#36 スローライフのために⑥
チュンチュンと窓の外から聞こえる鳥のさえずりが、爽やかな朝の訪れを告げていた。
「……う、うう……」
布団から這い出た私の顔は、おそらく徹夜明けの受験生より酷いことになっていたと思う。眠れなかった。
恐る恐るリビングへ向かうと、そこにはすでに、いつも通り完璧に身支度を整えたノエルの姿があった。
「……っ。あ、おはようございます、ルリ様」
「おはよ、ノエル。……って、あれ?」
習慣とは恐ろしいもので、彼は条件反射で「様」をつけて私を呼び、その瞬間にハッと目を見開いて動きを止めた。
昨夜の「様、もいらない」という私のセリフが、彼の脳内で盛大にリフレインしたのだろう。ノエルの耳の先端が、見る見るうちに真っ赤に染まっていく。
「い、いえ……。ルリ……、おはようございます」
(――ひゃんっ!!!)
ダイレクトアタック2日目。私のライフポイントが削られる。
朝一番の呼び捨ての破壊力は、寝不足の脳みそを粉砕するのに十分すぎた。
お互いに顔を真っ赤にしたまま、ロボットのようなぎこちない動きで食卓につく。
並んだ朝食は、昨日私が煮込んでおいたシチューの残り。
スプーンが皿に当たる音だけが、やけに大きく響く。
「……あ、あの、ルリ。今日の、ご予定は……。また、ギルドへ行かれるのですか?」
「あ、うん。仕事を探すのと、昨日、教会のシスターのシャリーさんと約束があって」
ノエルは少しだけホッとしたように、けれどどこか寂しげに目を伏せた。
新しい勇者が来れば、この平穏な同居生活は終わる。
その現実に、私だけじゃなく、彼もまた胸を締め付けられているのが分かった。
「くれぐれも、気をつけて」
「うん、ありがとう。ノエルも、次の……その、お仕事、頑張ってね」
お互いに、それ以上は言えなかった。
そんな甘酸っぱくて切ない距離感のまま、業務連絡のような会話だけを交わして、ノエルを仕事へと送り出す。
ガチャリ、と玄関の鍵が閉まった瞬間。私はその場にへたり込み、両手で顔を覆って音のない絶叫をあげた。
「………………はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
私はその場にへたり込み、肺に残っていた酸素をすべて吐き出すように長いため息をついた。
誰もいなくなったリビング。急に静まり返った空間で、冷気とともに「現実」が私の脳細胞に染み渡っていく。
さっきまでの、少女漫画の1ページみたいな空気は一体何だったんだ。
私は両手で顔を覆い、心臓の爆音を落ち着かせようと深呼吸を繰り返した。
(死ぬ!!! 恥ずかしさで脳の血管が何本か弾け飛んだ気がする!! 完全にパートナーじゃん!!!)
床をゴロゴロと転がり回りたい衝動を、胸を揉むことでどうにか鎮める。
……いや、落ち着け私。羞恥心でセルフ爆死している場合じゃない。
(……よし。一回冷静になろう)
私は、ダイニングテーブルにノートとペンを引っ張り出してきた。
神聖かつ冷徹なオタク脳を呼び覚まし、ドカリと行き場のない胸の質量をテーブルに預けて、これがシャリーさんの言う二流の愛人ムーブだと気づいて赤面しつつも、私はペンを走らせた。
昨夜、ノエルから聞いた「新しい勇者」の存在。 正直、想像しただけで胃のあたりがキリキリと痛み出す。
(新勇者、かぁ……。一体どんな人が来るんだろう……)
これまでの経緯から、標準的な防具を装備できる人物であることは間違いない。
体型にコンプレックスなどなく、陽の者である可能性が高い。
前世のラノベの知識を総動員してみる。
チート能力で無双するイキリ系の男か、あるいは高飛車なエリート名門令嬢か。
どちらにせよ、人見知りでコミュ障の私にとっては絶望的に相性が悪そうな人種だ。
私にとって、その未来にやってくる見知らぬ勇者のポジションは、前世の言葉で言うならこうだ。
ちょっと仲良くなった友達の、友達。
一番会話の難易度が高くて、共通の話題がその「友達」しかなくて、二人きりにされた瞬間に気まずさで窒息死しそうになる、あのポジションである。
しかも私は、防具が入らなくてクビになった元勇者(無職)で、相手は本物の新勇者。
なにその気まずい胸囲の格差社会。
新勇者から『あ、君が噂のおっぱいが大きすぎてクビになった前任者さん? 受ける〜w』とか思われたら、恥ずかしすぎて魔物の群れに特攻するレベルなんだけど!?
だけどそこで、私の邪悪なオタク脳が、ふと別の可能性を弾き出してしまった。
何らかの理由で、新勇者パーティに私がついていったら!?
そして、その新勇者が女の子だったら?
受け身なノエルと、積極的な女の子の勇者。旅の途中で2人の距離が縮まって、あんなことやこんなことになるかもしれない。いや、待てよ?
もし、その美少女勇者(貧乳)が、私の胸をめちゃくちゃ意識してきたらどうしよう!?
私の胸をチラチラと見てしまうノエル。
それに気づいた美少女勇者が、「ちょっとノエル! どこ見てるのよ! 私のほうが君のサポートを……っ、べ、別にアイツの胸が羨ましいわけじゃないんだからね!」って頬を染めて嫉妬するやつ……!!
(――神シチュエーションでは……ッ!?!?)
ノエルの無自覚な視線にハラハラしつつ、美少女勇者からの「おっぱいへの敗北感と嫉妬」を一身に浴びるポジション。ノエル×新勇者の公式カプを拝みつつ、間にある私は2人から巨大な感情を向けられる。限界オタクの福利厚生が手厚すぎて、供給過多で死ぬ!!!
じゃあ逆に、新勇者が男の子だったら?
チート能力持ちの俺様新勇者と、実直なエリート兵士のノエル。2人のイケメンが、なぜか無職の私のために火花を散らすのだ。
(『おい、ルリに気安く触るな』『ハッ、お前こそ彼女をいつまで縛り付けるつもりだ?』とか言われちゃったりして……! え、何それ、『やめて、私のために争わないで!』のやつじゃん!!! ニヤニヤが止まらん!!!)
勇者の腰巾着(パーティの寄生虫)として後ろにくっついていけば安全だし、ついでに極上の恋愛エンタメまで最前列で楽しめる。陰キャらしく強い奴の威を借り、強い奴らの関係性にハァハァしながら“おこぼれスローライフ”を送る。最高か?
(よし、そのルートも想定してノートに複雑な勢力図の矢印を書き殴って)
(……って、この、ストーリーを描いて一人でニヤニヤ妄想してる今の状況……)
強烈な既視感。
できれば来世まで脳のパンドラの箱に封印しておきたかった、超ド級の黒歴史が脳内を直撃した。
中学二年生の夏。自作の夢小説を夜な夜な執筆していた暗黒時代。
地味で冴えない自分を投影した主人公(Fカップの隠れ巨乳)が、学校一のイケメン(オレ様系のドS)に見つかって溺愛される都合のいいシンデレラストーリー(脳内設定資料集つき)だった。
それに嫉妬したオタ友男子がライバルポジとして登場する。
タイトルは『SとF ~禁断の果実から零れ落ちる恋の行方~』
なお、現実の私に男子のオタ友なんていない模様。なんなら、隠れ巨乳ですらない。
実際の私は、隠れるどころか、体操着を着れば一人だけパツパツで、男子からは裏でヒソヒソ噂される日々。それにも関わらず、陰の者なので表立って触れられることもない。
(――やめろぉぉぉおおおおお!!! 思い出すな!!! 痛々しいタイトルを脳裏にフラッシュバックさせるなぁぁぁああ!!!)
ペンを握ったまま、あまりの精神的ダメージに白目を剥いて硬直する。
……いや、待て。 本当に恐ろしいのは、過去の黒歴史そのものじゃない。
「私……、やってること、今とまったく同じじゃん……ッ!!」
がくがくと膝の震えが止まらない。
プロットの骨組みが、驚くほど完全一致している。
進歩していない。前世の私から、異世界に転移した現在に至るまで、私の脳みその構造は中二の夏から一歩も前に進んでいなかったのだ。
成人を迎えて、世界線まで超えたというのに、中身はまだ『SとF』の世界線に生きている。
外見だけがFの遥か向こう側に飛び出している。
「う、うわぁぁぁぁぁぁん!! 成長してない!! いや、成長したのは胸のサイズだけ!!!)
方向性が邪悪かつリアルに拗れた分、中二病の時よりタチが悪くなっている。
しかし、現実逃避から戻ってきた私の前に、非情な現実が立ち塞がる。
いや、新勇者について行くとか妄想したけどさ。よく考えたら、勇者パーティに無職の巨乳なんて、いらねーわ。
正統派の冒険にパフパフは必要ないのだ。
現実は夢小説じゃない。
どれだけ胸が大きく実っていようが、戦闘力ゼロの無職を連れて歩いてくれる奇特な勇者がいるはずもない。ギルドをクビになった時点で、私はただの身元不明の居候なのだ。
まず第一に解決しなければならないのは、この圧倒的な経済的・社会的立場の弱さ、つまり収入問題だ。
男にただ身を委ねるだけでは、シャリーさんの言う通り、一ヶ月で遊び飽きられて僻地に流刑されるバッドエンド一直線。自立するための資金源が絶対にいる。
「……とりあえず、ギルドに行こう」




