほど美しくはないわよ。代わりに強烈な副作用がある」
「ふ、副作用……?」
「過剰な利尿作用よ」
「り、りにょう……?」
「簡単に言えば、“ずっとトイレに行きたくなる身体”になるの」
「……はい?」
「想像してみなさい。あなたがドレスを着て、公爵と踊っている場面を」
「う、うん……」
「音楽は最高潮。視線はすべてあなたに集まっている。そこで薬が効き始める」
「おお……」
「同時に、“今すぐトイレに行きたい”という衝動が襲ってくる」
「えっ?」
「ステップを踏むたびに、膀胱が内側から叩かれる感覚。笑顔を保ちながら、必死に耐えるあなた」
「やばい」
「そして、不運なことに社交界を抜け出すのには時間がかかる。一分一秒を争う状況で、それっぽい建前をつくるために頭を働かせる」
「やばいやばい」
「結果は?」
「……詰みです」
「結局、あなたは公妾として崇められるどころか、“舞踏会の最中に顔を真っ赤にして中座し、トイレに立てこもった挙句、間に合わなかった地味な女”として社交界の歴史に名を刻むことになるでしょうね」
「最悪すぎる……」
「それでも飲む?」
「飲みません!! 全力で遠慮します!!」
「賢明ね」
「異世界、厳しすぎるでしょ……!」
私は震える脚に力を込め、再び重力との戦いに挑むしかなかった。
やっぱりこの世界、自然科学が性格悪いくらいに仕事をしている。
「現実はいつだって厳しいわ。特に“楽をしようとした時”はね」
「うぅ……」
「いい? 薬に頼れば、体力の代わりに気品を失うの。社交界でそれは致命的よ」
「ぐうの音も出ない……」
「なら答えは一つでしょう?」
「……自分で動けってことですよね」
「そう。自分の筋肉で支えられない美しさは、ただの見せかけよ」
「うぅぅ……」
「さあ、立ちなさい。続きをやるわよ」
(……ダメだ、薬に頼ったら社会的に死ぬ。それも、一番恥ずかしい形で)
床に這いつくばったまま、私は現実逃避の海へとダイブした。
そもそも、この規格外の重りさえなければ、私は今ごろ軽やかにステップを踏み、シャリーさんに「あら、筋がいいわね」なんて褒められていたはずなのだ。
脳内で、「もしも胸がなかったら」という禁断のシミュレーションを開始する。
床にへたり込んだまま、私は回らない頭で、ありもしない「もしも」の世界を演算し始めた。
(もし、この胸がなかったら……)
脳内のシミュレーターが、私の身体から「規格外の質量」を削ぎ落としていく。
……できた。Aカップ、世の中に溢れる服が何の問題もなく着られる私。
確かに胸の圧迫感はない。肩こりもなさそう。
体育の授業だって、それなりの気分転換になるだろう。
(……あれ?)
頭の中で構成された“胸のない世界線の私”を見て、私は思わず心の中でツッコミを入れた。
胸の主張が消えたせいで、今まで隠れていたお腹周りのぷにっとした存在感が際立っている気がする。
太ってはいないはず。だけど、お世辞にも決して痩せているとは言えない。
もし、胸がなかったとしたら、そこに残されるのは、ごく標準的かつ少々わがままに育った20歳女性のお腹まわりが前面に押し出された、極めて凡庸なボディラインである。
今の私は、胸があまりに突出しているせいで、相対的にウエストがくびれて見える錯覚資産で生きていたのだ。
(……ダメだ。胸がなくても、私はたぶんお腹とか二の腕とかを揺らして走ってるだけだわ)
胸が重いから、走れない。
胸が目立つから、注目されたくない。
胸が揺れるから、外に出たくない。
そういえば。
中学時代、私は厨二病の深淵にいた。生物学の知識を歪曲して解釈し、「人類のメスが胸に脂肪を貯めるのは、邪魔なハンデを背負っていても生存できる“強個体”であることを証明するため」という説を信奉していた。つまり、私は何もしなくても、この胸をぶら下げて生きているだけで“レベルが高い個体”なのだ。そう自分に言い聞かせて、努力から逃げる正当な理由にしていた。
そして、その思想が捻じ曲がって生み出されたのが、自作の暗黒夢小説『SとF』でもある。自分を投影した巨乳の主人公が、それに気づいたイケメンに見つけてもらえる話である。
高校時代、唯一の反抗としてダイエットに挑んだこともある。でも、神様は残酷だった。 食事制限で落ちたのはアンダーバストの肉だけで、カップ数だけが垂直上昇。
「痩せれば痩せるほど胸が強調される」というバグじみた進化を遂げたとき、私は絶望してダイエットサプリをゴミ箱に投げ捨て、ポテチの袋を開けた。
「ルリ? また現実逃避を始めたの?」
シャリーさんの呆れた声が降ってくる。
(そうだよ。私は、ずっと理由が欲しかったんだ……)
でも、本当は。
もし明日、朝起きて私の胸が平坦になっていたとしても、私はきっと「今日は風が強いから」とか「地面の摩擦係数が気に入らない」とか理由をつけて、部屋の隅で推しの祭壇を磨いているに違いない。
「……シャリーさん。私、気づいちゃいました」
「何を?」
「私、胸がなくても運動音痴です。たぶん、魂が運動不足なんです」
床に転がったままそう告げると、シャリーさんは一瞬キョトンとした後、これまでにないほど盛大に吹き出した。
「ふふ、あははは! 魂が運動不足? 面白いことを言うわね。でも、いいわよ。筋肉は嘘をつくけれど、魂の堕落はもっと嘘をつかない。……なら、その怠惰な魂ごと、私が鍛え直してあげるわ」
シャリーさんは私の手を取り、逃げ場のない力強さで引きずり上げた。
「胸があるからできないんじゃなくて、胸があるからこそできるようなことをするのよ。それが、あなたがこの世界で自分を肯定するための、最初の勝利になるわ」
(……うう、理屈は分かるけど、身体がついていかないよぉ……!)
「さあ、立ちなさい。もう一度、ダンスの練習よ。今度は……私を、貴女のその魅力で跪かせてみなさい」
私は深く息を吸い込み、限界まで胸を張った。
ガラスに映る私は、さっきまでの自信なさげな少女ではなかった。




