#35 スローライフのために⑤
私の問いかけに対して、ノエルはすぐに答えなかった。
ただ、手元のシチューを見つめたまま、逃げるように視線を落としている。
「……ルリ様の仰る通りです」
ようやく絞り出された声は、ひどく掠れていた。
「ルリ様は、ギルドの登録上……いえ、この国の公式な記録上では、もう勇者ではありません」
分かっていたことだ。おととい、あのコリンたちから宣告されたのだから。
でも、それを一番近くで支えてくれていたノエルの口から聞かされるのは、胸の奥を鋭い針で刺されるような痛みがあった。
「でも、ノエルは“勇者のサポート”が仕事だって……」
「はい。ですから、私の今の仕事は……」
ノエルは一度言葉を切り、意を決したように顔を上げた。
その瞳には、私を憐れむ色ではなく、残酷なまでに真面目な兵士としての光が宿っていた。
「次なる勇者を迎え入れるための、準備です」
(……次なる、勇者?)
頭を殴られたような衝撃だった。
当たり前だ。私がダメだったからといって、魔物が溢れるこの世界が救世主を諦めるはずがない。
——『剣を扱う勇者様や、斧を使う勇者様など、皆様得意な得物が異なります』
それに、過去のノエルの発言も勇者が複数名いることを示唆していた。
「……もう、決まってるの?」
「召喚の儀式は、来月の社交会に合わせて執行される予定だと聞いています。……おそらく来月には、新たな勇者がこの街に現れるでしょう。私は、その方が召喚された瞬間に、次のサポートへ移るよう命じられています」
ノエルの言葉が、冷たい水のように私の全身を浸していく。つまり、ノエルが私と一緒にいてくれるのは、次の勇者が来るまでの“繋ぎ”の時間でしかない。
今のままだと、新しい勇者が来た瞬間にノエルとの関係性は途切れる。
おそらく、この家からも出て行くことになるだろう。
「……そう。……そうなんだ」
ノエルは、優しい。優しすぎるくらい優しい。
でもその優しさは、道端で傷ついた子猫を見つけた時のものに近い。
可哀想だから放っておけない。一人では生きていけなさそうだから助ける。
——それは、好意を寄せる異性に対する優しさではない。
そんな考えが浮かんでしまって、私は自分で勝手に傷ついた。
「……そっか」
笑おうとした。ちゃんと、大人っぽく。余裕のある女みたいに。
でも、喉の奥が少しだけ震える。
私は、必死に声を震わせないようにして、スプーンを置いた。
シャリーさんに教わった「主導権を握る」なんて余裕、一瞬で吹き飛びそうになる。
でも、ここで泣きついたら、私は本当にただの「可哀想な居候」で終わってしまう。
「……ねえ、ノエル。一つだけ、今のうちに確認させて」
ノエルが息を呑み、身体を強張らせるのが伝わってくる。
今の私には、その反応さえも、自分を保つための糧になる。
「何、でしょうか……?」
「ノエル、私のこと、どこかの貴族の娘か何かだと思ってない? 没落して行き場をなくした、勇者ですらない可哀想なお嬢様……とかさ」
ノエルの沈黙が、何よりの肯定だった。
彼はやっぱり、私を“高貴な触れてはいけないもの”として見ていたのだ。家柄が良いから胸も立派で、だからこそ大切に扱わなければいけない、というこの世界のフィルターを通して。
「残念でした。私、あっちの世界ではただの平民。……っていうか、しがない学生だったんだよ」
「……えっ? 平民……ですか?」
ノエルが呆然と目を見開く。
「そうだよ。家柄なんて一ミリもないの。高価な食事なんて食べたことないし、マナーだってネットの知識。……この胸だって、単に栄養が偏ったか遺伝子がバグっただけの脂肪の塊なんだから」
私は自分の胸元を、自嘲気味に、けれどどこか挑戦的に指し示した。
「この世界じゃ、これが高貴さの象徴かもしれないけど。……私にとっては、ただの重荷で、服のサイズを狂わせるだけの厄介な肉塊。……中身は、ノエルが思ってるような清らかなお嬢様なんかじゃないんだよ」
ノエルの視線が、私の言葉に導かれるように、チュニックの起伏を彷徨う。
「……信じられません。これほどの……これほどの方であれば、本来なら王族に連なる血筋でなければ説明が……」
「説明なんていらないの。……ただ、大きいだけ。そこに理由も、高貴な義務も何もない」
私は机から身を乗り出し、呆然とするノエルの顔を覗き込んだ。
シャリーさんに教わった通り、瞳を少しだけ潤ませ、湿り気を帯びた声で追い詰める。
「だから……そんなに敬語で、遠くにいなくていいんだよ? ノエル」
「ルリ、様……」
「様、もいらない。……私はただの、ギルドのクエストで小銭を稼ぐような、高貴さとは程遠い普通の女」
「ル、ルリ……は」
ノエルの唇から、掠れた声で私の名前が零れ落ちる。
「様」のつかない、ただの、私の名前。
(――ひゃあああああああああああ!!!!)
その瞬間、私の脳内で有色大爆発が起きた。
偉そうに余裕のある女ムーブをかましていた自覚はどこへやら、3次元の異性から呼び捨てにされた経験なんて、前世の人生を含めて一ミリも存在しない。
心臓がドラムの連打みたいに跳ね上がり、顔が爆発寸前まで熱くなる。
(まずい!! これ私が先に限界迎えるやつじゃん!! シャリーさん助けて、呼び捨ての破壊力が想定の十倍は超えてるんだけど!?)
必死でポーカーフェイスを維持しようとするけれど、耳まで真っ赤になっているのは隠しようがなかった。
「あ、いや……、つまり、その……」
私は慌てて身を引き、さも“一歩引いた大人の余裕を持つ、サバサバした同居人”を装うために、無理やり普通のトーンで声を紡ぎ出す。
「……だから、新しい勇者様が来るまでの間、お互いにしっかり準備をしないとね。ノエルは次のサポートの予習、私はこの街で一人で生きていくための資金稼ぎ。うん、お互いにやることがいっぱいだね」
我ながら完璧にビジネスライクな“おまとめ発言”だった。
「……は、はい。そう、ですね」
ノエルは、掠れた声で辛うじてそれだけを返した。 その顔はどこか赤く、けれど兵士としての規律で必死に表面上の平静を保とうとしているのが分かった。
「ル、ルリ……が、そこまで深くこれからのことを考えているとは、思いませんでした。私も、次の任務に向けて、しっかり準備を整えます」
「うん、よろしくね」
お互いに、これ以上この話題に触れたら破裂する。
そんな無言の防衛本能が働いたのか、そこからの夕食は奇妙なほど「普通」に進行した。
シチューの味を褒め、明日の天気の話し、ギルドの一般的な治安について語る。
表面上は、どこにでもある穏やかな同居人同士の会話だった。
しかし、お互いに視線だけは絶対に合わせようとしなかった。
食事を終え、食器を洗い、お風呂を済ませる。
ベッドに潜り込んだ瞬間、私は布団を頭から被って、声の出ない絶叫をあげた。
(死ぬ!!! 恥ずかしさで死ぬ!!! 何が『様もいらない』だ!! どの口が言った、この地味オタク!!)
隣からは、ノエルが寝返りを打つ衣擦れの音が、いつもより心なしか慌ただしく聞こえてくる。
彼もまた、表面上の「普通」を維持するために、今夜は一睡もできない夜を過ごすのだろう。




