#41 バストアップ!? ②
シャリーは私をダンスのポーズに誘った。彼女の片手が私の腰に、もう片手が私の手を握る。
「……さあ、私のリードに身を任せて。まずは“完璧な貴族の令嬢”の動きを身体に叩き込むわよ」
私とシャリーの距離が、限界まで縮まる。私の胸が、彼女の身体に押しつぶされる感覚。
逃げ場のない、濃厚な教養と欲望の時間が、再び幕を開けた。
「……さあ、まずは基本的なステップから。私の真似をして」
シャリーが軽やかにステップを踏む。
その姿はまるでダンスの精霊のようで、あまりの優雅さにため息が出る。
「……はい、やってみて」
「う、うん。わかった」
シャリーの動きは、まるで重力を無視した羽毛のようだった。
対する私は、重力そのものを一身に背負った漬物石である。
一歩踏み出すたびに、ドレスの中で支えを失った胸が大きく波打ち、私の体幹を容赦なく揺さぶった。
「っ……、うわっ」
「おっと。……ほら、体幹が死んでいるわよ」
よろけた私の体を、シャリーさんが正面から受け止める。
柔らかい感触と、それを遥かに凌駕する私の圧迫感。
彼女は顔色一つ変えず、私の肩を支えて立ち直らせた。
「……無理です。足元が見えません」
「足元を見る必要なんてないわ。相手の目を見なさい。胸を制御できていないと思わせてはダメ。ゆったりとした振り子のリズムを、あなたの呼吸で支配するのよ」
シャリーさんは私の手を取り、指を絡めた。
「もう一度。私のリードに合わせなさい」
慣れない姿勢、重力との格闘、そして至近距離にあるシャリーさんの妖艶な瞳。
「いち、に、さん……ひぎゃっ!?」
最初の一歩目で、右足と左足がこれ以上ないほど不名誉な形で交差した。
案の定、体勢を崩して前のめりに倒れ込む。支えようとしてくれたシャリーの細い肩に、私の規格外の質量が容赦なくのしかかった。
「……ルリ。今のはダンスというより、暴徒のタックルね」
「ご、ごめんなさい! あの、その……」
言い訳をしようにも、喉がヒューヒュー鳴って言葉が出てこない。
そうだった。私は地味オタク女子大生。
大学の講義は最短ルートで教室に入り、休日は一歩も動かずに推しの祭壇を眺めるのが至福。私の1週間の歩行距離は、おそらく異世界の一般的な村人の1日分にも満たないのだ。
「はぁ、はぁ……ちょっと待って。心臓が、心臓がバックバクで……これ、死に戻りするやつじゃ……」
「……まだ三歩しか歩いていないわよ? それにその呼吸の乱れ、胸の揺れと連動して余計に体力を削っているわね。効率が悪すぎるわ」
シャリーは呆れたように私を立たせると、ビシッと私の背中を叩いた。
「背中に力を入れなさい! そんなんじゃワルツの旋回速度に耐えられず、遠心力であなたが僻地の教会まで飛ばされてしまうわよ」
「物理法則が仕事しすぎだよぉ……!」
再開されたステップ練習。しかし、現実は非情だった。
シャリーが流麗なターンを見せるたび、私は足元がおぼつかなくて生まれたての小鹿のようにプルプルと震える。
(くっ……、脳内では完璧にシミュレーションできてるのに! 音ゲーならボタン一つで『Perfect!』が出るはずなのに!)
現実はQTEが発生する間もなく、膝が笑い、視界がチカチカする。
さらに最悪なことに、激しく動くたびに「ドゥン、ドゥン」という重量感のある衝撃が胸元から全身に伝わり、スタミナを猛烈な勢いでドレインしていく。
「……ルリ、顔が真っ青よ」
「……シャリーさん……これ……運動不足とかいうレベルじゃ……あ、天井が回ってる……」
私はそのまま、教会の冷たい床へと崩れ落ちた。
スローライフへの道は、まず「1分間連続で動ける体力をつける」という、あまりにも低レベルなクエストから始まるようだった。
「……信じられない。あなた、本当にあの女神様に選ばれたの?」
シャリーは呆れ果てた表情で、私の鼻先をこづいた。
「運動不足すぎるわ。身体の重心が胸に持っていかれすぎている。……これでは、ダンスなんて夢のまた夢。まずは体幹を鍛えないと、武器を振るう以前の問題よ」
私は恥ずかしさで顔を真っ赤にし、下を向くことしかできなかった。
異世界に来てまで運動音痴という現実に直面するとは。
「……でも、いいわ。その鈍臭さが、かえって男を引き寄せる可能性があるかもしれない。ただし、守りたくなる女と、舐められる女は紙一重よ。いい? 来月までにはステップを洗練させるからね。……私から離れないで」
シャリーは再び私を引き寄せ、強引にステップを刻み始めた。
そのリードに必死についていくたび、胸元が激しく、そして重く主張する。
(……そう、これ。この感覚が、私を運動から遠ざけていく)
思い出すのは、学生時代の体育の時間。
12歳の頃には、すでに今のシャリーと同じくらいの胸、Dカップに達していた私の身体。
それは、ただステップを踏んで跳ねるだけで、男子たちの卑猥な視線を一箇所に集める客寄せパンダ状態だった。
運が悪いことの極みと言うべきか、ちょうど私の世代から体育の授業でダンスが完全必修化されたのである。
『現代的なリズムのダンスを通じて、豊かな表現力や想像力を育み、仲間とのコミュニケーション能力を向上させ、健やかな運動能力の向上を目指す』なんて、偉い人たちがのたまっていた。
しかし、私に身についたものなんて、何ひとつない。
コミュニケーション能力は地を這うままで、運動能力の向上もシャリーさんの指摘どおり。
しいて言えば、私の胸だけが意図せずして豊かな表現力を磨き上げていた。ステップを踏むたび、ターンをするたびに、その圧倒的な質量が「ここにいるぞ」と周囲を黙らせるエロティックな自己主張を勝手に炸裂させてしまう。
(揺らしちゃダメ、目立っちゃダメ……!)
体育館の床。フォークダンスや現代のステップの練習。
私は「優雅に踊ること」ではなく、「いかに胸を揺らさずに最小限の上下動でやり過ごすか」という、物理法則への反逆みたいなミッションに心血を注いでいた。
ターンをする直前、私は恐る恐る自分の胸元を見た。
一番恐れていたのは、汗が体操服の生地を裏側から侵食し、濃いシミとなって浮き出てくること。胸の形をカモフラージュするための重ね着が、逆に汗を呼び、湿った生地が身体のラインを無情にも強調してしまう。
(隠すために厚着をしているのに、そのせいで汗をかいて、余計に目立ってしまう……)
この出口のない矛盾が、私の心をさらに削っていく。
音楽が鳴り、ペアや周囲と合わせて動かなければいけない時間。
私は両腕を胸の前で不自然に抱え込むようにして、縮こまったままロボットのようにギクシャクと動いた。結果としてフォームは無茶苦茶、リズム感は皆無。
遠くの列から聞こえる「白川のところだけ、なんか別の生き物揺れてね?w」という男子のニヤついた声と、女子たちの冷ややかな、あるいは同情を含んだ視線。
私にとって運動とは、健康のためでも楽しみのためでもない。
ただひたすらに自分の身体が性的で滑稽なコンテンツとして消費されるのを耐え忍ぶ、公開処刑の時間でしかなかったのだ。
(だから、動きたくない。目立ちたくない。……あんな惨めな思いをするくらいなら、一生部屋で推しのポスターを眺めていたいのに!)
「……ルリ? 足が止まっているわよ」
低く落ち着いた声に、はっと意識が引き戻された。視界の奥で揺れていた過去の光景が霧のように消えて、代わりに目の前にいるシャリーの瞳がはっきりと焦点を結ぶ。
「あ……ご、ごめんなさい」
「謝る必要はないわ。でも、意識が外に逃げたままでは身体はついてこない」
シャリーはそう言って、私の背中にそっと手を添えた。
「姿勢を意識しているのは伝わるけど、まだ合格点は出せないわ」
「え……?」
「背筋も伸びた。顎も上がった。視線も以前よりずっといい。少なくとも、最初に会ったときのような『私を見ないでください』という姿勢ではなくなっているわ」
「そ、そんなに分かりやすかったですか……?」
「ええ。あなたは分かりやすいもの」
「うぅ……」
シャリーは少しだけ目を細めた。
「私も、昔は似たようなことを考えていたわ」
「え?」
「……今の私を見ていると、想像しにくいでしょうけれどね」
彼女は自分の腰元をちらりと見下ろした。
「昔は、今よりずっと身体の線を隠す服を選んでいたのよ」
「そうなんですか?」
「ええ。女の身体なんて、変わるものよ」
それ以上、シャリーは詳しく話さなかった。
けれど、その言葉には妙な実感があった。
「じゃあ……シャリーさんも、身体のことで悩んだことが?」
「もちろんあるわ」
あまりにもあっさり答えられて、私は目を瞬いた。
「人間ですもの」
「……なんか意外です」
「失礼ね」
「す、すみません!」
シャリーはくすりと笑った。
「でもね、身体が変わったから悩みが消えたわけではないの」
「……?」
「今のあなたが胸を小さくできたとしても、きっと別のところを気にするようになるでしょう」
「……あ」
「人は、自分の嫌いなところを見つけるのが得意なのよ。だから、身体を変えることより先に身体の扱い方を覚えなさい」
「扱い方……」
「問題は動いた瞬間よ。静止していれば、貴族の令嬢として通用するわ。でも、そうね、動いた瞬間に全部台無しになっている」
「そこ重要すぎません……!?」
「だからこそ基礎は活かしなさい。素材は悪くないのよ、あなた」
(……待てよ? ここはファンタジーの異世界。そして目の前にいるのは、薬物にめちゃくちゃ詳しい元貴族の公妾……)
私の邪悪なオタク脳が、限界を迎えた体力の底から、ひとつの禁断の裏技を弾き出していた。




